雨あがる

阿紋

雨あがる

 山間の街道を、籠を背負って歩く妙。その足取りは、妙の背負っている籠同様に軽々しかった。麓の町での商いは思いの外順調で、背負っていった籠いっぱいの作物はほとんど売れてしまった。今では妙が来るのを待ちわびている客もいた。妙は街道にそびえ立つ大木の前で立ち止まり、大木の上に広がる空を見上げた。空は赤く染まりかけている。妙がふと大木の根元のほうを見ると、男が大木に寄りかかって腰を下ろしているのが見えた。侍のようだった。関わりにならない方がいいと思い、妙がその脇を静かに通り過ぎようとしたとき、その男は腰を下ろしたままゆっくりと妙の歩く街道のほうに倒れ込んできた。男は目を閉じたままピクリとも動かない。

「お侍さん、お侍さん」妙はその男に近づき、声をかける。男は妙の声に全く反応しない。妙はしゃがみ込んで、男の体を揺らした。

「お侍さん」妙は、再度声をかける。

 男の目がゆっくりと開いた。男は自分の傍らにしゃがみ込んでいる妙に気づく。

「気がつきましたか。良かった」

「そなたは」

「近くに住んでいる妙と申します」

「かたじけない。どうやら眠り込んでしまったようだ」

 男は体を起こして立ち上がる。妙も立ち上がって、男の脇に立った。男は歩こうとするが足元がふらついてうまく歩けない。

「大丈夫ですか」男の体を支える妙。

「すまぬ。ここ二日ほど何も口にしておらぬのだ」

「それはいけません。私の家に参りましょう」妙は男の体を支えながら、ゆっくりと歩きはじめる。

「そういうわけには」男は妙から離れる。

「遠慮はいりませんよ。すぐ近くですから」

「それに、もうじき日が暮れます」

 妙をじっと見つめる男。再度体を支えようとする妙を遮って、よろよろと歩き出す。妙も男を追って歩きはじめた。

「妙さんと言ったな。拙者は近藤と申す」

 二人の前に夕日に染まった棚田が姿を現し、棚田の向こうに小さな小屋が見えた。

近藤と名乗った男の足取りは、はじめはふらふらとしていたが、浪人といえ、武士らしく気丈で力強いものに変わっていた。しかしそれは、余裕があるようにみえながら、明らかに空元気であることを妙は容易に見抜いていた。そしてそれを微笑ましく思いながら、妙は近藤の半歩うしろを寄り添うように歩いて行く。二人が棚田の向こうの小屋に近づくころには、あたりはすっかり暗くなっていた。そして二人を向かい入れるように小屋に明かりが灯った。

「母上、お客様をお連れしました」小屋の戸口を開ける妙。小屋の中を覗き込む近藤。

「お入りください」母親の返答を待たずに妙は近藤を招き入れ、少しためらいながら近藤が小屋の中に入っていく。小屋の戸口が閉まり、戸口から洩れていた明かりが消えた。


 囲炉裏に座り、握り飯を食べている近藤。囲炉裏から少し離れたところに妙と妙の母、加代が座っていた。

 握り飯を食べ終えた近藤は、椀に入っていた水を飲み干した。

「もう少し、お上がりになりますか」

 椀を置いた近藤を見て、加代が訊いた。

「いやもうけっこう」

「こんなものしか出せませんが」

「とんでもござらぬ。拙者にはご馳走でした」

「それに、急に詰め込んでも体が受け付けません」

「お侍さんは、どうしてあんなところにいらっしゃったのですか」

 妙がそう言って、近藤を見た。

「こら、お妙」加代が妙を遮った。

「お母上、かまいませぬ。お妙さんは拙者にとって、命の恩人でもあるのですから」

「そんな大げさな」加代が近藤を見て言う。

「拙者は訳あって故郷を追われた身。いつ野垂れ死んでも、不思議ではないのです」

「追われているのですか」妙が近藤を見る。

「今のところ、追っ手は来てないようですが」

「差し出がましいようですが、ここでしばらくお休みになってはいかがでしょう」

「近藤様、母の言うように、元気になられるまで、しばたくここに滞在してください。身の回りの世話は妙がいたします」

「それは、心強いが」近藤、妙の申し出に戸惑いながら答える。

「そうなさってください」加代はそう言うと、妙を見る。加代と妙、たがいに微笑んだ後、近藤を見る。

「とにかく拙者としても、この恩義は返さねばなるまい」しばし思案したのち、近藤がつぶやいた。

「男でも必要でしょうし」

「それにはまず、元気になっていただかないと」

「母上、まだお酒は残っていますか」妙は近藤に近づき、近藤の前に置かれたお椀を手にした。

「少しだけならありますよ」

「召し上がりますか」

「さようならば、少しだけ」

「ご安心ください。ほんとに少しだけですから」


 若葉の緑が眩しい初夏の穏やかに晴れた日。近藤と妙は棚田の畔に腰を下ろし休憩をとっていた。二人から少し離れた畦道を籠を持って歩いている加代の姿が見えた。彼らの後ろには新緑の山が萌え、その上方には青というよりも、若干水色がかった空が広がっていた。

近づいてくる加代に気がついて、近藤と妙が加代のほうを見て立ち上がった。そして、近くの木陰に移動する。加代も二人を追って木陰に向かって歩いて行く。

 木陰に腰を下ろす、近藤と妙。

「いつも助かります」

「体を動かしていた方が、私も気がまぎれるので」

 微笑む近藤と妙。

「右近様は、剣術の稽古などされなくてもよいのですか」

「私は剣術が苦手でして」

 照れ笑いをする、近藤。

「それは残念です。機会があれば、教えていただこうと思っていましたのに」

「お妙さんは活発ですな」

 木陰に着いた加代は、下げていた籠を二人の前の草の上に置き、片方の手で額の汗をぬぐった。そして、ゆっくりと大きな息をする。

「近藤様、お昼にいたしましょう」

「かたじけない」

 近藤、見上げるように加代を見た後、ゆっくりと頭を下げる。

 加代は籠の前に膝を立てて座ると、籠にかぶせていた布をとって、それを草も上に敷いた。それから籠の中の食べ物をその布の上に置いていく。

 近藤、握り飯をひとつ手に取り、立ち上がって前方に踏み出した。

「ここの棚田は見事ですな」

 近藤、そう言ったあと、握り飯にかぶりつく。近藤を見上げる妙。

「右近様、そのお姿では、とてもお侍様には見えませんね」

「それはお二人とて、同じではありませぬか。言わずともわかります」

 近藤、振り返って加代と妙を見る。

「やはりお分かりでしたか」うつむきながら加代がつぶやいた。

「なあに、詮索はしません。お互い様ゆえ」

 近藤、棚田のほうに向き直って、二人に背中を向ける。

「ここにいるのは、百姓の親子。それでよいではありませぬか」

じっと、近藤の背中を見つめる妙。


 屋根に当たる雨音が小屋の中に静かに響いていた。季節は梅雨。よどんだ空気が人の心までも支配されているように感じられた。光を入れる窓の近くで縫物をしている加代。土間で草履を編んでいる、右近。奥にいた妙が立ち上がり窓に近づいていき、窓の外の様子をうかがう。

「まだ、止みそうにないかい」

 自分の脇に立つ妙を見上げながら、加代が尋ねる。妙は窓から少し離れ、加代を見る。

「母上、誰か来ます」

 しばらくして、戸口を叩く音。戸口を見る加代と右近。

妙、戸口に近づいて、戸口を開ける。

戸口の外には、傘をかぶった若い女と従者が立っている。若い女はその物腰から武家の娘のように思えた。加代、縫物をやめて戸口のほうに歩いて行く。右近は戸口から顔が見えぬように、戸口に背を向ける。

「どうなさいました」妙が戸口に立つ女に声をかける。

「突然すまぬ。雨が止むまで、休ませてもらえぬか」

「それは大変でございました」

 加代はそう言ったあと、妙に下がるよう手で合図した。

「どうぞ中にお入りください。囲炉裏に火を入れます」

「それは、かたじけない」

 そう言って中に入ろうとする従者を若い女が制して言う。

「いや、軒先を借りられれば、それでよいのだ」

 従者を鋭い目で見る、若い女。そんな若い女を見る加代。

「それでは濡れてしまいます」

「軒先で十分だ。空も明るくなり始めている」若い女が強い口調で言った。

「さようですか」

 そう言って加代が半歩下がると、若い女は小屋の中を覗き込む。

「それより、つかぬことを聞くが、奥の男は先の娘の連れ合いか」

「さようでございますが、何か」

「いや、何でもない」

 若い女はそう言って、戸口を閉めた。うつむいたまま戸口の方を向く右近。右近の様子をうかがう妙。

 窓から差し込む光が強さを増し、雨音が弱まる。戸口に近づき、戸口を開ける妙。若い女と従者はすでに姿を消していた。外に出てあたりを見わたす妙。

「誰もいない」振り返って、小屋の中に戻る妙がつぶやく。

 右近、ゆっくりと顔を上げ、妙を見る。

「あの女は、あやめと申して、わしの妻だ」

「見つかってしまいましたか、逃げなくていいのですか」右近を見つめる妙。

「逃げんよ、ここはもうわしの家だ」

 立ち上がって戸口に向かう右近。戸口から外に出ると、右近は大きく背伸びをする。

「わしは入り婿で、あの女には頭が上がらなかった」


 梅雨も明けたようで、夏の日差しが降り注ぐ中、右近は体をかがめて、棚田の草を引いていた。右近が少し顔を上げると、小走りで右近に近づいてくる妙の姿が見えた。

「右近様、大変です。あやめ様がまた訪ねてまいりました」

 いつもより少し大きめの妙の声を聞き、腰を伸ばして妙を見る右近。

「あわてるな。わしは逃げぬと言ったであろう」

 棚田をゆっくりと歩いて、畔に上がる右近。あやめが近藤に近づいてくる。妙に渡された手拭いで汗を拭く右近。あやめ、右近の前に立つ。

「そなた、よく顔を見せてはもらえぬか」

 右近の伸びた髪をかき分け、右近の顔を見るあやめ。

「そなた、右近と申すか」

 右近、黙ってうなずく。

「私の婿殿も右近と申してな、雨の日に訪ねた際、そなたに似ているような気がして、こうして確かめに参ったのだが」

 あやめをじっと見る、妙。

「どうやら、人違いだったようだ」

 あやめ、妙を見て微笑む。

「ただし、右近という名は百姓には似合わぬ。今後は別の名を名乗るとよい」

「何と名乗れば」落ち着いた様子であやめを見る、右近。

「そなたの好きに」

「では、そのように」

 あやめ、右近から目をそらし、妙を見る。

「娘。私の婿殿はだいぶ窮屈を感じていたようだ。大事にされよ」

「ありがとうございます」

 あやめに深々と頭を下げる妙。右近を一瞥し、二人から離れていくあやめ。待っていた従者を連れてきた道を戻っていくあやめ。

 離れていくあやめを、見えなくなるまで目で追う右近。右近の目の先には青い夏の空が広がっている。

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雨あがる 阿紋 @amon-1968

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