誘拐少女と探偵 - 15

 夕食の時間になると、まだ心に引っかかるものを感じてはいるものの、いつも通りに過ごせるようになっていた。


 もっとも、監禁されている人間の「いつも通り」は、他人には異常に見えるのだろうけれど。


 今日、男が持ってきたのはコンビニのおにぎりだった。月乃ちゃんが選んだ鮭と昆布のおにぎりの包装を剥がしてあげる。手元に残ったのはイクラ一個と梅二個のおにぎりは僕の分となる。


 月乃ちゃんは梅が苦手みたいで、ここ数日よく梅おにぎりを食べている。僕もすっぱいものが得意なわけではないのだけれど、ここでは文句を言える相手もいなかった。


 月乃ちゃんは食事のときは静かで比較的ゆっくりと食べることが多いのだが、今日はお腹が空いていたのか、がっつくように小さい口におにぎりを押し込めていた。案の定、勢いよく飲み込んだ米粒が変なところに入ってしまったようでむせてしまい、米を口から盛大に吐き出す。


 僕が慌てて水の入ったペットボトルを渡すと、僕以上に慌てていた月乃ちゃんはペットボトルを傾け過ぎて、服やズボンを盛大に濡らした。辺りを見回しても手元に水を吹き取れるものはない。かといって真冬にびしょびしょの服を着ていては風を引いてしまう。自由が利かないこの状況で体調を崩すことは何としても回避する必要があった。


 やむを得ず僕は毛布で拭くことにした。何度も擦ることである程度の水気は取れたみたいだが十分とは言えない。身体を冷やさないため服を脱がし、僕の分も二枚の毛布を被せる。


 ひとまずの手は打ったが、いつまでも裸でいるわけにもいかない。すぐに服を乾かす必要があったが、ただでさえ冬で気温が低いうえに、閉じ込められている僕らには室外で干すことができなかった。


 どうしたものかと考えた末、ドライヤーで乾かすことにした。夕食を僕らに渡した男はいつも通りに部屋を出て行ったようなので、見つかることはない。そして都合のいいことに、手錠を外すための鍵はポケットの中にある。


 僕は手錠を外すと、心配そうにこちらを見る月乃ちゃんにハンドジェスチャーですぐに戻ることを伝えると立ち上がった。念のため音を立てないように扉を開けて、リビングを覗いてみる。電気は付いたままだが男の姿はなかった。


 リビングを横切り、リビングから廊下に出るドアの前に立った。廊下の左側に浴室であろうスペースに繋がる扉があったことを、紅坂さんと忍び込んだときに確認している。足音を殺して廊下に出ると、ゆっくりと進んでいく。男はいないとわかっていても緊張感がある。


 そのときだった。廊下の右側の扉から誰かの声がして、僕の身体は金縛りにあったみたいに硬直する。身動き一つできない状態の中、その声だけが耳に届いてきた。


「こっちは特に問題はない。万事うまく進んでいるぜ」


 男の声だった。外出したものとばかり思っていたが、まだ部屋の中にいたのだ。


 やってしまったという焦燥感に駆られる。極限とも言える監禁生活のはずが、何日も過ごすことでわずかな気の緩みが生まれたのかもしれない。してはいけないミスをしてしまった。


 しかし、いつまでもここで固まっているわけにはいかない。男が部屋から出てきたときにバッティングしてしまう。


 僕は慎重に、そしてゆっくりと身体を反転させ、月乃ちゃんのいる部屋へ戻ろうとした。


「そうか。そっちも順調なんだな。ここでの生活にも終わりが見えてきたようで安心したぜ」


 男は誰かと電話しているようだった。さすがに相手の声は聞こえない。男の声を片耳で聞きながら、忍び足で月乃ちゃんの元へと急ぐ。


「ああ、よろしく頼むぜ。紅坂」


 その言葉を聞いた瞬間、足が止まった。後頭部をハンマーで殴られたような衝撃があった。すぐにここから離れる必要があるのに、身体が前へ進まない。それなのに思考だけははっきりとしている。


 どうして男の口から紅坂さんの名前が出てきたのだろう。


 僕の知る紅坂とは別人だろうか?

 しかし、紅坂なんて珍しい苗字が偶々被るとは思えなかった。


 電話の相手があの紅坂さんだとしたら、何を反しているのだろうか。僕や月乃ちゃんを解放するように男と交渉をしている?


 いや、さすがに無理のある考えだ。そんな回りくどいことをしなくても、この家の合鍵を持つ紅坂さんは、男がいない隙を狙い、いつでも僕と月乃ちゃんを連れ帰ることができる。僕らが監禁されているのは、あくまで月乃ちゃんがそれを嫌がるからで、男に無理やり従わせられているからではない。


 様々な可能性が浮かんでは消えていく。

 そんな中で、僕の脳裏に一つの疑念が生まれる。


 この誘拐自体が、紅坂さんによって仕組まれたものだとしたら?


 何の根拠もない馬鹿げた考えだ。紅坂さんがそんなことする理由がない。僕は疑念を振り払うように首を左右に振った。しかし、頭の内側に張り付いたかのように、その可能性が消せないでいた。


 鉛のように重い身体を引きずって、僕は月乃ちゃんが待つ部屋へと戻った。


 寒そうに震える月乃ちゃんを見て当初の目的を忘れていたことに気が付いたが、今はどうすることもできない。僕は自分の上着を脱いで彼女に着せた。


 ぶかぶかの服を着た月乃ちゃんが僕に何かを伝えようとしていたが、相手をしてあげるだけの心の余裕はない。愛想笑いを返すだけで精一杯だった。


 時計を見上げると午後七時を回っている。紅坂さんへの定時報告まで一時間を切っていた。


 今の僕の思考を紅坂さんに読まれるわけにはいかない。言葉なら嘘をつくことはできるけれど、頭の中を覗かれては本心を隠すことはできない。僕は紅坂さんを疑っているのだ。


 月乃ちゃんの手を引き立ち上がると、紅坂さんから指示された定位置から数メートル距離に腰を下ろした。

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