誘拐少女と探偵 - 14
昼寝から起きた月乃ちゃんに文字を教えていると、子供の成長は早いことを実感する。まだまだニアミスは多いけれども、それでも想像するよりずっと早く月乃ちゃんは文字を習得していた。人間とは賢い生き物なのだと、日進月歩で成長していく月乃ちゃんを通して思い知らされる。
しかし、ここで困った問題が発生した。文字を覚えるための材料が底をついてしまったのだ。
最初は動物などの絵を描くことで、物や生物の名称をひらがなで教える体裁をとっていた。しかし僕の描ける絵のレパートリーはすぐに尽き、最近では周囲の物を使って、文字を教えるようにしていた。とはいえ部屋から出られない状況では、物の数も知れていて、とうとう勉強に使える材料が無くなってしまったのであった。
こうなると書店にあるような子供用の教材が欲しくなる。ひらがなの勉強程度であれば、自分の技量だけで十分だという考えが甘かった。今日の定時報告の中で、紅坂さんに差し入れてもらうようお願いをしたいところだ。
とりあえず、今日を凌ぐために僕は周囲を見回し、まだ教えていない物がないか探してみた。タンス、時計、カーテン、目につく物はことごとく使用済みだった。
ならばと僕は自分の身体を物色する。しかし僕が持っているものなど何もない。身に着けている服やズボンはこれも過去に使った後だった。そもそも僕は警察に保護された時点で手ぶらだったらしいので、私物というものがほとんどないのである。
そのとき、ふと思い出した。そういえば一つだけ僕が記憶を失う前から持っていたものがあるじゃないか。僕はポケットに手を入れると、それを取り出した。掌には小指の半分ほどの大きさしかないゼンマイだった。
これは使える。「ぜんまい」は幼い子には難しいので、「かぎ」として教えよう。
僕はゼンマイを月乃ちゃんの前に置いた。月乃ちゃんはそれを見ると、こちらが何も言わなくても鉛筆を手に取った。早く教えて欲しいとばかりに、体を小刻みに揺らして僕を見つめてくる。餌入れが出されたで尻尾を振り回す犬みたいだった。
待ちわびる月乃ちゃんに急かされて、紙に「かぎ」の文字を描こうとしたとき手が止まる。これはぜんまいではなく、本当に鍵なんじゃないだろうか、そう思えてきた。
どうしてこれをゼンマイだと思ったのかといえば、鍵と言うには小さく、そして造りがシンプルだったからだ。
そのとき僕がいわゆる鍵のイメージとして想像したのは、玄関の鍵だった。ブレードの部分が複雑な形状をしていて、長さだって五センチくらいあるものだ。しかし一口に鍵と言っても様々な種類があるはずだ。
僕は自分の手首に嵌められた手錠を見る。そこには小さな鍵穴があった。
嫌な予感がした。それをやってしまったら、知ってはいけない何かを知ってしまう、そんな気がした。
そう考える一方で、僕の身体は脳から発せられる信号を無視してゼンマイを手に取り、手錠の穴へと差し込んだ。鍵は当たり前のように穴に入っていく。奥までいったところでゆっくりと左へと回した。カチャリという音と共に手首の圧迫感が消え、手錠が床に落ちる。
僕が持っていたものは手錠の鍵だった。そしてその手錠は、月乃ちゃんを拘束するために使われている。これが意味するものを想像し、めまいがした。
振り返ればおかしなことはあった。 月乃ちゃんは初対面にも関わらず、まるで以前からの顔見知りのように僕に懐いてくれた。
それも僕と月乃ちゃんが過去に会ったことがあると考えればつじつまが合う。
一方でこの考えには大きな矛盾がある。
紅坂さんが読んだ月乃ちゃんの記憶の中に僕はいなかったはずだ。
もし本当に僕と月乃ちゃんの間に繋がりがあったのだとすれば、それはありえない。紅坂さんがあえて話さなかった可能性もなくはないが、記憶を探すためにやってきたのに黙っている理由はないだろう。
それに僕たちを監禁しているあの男も、僕のことを知っているようなそぶりは見せなかった。面識があれば何かしら態度に出ていたはずだ。
様々な事実が僕とこの家の関係を否定している。しかしそれでは、この鍵の説明がつかない。
頭がガンガンと痛む。混乱を痛みと錯覚しているのかもしれない。
僕の記憶には何が眠っているのか。記憶を取り戻すことへの恐怖が増していく。
そういえば、紅坂さんに記憶探しの依頼をしたときにも嫌な予感がしていた。これは僕の深層心理からの扉を開けるなという警告ではないのか。
考えが悪い方向に向かっていることに気づき、一度落ち着くために大きく息を吐き出す。
何はともあれ、まずは今日の夜に紅坂さんにこのことを報告しよう。
僕だけの力ではどうにもならないことでも、紅坂さんなら何とかしてくれるかもしれない。今はこれ以上一人で悩んでも、ろくなことにはならなそうだ。
僕は鍵をポケットに戻し、手錠を自ら手首に嵌め直す。やや冷静さを取り戻したことで、月乃ちゃん心配そうに僕を見ていることに気が付いた。
「大丈夫だよ」
僕が無理やりほほ笑むと、安心したように月乃ちゃんもつられて笑った。
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