月と太陽~天に棲まう陽の神と月の神の物語
その昔、人々は月の神を最上の存在として崇め奉っていた。常闇の夜をいつでも照らし続ける満月に神秘的な神の姿を見出し、重要な存在として厚く信仰した。
人々は信仰の証として満月のようにぐるりとまあるい形に集落を形成することにした。中央には墓が作られ、死後は月の神に仕えるのだと誰もが信じていた。
そんな集落の一つで男が一人、天寿を全うした。月を讃える詩を作る祭祀を務めていた男だった。集落の人々は亡骸を丁寧に清め、月の神に仕えるための装束を着せた。そうして月の神の目を楽しませるための胸飾りや耳飾り、指輪などの装飾品で飾り立てる。
「さぁ、我らの家族を月に還そう」
死者を弔うのは巫女たちの役目だった。巫女たちは底が尖った甕を用意し、広場の中央に半分ほど埋めてから中に水を注ぎ入れる。並々と水をたたえた甕には美しい満月が映り込み、一晩かけて月の力を蓄えるのが目的だった。
こうして用意された月の水は死者の体に振りかけられる。月の力に守られた死者の魂は肉体を離れ天へと向かい、月の神の御許へと迷うことなく向かうのだという。
そうした集落での弔いの様子を天から眺めるものがいた。
「あぁ、人がまた一人失われたのですね」
水盤を眺める瞳は月のように淡い
男は人々が崇め奉る月の神だった。すらりとした痩身は男神としては細く頼りないが、背は高く凜とした雰囲気を漂わせている。
「人が失われるのはやはり寂しいものです」
月の神は水盤を使って地上の人々を眺めるのが好きだった。純粋な心で自分を崇め、曇りなき
しかし月の神が人々にしてやれることは少なく、暗闇を満月で照らすのが精一杯だった。ときには闇夜を指でそろりと掻き混ぜ、星々がぶつかり煌めく様子を見せたりもする。月の神はそれを見て喜ぶ人々の姿を見るのが好きだった。気がつけば月の神は一日のほとんどを地上を見ることに費やしていた。
「また人を見ているのか」
不意に聞こえた声に月の神が振り返った。そこには目映いばかりの光を放ちながら、真っ白にも見える黄金の髪を揺らす麗しい男神が立っている。
「陽の神」
「そうして毎日見ているようだが飽きないのか?」
「飽きる飽きないということではなく、ただ見ていたいのです」
月の神の瞳が陽の神から水盤へと戻る。その様子に陽の神の眉がわずかに歪んだ。
陽の神は、それほど人を好いてはいなかった。人々は陽の光を大事だと思いこそすれ、月の光ほどの神秘性を感じてはいない。そのため月の神のように敬う人々はいなかった。
陽の神はそのことはよく知っていた。しかし、陽の神にとって人々がどう考えているかは問題ではない。陽の神自身も人々を好いてはいないから気に留めることすらなかった。
(たいして価値のない人々に、なぜそこまで心奪われるのだ)
月の神の美しい瞳に映るのが己ではなく、心を動かすものが人だということが陽の神にはたまらなく嫌だった。
(もとは一つだったわたしより人のほうがよいというのか?)
思わずそう問いかけそうになるのを何とかこらえ、唇をクッと噛み締める。
この世に人という存在が誕生する前、陽の神と月の神は一つの神だった。男神でもなく女神でもなかった一つの神は、人という存在が大地に生まれ落ちたとき二人の男神に分かたれることになった。
陽の神は陽の光を司り昼の空を支配した。
月の神は月の光を司り夜の闇を支配した。
二人の男神は、司るものも棲まう場所も分かたれることになった。
(それだけでも不快だというのに、なぜ月の神を人に奪われなければならぬのだ)
人は増えるにつれて月の神を敬うようになった。月の神はそうした人々のことをますます慈しむようになった。
月の神の瞳に己を映してほしい。月の神に己を求めてほしい。叶うことなら、また一つに戻りたい。
陽の神が求めるのはただそれだけだった。それなのに人が増え集落ができ、人々が夜空に輝く月を崇め奉り始めたことで月の神の心はすっかり人々に奪われてしまった。すでに
「月の神よ、それほど人がいいか」
「人は儚くか弱い。そんな存在が、短い命の間でわたしを必死に求め
「……そうか」
陽の神は、不意に苛立ちにも似た感覚がわき上がるのを感じた。水盆を優しく見つめる
水盤の前に座る月の神の黒髪は、まるで天の川のように豊かに床を流れている。その一房を陽の神が手に取った。
「陽の神……?」
気配に気づいた月の神が振り返ろうとする。しかし完全に振り返る前に陽の神が掴んだ絹髪をぐいと己のほうに引き寄せた。
「陽の神?」
ぐらりと上半身を揺らした月の神が、それでも慌てることなく陽の神へと視線を向ける。陽の神は宵闇に浮かぶ月のように静かな瞳をじっと見た。
(その瞳が濡れる様を見たい)
唐突に浮かんだ衝動に身を任せ、沸々とわき上がる欲のまま髪を掴む手に力を込める。
「何を、」
陽の神が言葉を遮るように掴んだ黒髪を思い切り引き寄せた。さすがに痛みを感じた月の神が止めようと唇を開く。しかし言葉を発する前に陽の神がずいっと体を近づけた。
黒髪を離した陽の神は、代わりに月の神の肩を掴み抱き寄せた。陽の神は男神らしく逞しい体をしているため、月の神の細い体は陽の神の腕の中にすっぽりと収まってしまう。
「陽の、」
驚いた月の神がいくら身じろいでも逞しい腕から逃れることはできない。それどろこかますます強く腕の中に閉じ込められ、すぐに身じろぐこともできなくなった。
「陽の、何をするのです」
「月の、わたしは人におまえを奪われたくないのだ」
「何を言っているのですか」
「これほど美しい我が半身を人に奪われるなど耐えられるはずがない」
「陽の、」
「どうか、わたしの元へ
わずかに目を見開いた月の神に、陽の神は荒々しく口づけた。
(なんと柔らかいのか)
陽の神は両目を細め、唇の感触を存分に味わった。月の神の唇は陽の神のそれよりわずかに冷たいが、滑らかで瑞々しく潤っている。あまりの心地よさに陽の神は夢中で口づけを続けた。そうして思いのままに下唇にかりと柔らかく噛みつく。
その瞬間、痛みのためか驚きのせいか月の神の体がふるりと震えた。それさえも陽の神の胸を熱くし、ますます抱きしめる腕に力が籠もる。
細い体を掻き抱きながら、陽の神は夢中で月の神の口内を舌で掻き混ぜた。時折ひくりと震えるのが愛おしく、漏れ出る熱い吐息が心地いい。気がつけば月の神を床に押し倒し覆い被さるように口づけていた。
「は、はぁ、は、」
「……なんと美しい」
唇を離し、目元を赤く染めながら息を乱す月の神を陽の神がうっとりと見つめる。
「月の、わたしはおまえがほしい」
「……陽の、それは叶わぬ話です」
「なぜだ」
「わたしたちは二つに分かたれました。棲まう場所も支配すべき世界も違う。二度と一つには戻れないのです」
そう言いながら月の神が逞しい胸を押し返した。それに「ならぬ!」と声を荒げた陽の神が、再び言葉を奪うように月の神の唇を塞ぐ。そうして散々口内を蹂躙してから唇を離した。
「二つに分かたれたとしても、再び一つに繋がればよい。何も問題はない。また一つに
そう告げる陽の神の眼差しは燃え立つような焔色をしていた。万物を焼き尽くすその色は、まさに人々を震え上がらせる色でもあった。
(人はあなたの
月の神は人々が陽の神を畏れていることを知っていた。そうではないと伝えたくても伝えられない自分をもどかしく感じてもいた。
その燃えるような瞳がいまは自分を見下ろしている。ほかの何者も映さず、唯一の半身である月の神だけを映している。
月の神は近づいて来る焔の瞳にそっと瞼を閉じた。そうして体の力を抜いたところで、陽の神が優しい口づけを落とす。
(あなたは卑怯です)
月の神もまた、心の中では陽の神を求めていた。己とは違う輝きを放ち、すべての闇を打ち消すほどの白光はあまりに眩しい。己とまったく違う存在だからこそ近づきがたく、そして恋い焦がれていた。
月の神の光はいかに煌々としようとも闇夜を仄かに照らすことしかできない。その輝きはあまりに儚く、まるで人の命のようだと月の神は思っていた。だからこそ人を愛おしく思い、己の光のような人々に心を寄せた。
同時に人々のことを妬ましくも思っていた。陽の光を存分に浴びることができる人のようになりたいと思っていた。陽の神に照らされる昼の空に在りたいと思ったことも一度や二度ではない。
(しかし、すべては叶わぬこと)
月の神はそう思い諦めていた。こうして天で顔を合わせることがあっても交わることがない月と陽。二度と一つになることはないのだと思うたびに月の神の胸は詰まり、そのことから目を逸らすように地上にばかり目を向けていた。
それがいま、二人の神は一つになったかのようにぴたりと重なっている。月の神を腕に抱きながら、陽の神が「一つに
「月の、わたしの元へ
唇が触れ合う距離で陽の神が囁く。月の神は
「……
名を呼ばれた陽の神の体がぶるりと震えた。二つに分かたれて以来、滅多に呼ばれることのなかった名に体中が歓喜する。
「
陽の神が再び月の神の唇を覆った。優しくも熱い感触に、月の神の目尻からついと涙がこぼれ落ちる。雫となった涙は
この日の夜、死んだ男を弔う集落ではしとしとと優しい雨が降った。ところが夜空には満月が煌々と輝いている。人々は不思議に思いながらも月の神のお恵みだと月夜に両手を合わせた。
常に満月だった月は、この日を境に輝きが少しずつ細くなっていった。そして半月ほどが経つ頃にはまったく姿を現さなくなった。人々は光のない夜に恐れおののき、次第に欠けることのない陽の神を敬うようになった。そうして集落の多くが陽の神を崇め始めた頃、再び宵闇を月が照らすようになった。
しかし満月はほんのわずかの間だけで、月はすぐに儚く細く消えてしまう。そうかと思えば再び細く現れ満月を覗かせる。
「月の神は陽の神にお仕えしているのだ」
人々はそう思い、陽の神こそ神であると讃えた。同時に月の神を敬うことを忘れてしまうようになった。
その様子を天の水盤から眺めるものがいた。
「これで
水盤の前に座っていたのは目映いばかりの光を放つ陽の神だった。どかりと腰を下ろした足の間には麗しい月の神が座り、陽の神のたくましい腕には艶やかな黒髪がゆるやかに絡みついている。
「人の心など所詮はこの程度。おまえが慈しむ存在などではない」
そう告げながら焔のごとき瞳が腕の中を覗く。
「それとも満月をかき消すわたしを憎いと思うか? 人々の心を奪ったわたしを憎いと思うか?」
陽の神の問いかけに月の神がゆっくりと視線を上げた。
「いいえ。人が穏やかに生きているのならそれでよいのです」
わずかに顔を上げた月の神は、やや肉厚な陽の神の唇に己のそれをそっと触れ合わせた。
「ただ、誰もがあなたを見つめる姿に胸が少しざわつきますが」
「わたしの
「……
月の神の両手が陽の神の頬を包み、陽の神の
しばらくすると、地上では真昼の空から太陽が消えるという世にも恐ろしい出来事が起こった。代わりに現れたのは、黒く丸い月だったという。
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