花弁が落ちた時

蕾生

田中優斗

人がぎゅうぎゅう詰めにされた電車が左から右へと発車していく。今日もこれに乗れなかった。まあ、仕方ないか。今は19時。ちょうど帰宅ラッシュ。誰もが1分でも早く帰路につきたいそう願うだろう。俺もそんな中の一人だった。桜が満開だった時期はとうに過ぎてしまい、4月の下旬。5月まで片手で数えられる程だ。花見もフラワーパークも行けなかった。趣味のカメラで撮影するのが何よりの楽しみ。画角には花だけじゃなくて、特別な存在も映して。そう、俺には彼女がいた。誰よりも愛しく大切にしたい存在。学生の頃から付き合っていて半年程経っていた。半年記念を満足に祝えていないせいか、スマホがよく震えている。既読をつけると返さないといけない気がしていつも通知欄で内容を少し確認する。そうすると、会いたいの言葉が並んでいた。でも、実際会う時間を取るのが難しかったのだ。彼女は保育士で、俺はただの会社員。2人とも休みはしっかりあったけど、慣れない職場、慣れない仕事、慣れない人間関係に疲れて主に俺が一人で過ごすことばかり選んでいた。急な変化になかなか慣れないタイプで余計に疲れを感じていたんだと思う。でも、明日から三連休ということもあり、電車を1本見送ったところで気にとめなかった。ホームで待っていると、突然肩を叩かれる。振り向くように首を捻る。そこには同じゼミだった林がいた。


「よ、久しぶり」

「…林さん、久しぶり」

「明日仕事?」

「休みだよ」


休みだと自分で伝えながらそろそろ彼女との約束をしたいと強く感じていた。もう1ヶ月くらい会っていないし、まともに声も聴いていない。柄にもなく寂しかったから。でも、林の表情を伺うと何やら用があるようにも見える。まさか、飲みに行こうとかそんな話?嫌な予感がよぎる、合コンなんて…そうじゃない方がいいと願いながら言葉に耳を傾ける。


「田中、暇ならちょっと付き合ってよ」

「…いや、でも」


林の表情はマスクをしていて上手く読み取ることが出来なかった。はたして、どんな用事なのだろう。飲みか飯、飲みも飯も同じか。いや、キャバか?それとももっとディープな…。林の一言でこんなにも踊らされている。飯くらいだろう。あいつだってそんなに暇じゃないはずだ。それに俺に彼女がいることくらい知っているから。


「頼むからさ」

「林の頼みなら」


特に断る理由が今見つからなくて同意の言葉を発する。すると、林はにこやかそうな声色で笑みを浮かべているようだった。



俺が乗ろうとしていた電車とは違う方向の各駅に2人で乗り込む。都市部に行くものだから少し空いていた。でも、座れるほどでもない。ゆらゆらと揺られて目的地に到着したようで降りる。今朝オンラインチャージして置いて良かった、なんて思いながら改札を通っていく。林の隣を歩いていくと、某チェーン店の居酒屋に到着。あの鳥のマークが目立つ。合コンと言えば、こういうものか。なんて考えていると、林は店内へ入っていく。後を追うように着いて行った。店内はがやがやと酔っ払いの声がこだまする。店員に連れられるままに座席へ案内される。




「林くん、遅いよー」


OLという言葉で言い表すには、華美な服装に思える女。鎖骨が丸見えになり、胸元も角度によっては見えそうだった。


「悪いね、ほらイケメン連れてきたから」


林がそうみんなに告げると、空いている座席へ座るように促される。俺を含めて男3、女3。どこからどう見ても合コンそのもの。この場を後にしたくて席を立とうにも俺の座席は右側に男、左側に壁。どうすることも出来なかった。来たばかりなのにトイレは不自然。それも仕事カバンを持ちながら行くのは、怪しまれる。そんな考えを巡らさせながら合コンが進行されていく。本当にどの女にも興味がなく、自己紹介の内容や話の内容を覚えていなかった。酒の味も美味く感じない。つまらなかった。席替えタイムになったようで女が隣に来る。


「田中さん、お疲れみたいですね。嫌ですよね、無理やり連れられてくるのって」


俺の核心を着いたような言葉に目を丸くした。事前情報なのだろうか。いや、さすがにそんなこと言ったら引かれるだろう、きっと。視界の端で女が困ったように笑みを浮かべている。この子も無理やり連れてこられたのだろうか。少し興味を持った、ただ事実確認をしたい。それだけの理由で。


「…まあ、はい。君も?」

「私もなんです、困っちゃいました。でも、田中さんも同じ温度だったから安心です」


詩織と名乗る女は、不快にならない距離感で下手に近づいてくることは無かった。身体も心も。友達としてならありかな、なんて心を許しかけていた時だった。


「あっ…!」


胸元にいきなり冷たさを感じる。驚きつつシャツを見れば、濡れていた。桑の実色に。甘い匂いも漂う。きっと、カシオレでも零してしまったのだろう。このままだと染みになる。おしぼりを手に取ろうとした時、詩織さんと手が触れ合ってしまう。酒のせいか少し戸惑いつつもすぐに手を離す。わたわたしてしまっているうちに詩織さんが手馴れた手つきで染み抜きしてくれている。その作業中、俺のワイシャツに手を入れていた。指先が胸板に触れる度にどきりと鼓動が早くなってしまうことがあった。違うんだ彩花、これは…。脳内で彼女の名前を思い浮かべながら謝罪の言葉を並べる。


「いや、あ、…ありがとう」

「でも、このままだと染みになっちゃいますよ」


動揺しながらも礼を告げると、俺ばかり鼓動が早くなってしまっていたのか…。恥ずかしさでいっぱいになって、それを誤魔化すように水割りのウイスキーを一気に飲み干す。アルコールが体内を早く回る感覚がする。ゆらりと頭が揺れたような。次のグラスへ手を伸ばした時、思わず手が滑ってしまった。グラスが倒れる音と共に中身が溢れ出るところをただ眺めることが出来なかった。視線を零れた先へ移すと、詩織さんの服が濡れている。やっと、理解した。ハッとしたように肩をぴくんとさせると、近くにあった手を拭いただけのおしぼりで拭っていく。幸い色の着いたお酒じゃなかったので染みは残っても目立たないはず。


「詩織さん、すみません…」

「大丈夫ですよ」


詩織さんは俺を安心させるかのように穏やかな笑みを浮かべる。酒のせいもあるのか、ぬるりと近づいてきた。そして、耳元で、酔い醒ましに外に行きませんか?と提案される。それが誘い文句には聞こえなかった。他の奴ならそう捉えるのか。思考を巡らせようとする前に詩織さんに手を掴まれて、促されるままに立ち上がっていた。


「すみません、私達着替え探してきますね」


腕時計に視線を落とすと、20時を指していた。洋服屋なんて空いているのだろうか。ショッピングモールならまだ営業中かな。緩やかな拒否、今じゃなくてもいいじゃないか、なんて言おうとする前に腕を引っ張られるままに店外へと出た。風が吹く月夜なのに生暖かく感じる。腕に柔らかい感触があり、視線を移すと詩織さんの腕が絡められ胸が当たっていた。ふわふわ、そんな言葉が似合うほど柔らかい。嫌でも胸が高鳴ってしまう。ぶるぶると首を横に振った。



「田中さん…私疲れちゃったから休みたい」


涙目になりながら瞳を揺らす詩織さん。それはそういうこと?俺を誘っている…。今更になって気づいた。詩織さんは最初からこれが目的だったのだろう。腕を振り切るようにホテル街を抜けようと足を進めた時だった。スマホが激しく震え続ける。画面には、彩花の名前。詩織さんの目を気にせず着信に出る。


「…もしもし」

「優斗、なんでホテルにいるの…」

「ホテル…?外にいるよ」

「だって、位置情報がホテルになってるから…優斗、私の事嫌いなの?誰でもいいの?」

「いや、ちょっと待て待て…」


俺の言葉を最後まで聞かずに電話は切れた。位置情報?何のことだ。俺は、彩花と位置情報共有アプリなんてしたことがない。思い返すと、無料アプリをダウンロードするように言われた気がする。簡単なパズルゲームだった気がしたけど…あれは罠だったのか?でも、機械音痴でメッセージアプリ以外上手く使いこなせないあいつが企んだにしては不自然過ぎる。どういう事だろう。



「…優斗くん、浮気なんてダメだよ…?」


目元を緩めながら忠告するように声を掛けてくる詩織さん。浮気…?俺がいつそんなことを口にしたんだろう。酒の場だったから口が滑ったのか?それならその場が一気に冷えるはず。でも、そんな場面記憶にない。もしかして、…俺達を知っている存在が詩織さん?確か前に同僚で親しくなった人がいたと話していた、名前は…。目の前にいる女がふふっと笑みを浮かべている。

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花弁が落ちた時 蕾生 @24tsubomi

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