第24話
「私はこれまで男性と女性のどちらともと、お付き合いしたことがありません。ただ、初恋の相手は男の子で、中高生の頃になんとなく目で追いかけていたのも男の子です。そういった事実を通して、異性愛者だと自認しています」
淡々と私が言葉を紡いでいくその過程で、目の前に座る鹿目母から笑みが失われていくのがわかった。そして私が言い切ってしまうと、彼女は溜息をついた。浅くもなく深くも無く。ただ一途な憂いがそこにあった。
「ねぇ、祀梨から私のことをどんなふうに聞いている?」
「え?」
「何も聞いていない?」
「いえ……」
私は躊躇いがちに、おずおずと例の件を話した。すなわち、鹿目母が月鳴館の経営母体にあたる宗教団体の幹部候補に位置する人物であり、そして同性愛については好意的態度を示していないことだ。
「そう。何もかもが、祀梨の誤解とは言わないけどね」
鹿目母は私の話に耳を傾け、それが終わると溜息をまた一つついた。下がり気味だった私の視線が上がり、彼女のそれと交差する。
「よく聞いて。私はね、あなたがノンケでもレズでもどっちでもいいの」
「はい?」
「曖昧なのが一番厄介。この厄介っていう言葉も差別的に捉えられかねないけど。今さっきのあなたの答えは正直、聞いていて快くないわ。一言でよかったのよ。男が好きです、女が好きです、実はどっちもいけます、とか。一言でね」
私の視線はまた落ちていく。
「ああ、違うの。責めているつもりはない、まったくそんなつもりないのよ、八尾さん。ええと、大事なことは……」
鹿目母はそこで一旦、話すのをやめた。そしてフォークに手を伸ばし、それを持ち上げて、また置いた。躊躇。そして彼女が言う。
「あなた、祀梨に惹かれているのね?」
私が彼女を見つめ直すと、その顔に祀梨を重ねた。血のつながった親子なのだと今更のように感じた。面影。母親に娘のそれを目にするのはあべこべな気もしたが、しかし確かにそこに祀梨を感じた。
「そうだと思います」
素直に私はそう返事をよこした。
惹かれていない、そんな嘘を今の流れでつくことができなかった。自覚せざるを得なかったのだ。私は祀梨に惹かれている。これまでにあの部屋で、あたかも私に特別な引力でもあるように、彼女はくっついてきた。
ほっそりとした手足や綺麗な黒髪。可憐な瞳で私の奥の奥まで覗き込んでは、その透明な声で思い出を解きほぐし、それと同時に今を生きる彼女の在り方を絡めてきた。そんな彼女に私は魅了されている。
私は軽く閉じた瞼の裏にも祀梨の姿を浮かべ、そして首を小さく横に振った。
「でも、恋かどうかはわかりません」
「不思議な子」
そう言って鹿目母は苦笑した。
「ついさっきまで大人びていて、学生さんに思えなかったのに、今のあなたはローティーンのようにも見える。何にも知らない少女ってところ。ああ、これも違うのよ。侮蔑しているつもりは毛頭ないの。ただの感想、ううん、印象」
私は何をどう話したらいいか見失った。
それを察した雰囲気の鹿目母の手に再び握られたフォークとナイフは、もう離れることはない。そして彼女は私にも食事を始めるよう促すのだった。
たしかに、バルサミコソースのかかった白身魚のソテー、その色や香りは充分に食欲を掻き立てている。トマトベースと思しきソースと和えられている小さな蝶々のような形のパスタも美味しそうだ。
頭ではどう考えていようと、これらを目の前にすると本能的な欲求が内から湧いてくるのを抑えられない。
「私はね……罰として祀梨を月鳴館に閉じ込めてはいないの。本人が罰だと思っているのだとしてもね。それはそれとして、私はあの出来事を罪だとみなしている。祀梨と相手の、二人の罪だと。でも、その罪に対する罰を祀梨は受けたでしょう? 独りだけ残されてしまうって形で」
慣れた手つきでナイフとフォークを動かしながら、彼女が私を見ずに言う。かと思いきや「これ以上ない罰だと思わない?」と黙り込んでいる私に一瞥をやった。
「いかなる理由、背景や境遇をもってしても、自殺が完全な罪悪であるかどうか。そんなの、ここで議論するつもりはないわ。少なくとも私の信仰上、どんな場合であろうとその行いに善性はない。でもこの考え方を八尾さんに押し付けもしない」
「あ、ありがとうございます」
「ふふっ。礼をするところじゃないわよ。まぁ、いいわ。わかってもらいたいのは、私は娘をずっと閉じ込めておくつもりは元々なかったってこと」
「それは……その、やっぱり同じ道を?」
「同じ道? ああ、そういうこと。あなたは私に、美しい娘を利用して宗教団体のシンボルにでも据えて強大な権力を得ようと画策している母親――――そんな想像をしているの? そういう映画あったかしら」
「そんな脚本、私は書いていません」
そう言う私に対し、鹿目母はオリーブオイルがふんだんに使われたサラダのインゲン豆をフォークで突き刺し、口に放る。鞘に入っていない、つるりとした白いそれは、ある種の虫の卵を私に想起させた。
彼女が口内で音なく噛み砕き、飲み込んでから私に言う。
「私はあなたが思っているほど、宗教にどっぷりと身も心も浸かっていないわよ。ここだけの話ね。信仰はしている、けれどそれを何より優先すべきもの、生きる上で最上のものとはみなしていない。そういう偏見やイメージをもたれがちなのは事実ね」
そこまで話すと肩を竦め、ゆっくりとした手つきで白身魚を切り分けていく。
「夫と娘を集会にただの一度も参加させないのを上の人から何度か非難されてきたわ。遠回しにだけど。強制はしない、自由な精神、個人毎の信条云々と言っても、彼らからしたら家族というのは皆、同じ信仰を持つべきなの。そして家族総出で活動や布教に励む。ようするにね、染まることを求められる」
「……宗教に限らず、社会に生きていれば、多かれ少なかれ求められますよね? 帰属や同調、あるいは忠誠。とにかくはみ出さないこと」
「そのとおり。社会学だとか、そういったものをかじっていなくても誰もが感じているわよね。それが宗教団体となると途端に怪しくなる。普通じゃなくなり、時には反社会的とみなされてしまう」
実際、過去に事件を起こした宗教団体もあるから、なおさらだろう。得体の知れないもの、未知なる少数派、一般的とは言い難い思想が警戒されるのは必然だ。
彼女は切り分けた白身魚を口に入れ、しっかりと咀嚼する。
「話を戻すわね。祀梨と、そしてあなたのことに」
「……はい」
「早い話、私はね、あなたたちが恋仲になってもかまわないの。その関係を忌み嫌い、憎悪することはないわ。もちろん、あの子を傷つけないのならよ。法的にはあなたは成人していて、あの子は未成年。言いたいことはわかるわよね? 妊娠するかどうかの問題じゃないの」
「ま、待ってください。もしも、その……私が彼女を本気で好きになったとしても、その想いを受け入れてもらおうだなんて思いません。大切な人を失った彼女の弱みや心の隙間に付け込むような真似をしたくないんです」
「じゃあ、あの子から迫られたら?」
「なんでそんな――――」
平然と言えるの? 実の娘のことなのに。しばらく会っていないから、会っていなくても平気な人だからって、まるで他人事みたいだ。
それとも娘を理解しているから、そのつもりだからこそなのだろうか。わからない。私と亡くなった母の関係とは違う。もしも私の知らない他所で自分の母親がこんなふうに話していたら、私は嫌だ。けれど、今ではもう本人には確かめられない。
「曖昧なのも中途半端なのも私は好かないのよ。ただそれだけ。ねぇ、八尾さん。あなた、恋したことないんじゃない? さっきの初恋ってのも小学生やそれより前の話なんじゃないかしら。不安だわ。あなたがその半端な気持ちを拗らせてしまうのが」
「拗らせる? それってどういう……」
「いたずらにあの子を傷つけるんじゃないかってことよ。そしてあなたも傷つく。月鳴館を出て、二人が一枚か二枚かの壁越しに暮らし、触れようと思えばいつでも触れられる距離を生き始めるとするでしょう?」
「は、はい」
「平穏を約束できるかしら」
「それは、その、できません。未来のことだから。でも、私は祀梨を傷つける気なんてないです。傷つけたくない。もしもあなたの目に私がそんな危険人物に映っているのなら、もしそうなら……」
「あなたたち二人を会わせないよう取り計らったほうがいい?」
私は肯く。
すると彼女はフォークもナイフも置き、こちらをじっと睨んできた。
「軽率ね。大胆な駆け引きをしている気なのかしら? 敢えて繰り返すわ。私はあの子が傷つかない限りは、あなたたちがどんな関係になっても認めるつもりでいるの。母親として願うのはあの子の幸せよ。ああ、勘違いしないで。今ここで、あなたにあの子を幸せにして、と言うつもりはないわ。そんなの重すぎる」
彼女が緊張を緩め、口角を上げる。
「合格通知が届くその日まで、その気持ちに名前を付けておきなさいな。そして引っ越す前に、私に教えて頂戴。あなたが出した答えをね。さぁ、約束しましょう」
そう言って彼女が私へと向けて近づけてきたのは右手の小指だった。指切り。大人同士の約束事ではそんなの使われない。
彼女は私を子ども扱いしている。それが堪らなく悔しかった。それが本当のことだと自覚しているから、悔しかったのだ。
そうして私は彼女と約束を交わした。
祀梨に抱いているこの想いが恋と呼べるかどうかの答えを出す。そのうえで月鳴館を出た後の彼女を支える。一人の大人として、あるいは彼女にとっての……。
「夫と付き合い始めて、二回目のデートが映画館だったの。大人になって、会社に勤め始めてから映画館デートってそれが初めてだったからよく覚えている」
指を離した後で鹿目母はそう言った。そして映画のタイトルを口にして、私に知っているかどうか訊く。私は聞き覚えはあるが観たことはないと伝えた。
「原題には天使なんか入っていないんだけどね。選ぶことのなかった、もう一つの人生。もしそれを体験出来たら。そのうえでどちらかを選ぶことになったのなら。本当の幸せってなに? 誰もが一度は考えたことがあるわよね」
「今の人生に何か後悔が?」
急な話題転換であったから、調子が狂って、またうっかり失言してしまった。私の台詞に彼女は顔をしかめ、それから笑ってくれた。
「夫も娘も愛しているわ。堂々と胸を張って言える。これだけでも幸せよ。そう思うわ。ただ……だからと言って過去に出会ってきた人たち、その人たちとの日々がなくなるわけじゃないもの。ようは、後悔はあるってことね。もっとこうしていればよかった、こうしないといけなかった、あの時、こう言えばよかったのにって」
穏やかに、遠い日を想う眼差し。その先にあるのは私の顔ではないのだ。
「ちょうどその日……映画館に行く前、つまりデートの前にメールがあったのよ。学生時代に仲がよかった子から。今すぐ会いたいってね」
「断ったんですか?」
「ええ、そうよ。そうしたら電話がかかってきて、どうしてもだなんて言われたわ。それでも断った。もう私には男性の恋人がいて、彼とうまくいきそうだって。今の私はあなたを必要としていないのよって」
「その人とは……」
鹿目母は水を飲むと、その顔を横へと向けた。しっかりと閉じられたカーテンは室内に自然の光を入れ込んでいない。
「私は本気じゃなかった。あの子は本気だった。それが結論。後はご想像にお任せするわ。私も今となっては、あの子がどうしているかは想像するしかないのだから」
カーテンから目を離さずにそう口にする彼女の横顔、それが何だか一気に老け込んだように私は見えたのだった。
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