第25話
祀梨が唐突に、私をばらばらにしてやりたいと言い出したのは、認定試験から二週間が経ったある日の午後だった。大学受験の勉強という名目で、私は試験後も彼女のもとへと週に二、三日通い続けていた。
早朝に雨が降ったのが嘘みたいに温かな日差しが窓から降り注いでいた。窓辺のソファに並んで腰掛け、彼女が私の腕に抱き着いている。柔らかい。そんなの、当に知っているはずなのに心はざわざわするばかり。
「いっしょじゃないと思うわ」
迷った末に私は踏み込んだ。
とけあってしまいたいという私の気持ちを明かしたこと自体が迂闊で、恥ずかしさも覚える失態だったけれど、彼女が平気で「いっしょじゃん」と言うものだから、なんだか意地を張ってしまった。
そうであってほしいけれど、でも簡単に同一視されるのは嬉しくない、それは間違っていると感じる、そんなひねくれた考え。
彼女が「つづけて」と目で促す。
「他者理解のプロセスないしポリシーの差異なのよ」
「ねぇ、ななみさん。それ自分で言ってて、意味わかっている?」
「もちろん。一つずつ説明を試みるわね」
「えー? 多くても四十字前後でどうにかならない?」
「たぶん、ならない」
「じゃあ、なるべく短くしてね。眠くなっちゃうから」
「わかったわ」
私の殊勝な態度に何かいつもと違うものを感じ取ったのか、祀梨は私の腕から離れ、ソファにきちんと座り直した。
「大前提として、祀梨は本気で私を解体したいんじゃないわよね?」
「前提は飛ばしなよ。長くなるから」
「ええ。こういうことなのよ――――祀梨なりに、私を理解するための手段として、ばらばらにするっていうイメージを選んだのかなって。顔や髪、指先といった身体のパーツごとに分けて見ていけば自然とその人物の特徴や個性、経歴に繋がる」
「えっ。そこまで考えていないよ」
一蹴されても私は怯まなかった。
「そしてまた、私とこれまでの日々、交わしてきたやりとりの一つ一つを切り取り、精査していくことで人となりを理解するのに役立つ。一言で表せば、分析。他者理解において非常にわかりやすい方法よね」
「ねぇ、もしかしなくても大学の講義でそんな話があったの? 教育学部だったよね。人間相手の教育ってことなら、いくらでもその手の話はありそう」
「祀梨、教えてくれる? あなたが思うに私はどんな人間?」
「今日はどうしちゃったの。なんか自己肯定感を著しく下げるような嫌な出来事でもあった? ほら、膝貸そうか? 頭も撫でであげるよ?」
くすくすと笑う彼女を私は口を閉じて、ただ見つめる。やがて彼女は困ったような顔となり、それから思案し始めた。その中身が私の人物像の言語化なのか、それともこの状況からどうやって抜け出すかなのか、あるいは全然べつの気がかりなのかは不明だ。それこそ彼女の頭を割ってみない限りは。
「今でも時々、思うんだよね。あ、ななみさんのことでだよ」
しらばくれる気はない、と彼女が手を振る。
「教えて」
「演技なのかもって」
「演技?」
「だからさ、わたしに優しくしてくれるのは全部……わたしが知らない、ななみさんの目的だったり野望だったり、そのためなのかなって」
「そんなに優しくした覚えもないけれど、野望ってたとえば何よ」
「うーん、教祖様にとりいる?」
「入信する気もないわよ。……私ってそこまで信頼されていなかったのね」
「いやいや、そういうんじゃないって。そんな自虐的なこと言うの、めんどくさい女の子みたい。ほんとに何もないの? あ、ひょっとして重い日?」
「さっきの話に戻るのだけれど」
彼女の口角が上がって、下がる。不安が面に出ている。
「私は祀梨と違って、誰かを理解するために共有だとか共感を必要とするみたい。とけあうイメージ。それができなければ、あるいはそれをしたくないと思ったら、理解そのものを拒んでしまう。きっとこれが理由で、私には友達がいないのね」
「えっと、もっとわかりやすく言ってほしいかな」
「あの机に向かっているときにも、何度か言ったでしょう? 知るとわかるは違う。わかるとできるは違うって。どこの教育現場でも似たようなことは散々言われているわよね。でも、今は勉強の話じゃない」
「つまり?」
「たとえば、私がこれまで関わってきた同級生や先輩、後輩、先生……そういう人たちの性格を一言、二言で表現はできる。でも、それだけ」
「そこに理解はないってこと? ねぇ、こういう抽象的な話って行き着くゴールがなさげで、わたしは嫌かも」
「単純よ。私はこの数カ月であなたを、鹿目祀梨を少なからず知った。でも理解できていないんじゃないかって。ましてや理解の先には進めない。そう考えると……」
彼女が私の額にその手をやる。そしてもう片方の手は彼女自身の額に。熱を計っている? でも、そんなやり方でうまくいくわけないって思う。でも私は話すのを中断してしまう。彼女の手を振り払えもしない。心なしか、額が熱くなる。
「不安になる?」
手を離した祀梨は熱については何も言わずにそう口にした。その問いが、私が続けようとしていた語句であるかどうか定かでなかった。自分で言おうとしたことなのに、信じられなかったのだ。
ここにいる女の子を理解できていない、そこに不安を覚えるだなんて。これまでの私だったら、他者理解を考える時、諦念を起点にしていたようなもので、だから理解できない事実に恐れを抱いたり、心配したりなんてあり得なかったはずなのだ。
「わたしも、同じふうに感じたことあるよ」
「……遠野さんに?」
「正解」
彼女が微笑む。綺麗だ。
何度も見慣れているのに、なんでこんなに揺さぶられるのだろう?
「ねぇ、中庭にいこっか。サイネリアが綺麗に咲いているから」
彼女がそう言って立ち上がり、私に手を差し伸べる。私はそれをとらずに「いいわね」と立つ。出会った頃と比べてほんの一、二センチ、彼女の背は伸びた気がする。少しの変化。それがわかる期間、いっしょにいる事実がくすぐったかった。
祀梨が言ったとおり、中庭の一角ではブルーのサイネリアが花を咲かせていた。彼女曰く、年を越す頃には満開となるのだという。今この状態でも華やかだった。不満があるとすれば、その青さは寒々としていて気温の低さをひしひしと感じさせていること。
上着を羽織ってきたはいいが、月鳴館の中庭には特別な寒さが渦巻いていて役に立っていないようだった。
身震いする私を見かねた祀梨が「寒いの?」と言い、ごく自然に手を握ってきた。たかが手が繋がれただけで全身の寒さが失せることなどありはしない、そのはずなのにすぐに身体中を熱い血液が巡るのがわかる。緊張している。それが可笑しく、切ない。どうしようもなく居たたまれなくなる。でも祀梨はベンチに移らずにサイネリアを眺め続けているから、私もそれに倣った。
「今日のななみさん、やっぱり変」
花にでも聞かせるような呟きを彼女が落とす。きっと私が拾うまで落とし続けるんだろうな。
「そうね」
「開き直るんじゃなくて、理由を教えてよ」
「遠野さんと映画館に行ったことはあった?」
「え、いきなりなに」
「どうなの?」
「あったよ」
「付き合う前も付き合ってからも?」
「だったらなにさ」
ぶっきらぼうに。そのくせ、手は離そうとしない。むしろ力を入れてくる。私はちゃんと握り返しもできないのに。
「どんな映画観たの?」
「教えたら、ななみさんが変な理由も話してくれるんだよね」
彼女がその瞳を私に向ける。私は思わず顔を逸らす。
遠くに薔薇が咲いていた。秋咲きの薔薇が初冬に大輪を咲かせて並んでいる。淡いピンク。夏に来た時に咲いていた種類と違うかもしれない。あの時のあれらは何色だったか。忘れた。それよりも祀梨の帽子だったり、棘の話だったりが頭に浮かぶ。
「……座って話しましょうか」
私の提案に、彼女は黙って手を引く。そうして私たちは寒空の下、冷たいベンチに並んで腰掛けた。繋がれた時と同じく自然と離れる手。
「中二の夏休みに観たのは恋愛映画。少女漫画が原作のやつ。でも、わたしも笑実理も読んでいなかった。どっちから誘ったんだったかな。わたしだと思う。それで、その映画を選んだのはむこう。わたしはべつに観たいのがあったんじゃなかった。二人で夏休みに映画を観る、それが大切だったの」
片思いしていた祀梨。映画を口実にして遠野さんを連れ出す、そんな夏の一コマ。甘酸っぱいな。本当に。
「面白かった?」
「まあまあ。スクリーンの中で繰り広げられる高校生四人の恋愛模様はさ、なんて言ったらいいかな、映画だった。とっても、映画。わかる? いちおうハッピーなエンドを迎えて、笑実理は泣いていた気がする。号泣ってほどじゃないよ。つぅーっとね。でさ、訊いてみたの。ああいう恋愛してみたいの、って。そうしたら『えー? 普通のでいいよ』って笑ったあの子にわたしは……『わたしも!』とは返さなかったなぁ」
「付き合ってから観たのは?」
「余韻にちっとも浸らせずに訊いてくるんだね。まぁ、いいけどさ」
そう言うと彼女はその長い髪をかき上げつつ、思い出そうとする素振りをした。近々、具体的には月鳴館を出てすぐにばっさりと切ってしまおうと考えているらしい髪だ。前に「笑実理が褒めてくれた」とも話していた。おそらく褒めただけじゃなくて、触れて、撫でて、嗅ぎ、キスだってしたかもしれない。
「高校生になってすぐに、観に行ったの」
祀梨がタイトルを教えてくれる。私もその映画を最近になって配信サブスクで視聴していた。評価の高い、ハートウォーミングなコメディ映画だ。コメディと言っても、大口空けて笑える話では決してなく、じんとくる展開だった。悲劇的な結末でないのを最初から知っていたからこそ通して見ることができたのだ。
「いい話だった。観てよかったぁって、二人して話し合うほどにね。わたしたちの日常とかけ離れているようで、でも共通している部分もあって、みたいな。たださ、そこにわたしと笑実理と同じ関係を築いている女性たちって登場しなかった。あのね、それが不満だったって話じゃないの。ほんとだよ? そんな難癖つけたいんじゃなくてさ。そうじゃなくて……ちょっと考えちゃっただけ」
「普通の外にいることを?」
「ううん、そんな悲観的じゃないよ。もしもさ、わたしたちが映画の主人公だったらって。そう思った。そんな妄想、ななみさんだってしたことあるでしょ?」
「一度ぐらいは」
英数字が略称の諜報機関の凄腕エージェントになって、悪の組織をたった一人で壊滅に追い込む。そんな夢を、そういう筋書きの映画を視聴した夜に見た気はする。銃弾の雨を華麗に避けていた。
「笑実理に訊いたの。『わたしたち二人がヒロインだったら、迎えるエンディングってどんなのだろうね』って。おとぎ話の王子様とお姫様じみた、途方もない幸せなめでたしめでたし、そんなのをあの子が言ってくれるのを期待していた」
「実際は違った?」
祀梨がその唇を私の耳元に寄せてくる。銃口でも突きつけられたように私は心臓をばくばくとさせ、彼女の囁きは弾丸となる。
「『たとえば、深い海の底でね、二人して泡になって消えるのが最高じゃない?』――たしかにそう言って微笑んだの。波のない海原に臨むような優しい声でね」
その中庭でのやりとりから一週間が経ってのことだった。死んだ遠野笑実理から祀梨宛に手紙が届いたのは。
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