第23話
あまりベタベタとくっつかないで。
そう言ってしまうか、言わずに態度で暗に伝えるかを迷っているうちに、祀梨の身体が離れる。心を読まれたみたいに。そんなのは錯覚で、彼女が一線を超えないように振る舞っているというだけ。
あの日は、キスしようと言い出して、実際に頬や瞼にそれをしてきた。でも約束した日以降はしてこない。約束、つまり彼女の恋人であった遠野さんの最期に関わる話を私にしてくれるというもの。
あの日以来、私の肩にもたれて昼寝までし始める彼女の温度や香りに私は心をかき乱され続けているのだった。
「んー、結果通知の発送まで一カ月近く間があるのって、長いよねー」
十月末、受験会場である公共施設(名前からして、生涯学習を推進する施設)へと下見に出かけて、月鳴館へと戻る車内で際に祀梨がそう言った。
当初の予定では私と野々井さんが同行しての下見だった。でも一週間前、同行するのは別の職員に変更となった、野々井さんの口からそう私に伝えられた。
もとより私は祀梨に野々井さん個人のことを話さずじまいだったので、彼女からすると何も変わっていない。
また、その下見の日を使って、祀梨は久方ぶりに街を散策する機会を得られるはずだったが、彼女自身が「べつにいい」と申し出た。試験に合格さえすれば月鳴館を出て暮らすことが決まったゆえの申し出だろう。
現実的な話をすると、今の彼女が自由に使えるお金は一銭もないので、もし買い物でもする気なら、私が立て替えたり、そのうえで後から彼女の親に請求したりといった手続きが必要になっただろう。そうした手間がなくなってありがたい。
三十代半ばに見える女性職員が自動車を運転してくれ、私と祀梨は後部座席で話している。私は月鳴館には帰らず途中で下ろしてもらい、そのまま今日は帰宅予定だ。
「というかさ、本番当日も今日みたいに職員の人が車で現地まで送ってくれるなら下見っていらなかったような」
「身も蓋もないわね」
私が同行する意味だって実はそんなにないのだ。
「いつもと違う空気を吸うのも悪くないでしょ?」
「まあね。山の中にあるここの空気が特別美味しいってわけじゃないのもわかったし。あ、これはオフレコだよ」
祀梨が運転席に向けて言う。しかし職員はだんまりだった。祀梨の言葉が自分にかけられたものだとは思っていない様子である。もしくは、どんな反応をすればいいかわからなかったか。
「ねぇ、ななみさんは帰ったら何するの? わたしは指示通りに厄介な英語の課題を一所懸命しようと決めているの。そうやってわたしが頑張っている間にさ、ななみさんは何を頑張ってくれる?」
「そうね、昼寝でもしようかな」
「ひどっ。可愛い生徒がさ、将来的に使うことがほとんどないと思われる外国語を馬鹿みたいに学習している間に、すやすやと惰眠するんだ」
「わからないでしょ。意外と、十年後はどこか英語圏の国で日本人観光客向けの通訳兼ガイドとかやっているかも」
「ないない。あー、十年後にはさ、ななみさんもすっかりおばさんだよね。わたしもアラサーだよ」
「三十歳はまだお姉さんで通じるでしょ」
一瞬だけ運転席の職員がバックミラー越しにこちらを見やった気がした。いや、それはなんていうか、被害妄想かな。
「ふうん。わたしが把握している限りさ、月鳴館には目を引く年増の人いないよね。元モデルや女優やっていたでしょー、みたいな人は」
こらこら。何を言っているんだ、この子は。今まさに運転してくれている女性職員だって、なんだか疲れた目つきをしているが、休日は着飾ってダンスパーティーに出かけて男をとっかえひっかえしている可能性もあるんだぞ。ああ、でも左の薬指に指輪をはめているから既婚者なのかな。
「ななみさんの周りにはいる? すごく綺麗な三十代、四十代。って、そもそも同年代とも関わりない人だったかー」
「ちょっと、祀梨。あることないこと言わないで」
そう言うと、祀梨が小首をかしげてくる。まるで「あることしか言っていないけど?」と言いたげだ。そしてそれはそうだと認めざるを得ないのがつらい現実である。
「……強いて言えば、母方の叔母さんが無駄に美人よ」
「へぇ。親しい?」
「忙しい人だから、会う機会が少ない」
「なにしている人なの」
「さあね。詳しくは知らない。年がら年中、国内各地を飛び回っている。時々、海外にも行く。お土産を貰ったことは少ないけれど」
その件については、それなりの事情があるのだが、今ここで話す内容ではない。
私は多香子さんのことを掘り下げられるのが嫌だったので、話題を変えた。そしてそのまま当たり障りのない会話を続けていると、私が降車するポイントまでやってきた。
何の滞りなく降車した私に「またね」と窓越しにその口を動かした祀梨、そんな彼女に手を振って別れた。
私が鹿目母とランチをとることになったのは、試験から一週間余りが過ぎた日曜日のことだった。少し遅めの秋雨を降らせようとする雲が空一面を濁らせている。
午後一時前にしては気温が低く、冬が間近に迫っているのを感じる日だった。
念のためにと連絡先を交換していた鹿目父経由でその連絡を受けたのが二日前のことだ。会いたい理由はいたって明確、月鳴館を出た後で娘の支えになってくる人間がどんな人物であるかを直接知りたいからだそうだ。
筋は通っている。
会って話してみるのがいいに決まっている。ただ、私しだいで祀梨の退館の件が白紙に戻るなんてことだったら、プレッシャーが半端ない。
鹿目父は穏やかで物腰柔らかな人であったから、まだコミュニケーションができていたが、もし鹿目母がそれとは逆の人物であったらと思うと、会う前から胃が痛くなった。
清水の舞台から飛び降りるつもりで、待ち合わせ場所へと出向いた。野々井さんと何度か待ち合わせたこともある大きな駅から、歩いて十五分の場所に位置するレストラン。外装からして学生向けではないのが予想でき、そして中に入るとそれが確信に変わる。
受付で鹿目母の名前を告げると、二階の個室へと通された。
階段を上がった先、壁にかかったローマ数字の並ぶアナログ時計がボタニカル模様の壁紙に溶け込むことなしにその存在を主張していた。待ち合わせの時間どおりだ。きっかりすぎて怖くなるぐらい。
控え目な花柄に白い襟付き長袖ワンピースを着こんでいた私は、小さな個室で待ってくれていた鹿目母が似たような恰好をしているのに安心した。年齢相応の装いではあるので、その類似はあくまで広義的な解釈だ。
もしも、見るからに宗教家めいた服装をし、なにか妙ちくりんな飾り物でもしていたらと想像をめぐらせていたのが恥ずかしくなった。
纏っている色は、私とは違って暗く落ち着きのある色合い。それがそのまま彼女の顔立ちをいっそう上品なものにしていた。
なるほど、祀梨の目に月鳴館の三十、四十代職員がさほど美人に映らないのは、この人のせいだと思った。端的に表現すれば、鹿目母はきれいに年をとっている美人だったのだ。
「食べ物の好き嫌いやアレルギーはある?」
席に着き、名前と立場だけの簡単な自己紹介の後で、鹿目母はそう訊いてきた。「事前に確認しておくべきだったわね」と呟きを添えて。私が「特にありません」と答えると「それはよかった」と微笑む。
幸か不幸か、彼女の声は祀梨とは違った。その声は成熟しきった大人のものでしかない。その微笑みも同様だ。口許や目元に浮かんだ皺はあの少女とは似ても似つかない。
オーダーは鹿目母に委ねた。いかにも礼儀正しそうなウェイター相手に、ランチ用のコースメニューではなく、サラダとショートパスタ(Sサイズだ)、魚料理の三種を二人分頼んでから「デザートはどうする?」とにこやかに言ってきた。
私は断る文句が出て来ずに「つ、冷たくないものを」と苦し紛れに返した。すると彼女は梨を使ったチーズケーキを一人分だけ頼んだ。私の分、だよね?
彼女は飲酒するつもりはなく、そして私に勧めもしなかった。ガスなしのミネラルウォーターを遠慮がちに一口飲む私の姿を彼女は優し気に眺めていた。
「私はね、この短い時間で、八尾さんの人となりを十全に把握しようと思っていないわ。そもそもが、面接や尋問といった趣旨の場ではないの」
肯く私に、鹿目母は何か考える素振りをした。一から十まで、話す内容を決めてきた様子はそこになかった。
「そうね……。祀梨は自分のことを、あなたに何と呼ばせているかしら?」
「祀梨と呼んでいます。今は。前までは鹿目さん、と」
「へぇ、本当?」
鹿目母の表情に驚きがあった。
「あの子、親しい間柄じゃないと名前で呼ばせないのよ。少なくとも最後に名前のことで話した時はそう言っていたわ。小さい頃に、お祭り女なんてあだ名をクラスの男の子につけられて嫌がっていたのをよく覚えている。あと、ロックフェスとか。鹿目だから。悪くないセンスよね。あの子から話を聞く限りだとね、その男の子は気を惹きたくて、よくからかっていたみたいなの。……この話、聞いた?」
今度は首を横に振って否定を示した私だった。
「とにかく、あの子が名前で呼ばせたがっているなら、あなたは心を許した相手なのだと思うわ」
「それは……」
「ちがう?」
「えっと、そうであったらいいとは思います。ただ、お恥ずかしながら私にはに親友や恋人がいないので、彼女との距離感というのがどれほどなのかがいまいち掴めないと言いますか」
さっきとは別の驚きが鹿目母の面に出た。でも、それはすぐに引っ込んで、くすりと笑う。
「緊張しているの? そんなにかしこまって話さなくていいわよ。それに、あなた自身のことを包み隠さずに話してとも言わないわ」
「は、はぁ」
「いくつか質問するわね。答えにくかったり、答えたくないと感じたりしたらパスしてね。大丈夫、安心して。料理が運ばれくるまでに答えられるような、ちょっとした事実の確認だから」
「わかりました」
「まずは試験のこと。合格してそうなのよね?」
「ええ、彼女自身の言葉を借りれば『不合格になるとすれば、どの教科もあまりにできすぎているものだから、不正を疑われて、それをでっち上げられたときぐらい』だそうです」
鹿目母が笑ってくれる。あの子らしい、とその顔に出ている。
「たしかマーク式よね? マークミスがないのを祈るわ」
「まったくです」
「じゃあ、二つ目は……」
それから料理が運ばれてくるまで、彼女が言ったとおり、事実の確認ばかりだった。
主に私の素性に関して。地元はどこで、現在はどのあたりに住み、どの大学のどの学部学科に在籍して、サークル活動や部活動に励んだり、他のアルバイトをしていたりするのか否か。
趣味を訊かれて、映画鑑賞だと答えると「私も学生の頃はよく観に行ったものだわ」と懐かしまれた。私は小さな画面で、寝転がって観ることも多いのだと敢えて表明はしなかった。
「ねぇ、あなたの性的指向を確認していいかしら」
チーズケーキ以外、料理がまとめて運ばれてきて、鹿目母がカトラリーに手をつける前にそう口にした。
あたかも食前に祈りを捧げるような厳かな面持ちがまずあって、それを意識的に解いてからその問いはなされた。彼女がそれを訊くかどうかで迷い、しかし確かめずにはいられなかったのだと悟った。
「祀梨を……そういう意味で好きなんじゃないわよね?」
私が何か答えるより先に、彼女が追究してくる。
どうして、と思った。
まず、どうしてこのタイミングなのだと。つい今の今まで私が話していたのは自分自身についてばかりで、祀梨との関係性、積み重ねてきた四か月足らずの日々を思い返してなどいなかった。
次に、べつの「どうして」があった。
それを私は見つけた。見逃せなかった。
つまり、私はどうしてすぐに答えられないのか。言えばいいのだ、はっきりと。違います、娘さんとは少し奇妙な形ではありますが友人同士の間柄で、それ以上でもそれ以下でもないと。
言えなかった。あるいは言わなかった。
どうして?
その答えが正しくないと、嘘になるとでも思っているから?
じゃあ、本音は――――?
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