第22話

 野々井さんと遠野さん。

 その異母姉妹が重ねた時間は短いものだった。かつて野々井さんとその父親とが月に一度会っていたのをなぞるように二人は月に一度会うようになった。それを遠野さんが望んだのだ。

 せっかくだから、と。このままお別れは嫌だから、と。


 その逢瀬は祀梨の知るところに最後までならなかった。最初の数回、つまりお互いが手探り状態だった頃を除くと、二人で過ごす時間の多くが遠野さんから野々井さんへと相談する時間となった。妹が姉にあれこれと。

 その相談事の中身が祀梨のことでけっこうな割合を占めるようになったのは、中学三年生になってからだという。

 

 遠野さんは初めから野々井さんを姉として慕った。姉妹のように振る舞うことがすぐにできなかったのは野々井さんの側だった。

 遠野笑実理は、自分が親愛を寄せている父親が自分の知らない女性とこさえた娘で、そんな存在と仲良くする。物事をそう捉えてしまうと、野々井さんは逃げ出したい気持ちにもなったという。

 しかもその子には最初から両親がいて、その生活しか知らない。でも自分には七歳の頃から家には母親しかおらず、その母親も仕事で家を空けがち。その境遇の差に何も感じないと言えば嘘になる……赤裸々に野々井さんは私へとそう話してくれた。


「ですから私は、小学生の笑実理ちゃんが寝込んでばかりで、友達もいなくて、ろくに遊べもできなかったと聞いた時は、ほっとしたんです。ああ、それなら対等だって彼女の存在を許せることができました。私ばかりが不幸じゃないならいいかって。嫌な人間の思考ですよね」


 自嘲気味に笑う野々井さんの目は笑っていなかった。


「彼女たちが中三の秋、文化祭が終わってすぐに鹿目さんに告白したと私に電話で報告しました。聞くところによると、鹿目さんの成績は下がり調子で、どうにも二人はそのままだと志望校を同じにするのは難しい状態であるらしかったんです。それで、想いを伝えたうえで同じ高校に……」

「遠野さんから告白を?」


 それまで傾聴に徹していた私だったが、思わずそう訊いていた。これまで祀梨から聞いてきた思い出話は、祀梨から遠野さんへの片思いが長らく続いていた、そう受け取れる内容だったからだ。しかも祀梨は彼女自身の想いについて裏切りではないか不安にさえなっていたのだ。話していたはずではないか、遠野さんは純粋無垢で恋を知らない少女であるのだと。

 いじらしい両片思いだったの? まるで少女漫画みたいな。


「ええ。その夏には、鹿目さんの態度に笑実理ちゃんは感じ取っていたそうです。友情とは異なる『好き』の気持ちを。そんな彼女とやりとりを続ける中で、笑実理ちゃんもまた鹿目さんを他の人とは違う目で見るようになったって」

「そうだと打ち明けられて野々井さんは何かアドバイスを?」


 野々井さんは首を横にも縦にも振らず、ただ小さく溜息をついた。


「告白する前……あの子は怖がっていました。二人の関係が変わる、取り返しのつかないふうに壊れてしまうんじゃないかって。『恋人同士にならなくても、ずっといっしょにいられる、いてもいい。そうだよね?』と訊かれました。私は素直に、そうだねって答えました。そのとおりだと思ったんです。性別や年齢なんてどうでもいい、いっしょにいたいならいればいいって」


 純粋な少女の純粋な疑問に対する純粋な返答。


「でも、そこに付け加えました。周りの人たちみんなが味方になるとは限らないよって。いばらの道だとは言いませんでしたが、二人が傷つく未来もあるかもしれないと、それはしかたがないことだって」

「彼女の反応は?」

「あの子は…………」


 野々井さんが言い淀む。そしてどこか別の方へと視線をやった。それを辿ると、ベッドのヘッドボード上にある置時計に行き着いた。時刻は午後八時を回ったところだ。もう一時間も二時間もいる気もしていたのにまだ三十分余りしか経っていない。当然、窓の外の暗さも変わっていなかった。


「怒りました。『しかたがないってどういうこと?』って。笑実理ちゃんが怒ったのを目にしたのはそれが最初で最後になりました。頭が真っ白になって、私は彼女をなだめることもできずに、彼女からの詰問にひたすらに肯くことしかできない、ダメな大人で……出来損ないの姉でした」


 痛い。そう声をあげそうになるほどに、野々井さんが力強く私の手を握りしめた。彼女自身の肩ごと軋ませるかのように。

 遠野さんの憤慨。それは野々井さんにとっては予想外で、戸惑いを生むものだった。遠野さんからすれば、欲しい言葉があって、それはすなわち理解と肯定の台詞であったのだと思う。彼女たちの恋路を止めてほしかったわけがない。払拭してほしかったに違いないのだ、少女たちの特別な関係性の先に待つ決して明るくない未来への恐怖を。


「私のせいなんでしょうか」

「えっと?」

「私が二人の恋を祝福しなかったから。一般論を振りかざして、あの子の身になって考えられなかったから。あの子の味方で在り続けなかったから……」

「あの、いったい何を――――」

「笑実理ちゃんが死を選んだのは!」


 叫び声だ。それが小さな部屋いっぱいに響く。


「わ、私が彼女たちの明るい未来を描けなかったから! そこに暗さを仄めかしてしまったから……だから、綺麗なまま、あの子たちは死にたいって! ここでもう終わりたいって望んだのかなって!」

「そんなまさか、だって、野々井さんが悪いんじゃ……」


 オーバーラップする。あの時の私と今ここにいる野々井さんが。取り乱し、いよいよ声をあげて泣きはじめた彼女は私の手を振り払った。私はその姿をしばし呆然と眺め、それから意を決して彼女を抱きしめた。祀梨があの時の私を慰めようとしてくれたのと同じように私は彼女の理性を取り戻そうと努めた。

 言葉を探す。必死で。それなのに、行き着く言葉は「しかたがない」だった。避けられなかった遠野笑実理の死。

 彼女たちの心中未遂。それはやっぱり、彼女たちの選択であり、他の人間が止められなかったものなんだという見解であり諦め、もしくは現実逃避。


 同時に、そういうことだったんだと腑に落ちた。

 野々井さんが知りたい真相。いや、真相を知りたいと願うその理由。死んだ彼女が妹だったからだけじゃない。その死に自分が関わっていると思い込んでいる、罪悪感を背負っているから。


 遠野さんが怒ったその日の後、彼女は野々井さんに電話で告白の件を報告している。その電話口で野々井さんは祝福できずに、むしろその逆の言葉をかけてしまったということなんだろうか。姉として、あるいは一人の人間として。

 私は腕の中でさめざめと泣く彼女にそれを訊けはしなかった。

 

 改めて、少し整理しよう。

 祀梨と遠野さんの二人は付き合っていた。間違いない。祀梨からそう聞いている。告白は成功し、高校も同じで、恋人同士になったはずなのだ。遠野さんが野々井さん、すなわち短い間でも慕ってきた姉に怒りを露わにしたその日は一つの通過点に過ぎない。そして付き合い始めたのを野々井さんに報告した日だってそうだ。そこで野々井さんが何を言ったにせよ、それがおよそ一年後の心中(未遂)の引鉄になっただなんて、そんなのありえないと思う。

 今まさにここで、泣いて、泣いて、泣き続けている純朴な彼女が誰かをそこまで苦しめ、死を選ばせる言葉を紡げるとは信じ難いのだ。


 やがて彼女のほうからも私へと抱き着いてきた。香るのは消毒液でも香水やシャンプーでもなく、形容しがたい女性特有の匂いだった。ほんの一瞬、私はそれに不快感を覚えたが、すぐ霧散して何も感じなくなった。


「八尾さん、お願い……」

 

 涙声の懇願、その中身が私にはわからなかった。お願い、と野々井さんが何度か繰り返す。具体的に何をどうしてほしいのかを口にしない。私に彼女の苦痛を取り除き、背負っているものを下ろすように導ける自信はなかった。ただ抱きしめてあげることしかできない。それでも彼女は「お願い」とまた繰り返した。


 彼女が顔を近づけ、その吐息がついに私の耳へとあたる。


「私を抱いて……めちゃくちゃにして」


 かちり、と。思考が停止した。

 気がついたら野々井さんの身体を突き飛ばしていた。その足の一部がテーブルにあたり、ふたつのカップが倒れる。両方に残っていた液体が零れた。

 

 自分の顔が熱を帯び始めるのがよくわかった。いっそ凍り付いてくれればよかった背中に生温かい汗が流れるのも。


「で、できません」

「どうして? あの人は……あなたの叔母さんは何も言わずに抱いてくれたのに。つらいことは無理に話さなくてもいいから、ただ人肌を感じることが時に必要なんだって。ぬくもりなしには生きていけないのが人間だって。女なんだって!」


 ドンっと握り拳を彼女が床に叩きつける。恨めしそうに私を見る。あれ、何かの映画でこんなシーンなかったっけ。そんな空想を捨て去り、私は彼女に言う。


「私は多香子さんとは違います」


 立ち上がることができない。私を見据える彼女からこちらも目が離せない。すると「わかってる」と彼女は冷たい声で言い、ひとりでに頷いた。


「わかっていますよ、それは。八尾さんには私の本心を話したじゃないですか。笑実理ちゃんとの関係を伝えて、あの子の死に責任を感じているのを伝え、私の弱さを曝け出したじゃないですか」


 多香子さんと違って。

 あの人がどんなふうにこの人とセックスしたのか、そんなのどうだっていいけれど、こんな事態を今になって招くとは思いもよらなかった。私はこの人に優しくしすぎたのか? そんなことはない。そんな素振り、同性と性交渉に及ぶような態度をとった覚えはない。そんな態度があるのか知らない。とにかく彼女とのこれまでの食事会も報告会も健全だった。


「八尾さんは私を抱きしめてくれたじゃないですか! どうして……どうして私をめちゃくちゃにしてくれないんですかっ! 一夜だけでもあの子の声を忘れさせてくださいよ……!」


 彼女が私に再び接近し、床に押し倒してくる。

 観た。こういうシーンは何度か。すべてが男から女で、無理やりに及ぼうとするのだ。そのうち、寸前のところで助けが入ったり、邪魔が入ったりするものもあった。そうでなければシーンが切り替わった。

 

 私を見下ろす彼女の涙が顔にかかる。その細腕は私の両肩をしっかりと床に固定しようとしている。

 でも、憐れなほどに力が上手く入っていなかった。私は今度は慎重に――それを意識できる程度の理性があった――彼女を自分の身体から引きはがす。それができた。彼女は私の身体を性的に貪ろうとしてはいないのだ。言ってしまえば彼女は私をレイプする気はない。彼女が欲しているのは私からの仮初の愛、私から彼女を抱くことなのだから。


 私は起き上がる。

 彼女が身を丸めて嗚咽を漏らすのをしばし見ていた。

 

 もう一度だけ、私はそう自分に言い聞かせて彼女を抱きしめる。そうせずにさっさとこの部屋から出てしまう選択肢があった。当然、そうしてもよかった。

 でも、そうはせずにもう一度だけ彼女を力強く抱きしめ、囁く。


「落ち着くまで、こうしていますから。それはできますから。それでどうか……」


 許してください。その言葉を飲み込んだ。許しを乞うのは違うと思ったからだ。私の行動は矛盾しているんだろうか。思わせぶりなんだろうか。この人とセックスできなくても、この人の心を少しばかりでも救いたいと願うのは偽善なのだろうか。


 多香子さんならどう答えるだろう? あの人が心の底から求めている女性は既にこの世にいない。あの人はいつまでその影を引きずる? 私はそんな恋に落ちることがあるの? 誰かを切実に想いながら初対面の女性と行為に及ぶなんてのは到底できそうにもなかった。


 午後九時。

 私はその部屋を出た。野々井さんの枯れた声の「ごめんなさい」に、私は首を横に振ると「誰も悪くない。そう信じたいんです」と力無く笑った。

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