第21話
十月が折り返しに差し掛かった日、私は野々井さんの部屋に来ていた。時刻は午後七時半。当に夕方は過ぎているが夜中というにはまだ浅い時間帯だ。秋らしい肌寒い風を受けたのは、彼女が運転する車を出てその部屋へと移動する少しの間だけだった。
「なんだか緊張しますね」
月に一度か二度、友人を部屋に上げていると話した野々井さんだったが、私の訪問にはそんな感想を述べた。二人きりで話すのに向いている場所、たしかに私はそうした空間の提供を求めたけれど、彼女の自宅は想定していなかった。お酒が飲める口だったら、バーにでも連れて行ってもらえたのだろうか。
「こ、ここだけの話、八尾さんから、二人で会って話したいと言われた時から緊張しちゃっていたんです」
インスタントのフルーツティーをマグカップに淹れてきてくれた野々井さんがそう言った。私は苦笑を返して、彼女の部屋を遠慮がちに見回してみる。
間取りそのものは私が暮らしている1Kの部屋と大して変わらないが、若干狭く感じる。私の部屋と違って、ものが多いからだろう。むしろこれぐらいが平均的なのかな。
整理整頓がされているし、マットやテーブル、カーテンなどに目立った汚れはなく清潔感のある部屋だ。大人っぽさはあまりない。とどのつまり、一人暮らしの女子大生の部屋だと言われても納得する部屋だった。
「その子はバニーカクタスの、ゆきみです」
私の視線が部屋の片隅、キャビネットの上に置いてある小ぶりの植木鉢で止まると、向かいに座る野々井さんがそう教えてくれた。
「……サボテン、ですよね?」
「はい。ウチワサボテンって言われているグループの一種で、見た目がウサギの耳に見えることからバニーカクタスなんです。白桃扇とも言いますね。えっと、名前をつけているのって変ですか」
「いえ、大事にされているんですね」
「この部屋に越してきてからの付き合いです。子供の頃に白いウサギを飼っていたんですよ。その子の名前はダイフクって言って……す、すみません。こんなの興味ないですよね」
あるかないかの二択であれば、なかった。無論、それをそのまま口にはしない。私は、ゆきみと名付けられたサボテンをしばし眺めた。サボテンならうちでも飼育できそうだな。名前を付けるかはわからないが。
今夜の野々井さんは濃いベージュのハイウエストパンツを履き、カーキのセーターを着ている。そわそわしっぱなしだ。
「もしあれだったら、部屋着に着替えてもらってかまいませんよ」
「えっ? あ、あれというのは?」
「リラックスできる恰好で話ができればと思っただけです。余計な一言でしたね、忘れてください」
「着替えたほうがいいでしょうか」
「……野々井さんが望むようにしてくださるのが一番です」
そう言うと、もう何度も見たように、野々井さんは口をもごもごとさせ、そして結局は着替えずにカップに口をつけ、啜った。そして「熱っ」と離す。猫舌か。
「ええと、話というのは言うまでもなく鹿目さんたちの件です」
甘い香りが漂う中で私はそう切り出した。
「結論を言います。今日この場で、私は野々井さんが求めている真相をお伝えすることはできません。彼女からまだ聞くことができていないからです」
我ながらずいぶんと堅苦しい話し方だった。
「も、もしかして拒否されたんですか」
「いいえ、ある意味ではその逆です」
「逆?」
不安から怪訝に。
野々井さんの顔色が変わる。
「約束したんです。認定試験が終わったら、その結果に関わらず、私の知りたいことを教えてくれると。野々井さんの名前は出しませんでしたが、元々は誰かから依頼されたのだという事実も明かしました」
私がそう言うと、野々井さんは「なるほど……」と呟き、また一口啜った。彼女の舌にとってはまだ熱いのが反応でわかる。
「小耳に挟んだ情報では、鹿目さんは試験に合格したあかつきに、月鳴館を出るのだとか。この件、八尾さんは真偽を含めてご存知ですか?」
「ええ。少し前に訪問なさった鹿目さんのお父様から聞きました。確かですよ、あの子は……月鳴館を出るつもりです」
「信じていいんですよね」
野々井さんがカップを両手で包み込むように触れ、香りたつ水面を覗き込むようにしながらそう言った。
「八尾さんが鹿目さんから聞き出したことを、私に嘘偽りなく伝えてくれるのだと。そう信じてもいいんですよね?」
「そのことでお話するために、今日は時間をとっていただきました」
顔を上げた野々井さんは非難じみた眼差しを私に向け、それから目線を逸らすと「つまり?」と言い、唇を噛んだ。
「単刀直入に言います。鹿目さんに野々井さんの素性を打ち明け、同席してはどうですか。あなたが知りたいことを彼女が話してくれるその場に。私からの伝聞を待つのではなく」
私の申し出に野々井さんが口を開き「でも!」と勢いよく言う。その先がなかなか出てこない。いつかの私みたいだ。私の唇に指をあてた祀梨のことも思い出された。もちろん、私は野々井さんを相手に同じことはしない。
野々井さんが俯く。
もうカップも見ていない。
「私が笑実理ちゃんの存在を知ったのは、彼女が七歳の時でした」
重々しい口ぶりで話し始めた野々井さんに、私は自分が話を聞いているというサインをよこしたかったが、何も言えなかった。
そこで私は柄にもなく、立ちあがって彼女の真横まで移動した。その肩を抱き寄せこそできなかったが、そっと触れた。
すごいな、と今になって思った。祀梨のことが。あのとき彼女は、私を抱き寄せて髪まで撫でたんだよね。拒まれるのを怖がらなかったんだろうか。現に私は一度は拒んだのに。
今、野々井さんの肩に軽く乗せた自分の手が、いつ彼女に振り払われてしまうかと恐れている自分はひどく臆病な人間なんだと気づかされた。
「奇しくも両親の離婚もまた、私が七歳の頃でした。それ以来は月に一度だけ父といっしょに過ごしていたんです。二年後に父は再婚しましたが、しばらくは月に一度の父との休日は続きました。私がそう望んだから、そしてそれを向こうも、つまり笑実理ちゃんの母親も認めてくれたから。でも父は……再婚とほとんど同時期に笑実理ちゃんが生まれていたのを教えてくれていなかったんです」
遠野笑実理の存在を野々井さんは母親から聞かされた。彼女の父と別れた後はシングルマザーとして野々井さんを育ててきたその人から。
その時には既に月に一度に会うことはなくなっていた。野々井さん曰く、どのようにそういう決定が下されたのか、誰の合意があってそうなったのか不明瞭であるそうだ。少なくとも、野々井さんは父と会えなくなって寂しがった。
その寂しさが多少なりとも薄らいだのは高校生になってからで、それは世間のなんたるかがわかってきたゆえなのだと野々井さんは私に話した。そしてそのタイミングで、父と見知らぬ女性との間にはもう七歳になる子がいるのだと知らされたのだ。
「高校生の私は笑実理ちゃんに会おうとは思いませんでした。会っても彼女を困らせるだけってわかっていましたから。けれど、もしも彼女のほうから会いたがったのなら、そんな日が仮に来たなら、会ってもいい。そんなふうに構えていたんです。その頃には私は大人で、彼女ももう大人かもしれないな、なんて思って」
九歳という年齢差。母の異なる妹。その関係性は私と祀梨、私と多香子さん、私と野々井さん。それらとはまるで違う。
「八尾さんも知っていますよね? 笑実理ちゃんは中学生にあがる頃までは病弱で家に籠りきりのことが多かったって。私がそんな彼女と会っても、ろくなこと言えなかっただろうから、会わなくて正解でした」
そこまで話してから、野々井さんは私が肩に触れている側とは逆側の手で私の手に触れた。振り払うどころか、離したくないとでも言うような触れ方にどぎまぎとしてしまう。
「看護師をやめて、何日か後に私は父に会いたくなったんです。およそ十年ぶりに。会って、話したくなった。誰かに慰めてほしくなったんです。お母さん以外の誰かに。友達じゃダメで、恋人はいなくて、そうしたら自然と父の顔が浮かんで。彼の勤め先が変わっていなかったこともあり、連絡ができました」
二人の父である彼は、野々井さんのために時間を作った。一度で終わらず、二度、三度とあたかもそれまでの空白の年月を埋めていった。
そうして野々井さんは恩師の紹介によって月鳴館への就職が決まった。人間関係が理由での退職、それから立ち直ることのできた野々井さんは、新しい家族のためにもう頻繁に会わない方がいいと父に言った。父もそれを了解した。
道端で笑実理さんと二人がばったりと出くわしてしまったのは、そういった話し合いをした日の終わりだったそうだ。
十三歳の彼女は――祀梨と既にプールでの邂逅を済ませている――二人の関係を直感的に理解した。仕事仲間や不倫相手、年の離れた友人、それらとは違う空気を感じ取ったのだろう。
「『私のお姉ちゃんですか?』と笑実理ちゃんから言われて、私はガツンと頭を殴られたような感覚に陥りました。あの子は、父親が以前に別の人と結婚していたことをそれとなく知っていたんです。父は自分からは話していないと言っていましたから、彼女の母親が口を滑らしたのでしょうか。いずれにせよ、私は今でもあの日の笑実理ちゃんが瞼に焼き付いて離れません。いいえ、姿よりむしろ……声」
ぐっと。私の手を握る力が強まった。
「真っ白な。あるいは無色透明な。どんな色も寄せ付けることのない、穢れを知らない声。八尾さん……きっとあなたならわかってくれるはずです。あなたは笑実理ちゃんの声を知りません。生きた彼女に会ったことがないのだから。でも、わかってくれるはずです。知っているはず、そうですよね?」
透明感のある声、その主。頭にすぐに浮かぶ顔があり、響く声がある。祀梨もそういう声をしているではないか。
「私は……あの子の声が怖いんです。あの声は、笑実理そっくりです。生き写しかと思うぐらいに。なのに、話す内容は全然違うんですよ? 混乱します。耳を塞ぎたくなるんです。だから私は……もうあの子の前に立ちたくないんです。もしかすると――――」
野々井さんが手を離し、そして私を見やった。傍であっけにとられていた私を。その瞳は潤んでなどいなかった。
「あの子は笑実理ちゃんの声を奪ったのかもしれません」
戯言だと笑い飛ばすには、あまりに真に迫った彼女の表情に私はやはり何も言えなかった。
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