第20話
私が顔を背けると、鹿目さんの動きがぴたりと止まった。でも引きはしない。彼女の顔、というよりその唇はすぐそこにまだあるとわかる。
鼻息を荒げることなく、むしろ息を止めているんじゃないかってぐらいに静かに、彼女はそこにいる。
数秒から数分、あるいはもっと。引き伸ばされていく時間が彼女の口づけで元どおりになる。彼女の唇が私の頬に触れ、そして離れたのだ。何度も映画で聞いてきた、キスの音が耳の奥でこだまする。私はほとんど反射的に頬に触れた。熱い頬に。
「ねぇ、先生ってキスの一つもしたことないの?」
そう訊いてきた彼女の声色に嘲りはなく、でも同情的な色合いがあった。
「そうよ、ないわ」
投げやりに返す。
それから息を吸った。深く。甘ったるくも苦い香りがした気がした。
「お互いの唇を合わせる行為に限定するのならね。悪い? 高校生の頃、文化祭の打ち上げで、友達からノリで今みたいに頬にキスされたときですら、顔を真っ赤にしていたから、からかわれたものよ。『もしかしてそっちの気あるの? 海外じゃ挨拶代わりだよ?』だなんて。馬鹿じゃないの。二十歳の女が
そこまで言って息切れした。
過呼吸になりかけて、どうにか自分を落ち着かせる。醜態だ。ひどい有り様だ。年下の子に頬にキスされただけで、こんな取り乱すなんて。
「落ち着きなよ」
さすがの鹿目さんの声も上擦っている。そして私の肩から背中にかけてをさすりはじめた。私はそれを「触らないで」と払いのける。声の割に弱々しく。
「潔癖症だとも言われたわ。その傾向はあるかもしれない。でも、私だってたとえば、野球部で四番を打っていた男子のぶっとい腕のに触れてみたくなったり、無駄にイケメンな柔道部の顧問の胸板の硬さがどんなものなのか知りたくなったりもしていたわよ。それじゃダメ? 性器にでも興味を持たないといけないの?」
饒舌だった。いつ舌を噛んでもおかしくないような速度で、淀みなく口から言葉が流れ出てきていた。吐露だ。トロトロだ。
鹿目さんは私をそっと抱き寄せた。「やめてよ」と言ってもやめてくれない。それどころか、私の髪を撫でさえしてくる。
「女の子相手には?」
「そんなこと聞かないで」
「教えて、先生」
「……羨むことはあったわよ。綺麗な髪や細い脚、白い肌、大きな胸。これって普通でしょう? そういうのに憧れて、あれこれせっせと努力する。だいたいみんなそう。逆に何にもしない子はブスやずぼらって言われるオチだもの」
「欲情はしなかった?」
「あなたとは違う」
髪を撫でる彼女の指が止まる。
突き放すような物言い。悔やんだのは口にした後でだった。また失言だ。彼女は私を根暗と言ったが、それだけじゃなく根がねじ曲がっているのだろう。そう開き直っても、じゅくじゅくと心が痛むのを止められない。言わなきゃよかった。おそるおそる彼女の顔を見やる。微笑んでいた。それでつい、私は自分でも知らなかったような自分の本音を打ち明ける。
「欲情とまではいかずとも、見蕩れてしまったり、胸がドキドキしたりすることはあったわ。同じ女子相手にね。でもそれが継続することはなかった。ほら、いるでしょう? 同性でもドキッとするような色気がある人って。身近にいなくてもスマホやテレビの中に。そういうのよ」
「わたしはどうかな」
「あなた相手にってこと?」
微笑んだままの彼女が肯く。私は首を横に振り、それから「でも」と言い、けれど後が続かなかった。
「取り乱して悪かったわね」
私は彼女と距離を置く。立ち上がり、椅子にも座らず、勉強机に立ったままでもたれる。目を閉じ、指で目元を抑え、呼吸を整えるのに集中する。
鹿目さんの指づかいと息遣いが、私に遠い昔のことを思い出させた。七歳か八歳の頃。どこにでもある話だ。近所の人が飼っていた小型犬が病気で急に死んじゃって、私はその子が好きでよく遊び相手になっていたから泣きじゃくった。それでお母さんが慰めてくれたっけ。ぎゅっと抱きしめてくれたのだ。
その記憶が引鉄となり、既にこの世にいない母との日々が思い返されていく。その連鎖が止められない。ようやく止まったと思ったら、それはあの日に繋がる。そこが終点だから。母が死んだあの日。
「隠し事や秘密と言うには微妙だけれど」
目を閉じたまま、私はそう呟く。それが彼女に聞こえたかはわからない。それを確かめずに私は続ける。
「私の母の死について、聞いてくれる?」
目を開いた私はゆっくりと彼女のほうへと視線を向けてそう言った。彼女もまたゆっくりと私へとその顔を向ける。それまではソファ、私がいたそこをじっと眺めていた気配があった。
「先生のお母さん、亡くなっているの?」
「言っていなかった?」
「うん」
「事故死なの。自動車同士のね」
「そう、なんだ……」
「相手側も大怪我。過失割合は二対八で……ってそんなこと今はいいわよね。当時は重要なことだったみたい。たしかに、死んだお母さんのほうが悪いってことになっていたら、私は今頃、相手を殺していたかもね。いや、どうかな。そんなことしたって帰ってこないんだから、どうもしないか。私ね、こう見えて怒りよりも悲しみがずっと続くタイプなのよ。って、なに話しているんだろう」
鹿目さんが立ち上がる。「来ないで」と私は言う。叫びそうになったのを堪えて、なるべくいつもどおりの声で。彼女は従ってくれて、ソファに座り直した。
あえて補足することはない。あの時、多香子さんが葬式で加害者の親族相手に暴れたから、かえって私は冷静になれたなんて話はしない。この子にしてもどうにもならないのだから。
「それで……先生のお母さんの死に、隠し事や秘密に近い何かがあるの? ねぇ、もしもさ、その告白を対価として笑実理のことを話させようと思っているなら、無理しなくていいんだよ?」
黙り込む私。彼女がまた立ち上がった。今度は「来ないで」が言えない。そのまま私に近づいた彼女は私の手を引き、ソファへと二人で戻る。隣同士で腰掛け、私の肩を抱き寄せる彼女。どうしてこの子はいとも簡単にこういうことができるんだろうって不思議がる。
本当なら私が彼女たちの過去を、遠野笑実理の死の真実を聞き、慰めるとすれば私の側であるはずなのに。そんな光景を今朝は思い描いていたはずなのに。
彼女が「あのね」と囁く。おふざけなしのトーンだ。
「そんなの求めていないよ。本気で嫌がることは求めたくない。先生がつらい顔しているのを見るのはさ……わたしもつらいんだ。だから――――」
「聞いてほしいの」
私は彼女の手をとる。小さく綺麗な手だ。赤子でも大人でもない、少女の手だ。その手触りと温度が今は愛しい。
彼女がこくりと肯いてくれ、私は話す決意をした。父と多香子さん以外に話したことのないあの日の電話の中身。
「私のせいなのよ」
「えっ?」
「電話したの。事故が起きる前、私がお母さんに。昔、家族三人でお花見に行ったあの場所の桜はもう咲いているかなって」
三月末。私の住んでいた地域なら十分に桜が咲いている時期だった。一人暮らしを始める前、すなわち地元にしばしのお別れを告げる前に桜を見れたのなら、そして昔みたいに三人でお花見できたのなら。そんなふうに思いついたのだ。
「ちょうどお母さんが仕事から帰る時間帯だったの。それで、帰りに寄って確かめてくれるって話になった。私ね、そうやって思いつきで電話して、お願いをすることなんてめったになかった。あれが最初で最後だったかも。高校を卒業して、ついに大学生活が始まるってので心が浮き立っていたのよ」
「その寄り道で……?」
私は肯く代わりに鹿目さんの顔に触れた。
「お願い、そんな顔しないで。そんな顔されるために話しているんじゃないの。さっきみたいに微笑んでいてよ。そうしたら落ち着いて話せそう」
「む、無理言わないでよ」
突然触れたせいだろう、彼女は驚いていた。それからぎこちなく笑ってみせた彼女に感謝した。
顔。出棺前に目にした母のそれは安らかなものだった。不幸中の幸いと言ったらいいのだろう、事故の際に顔面の損壊はなかったのだ。私は鹿目さんの顔から手を離した。その温度が少し名残惜しく感じられた。
「結局、桜を見ることなしにこっちに来たわ。あっという間に時が流れたの。お父さんが引きとめたわ。せめて入学式前日まで地元にいてほしいって。けれど、ごめんねって伝えた。お母さんとの思い出が詰まった家にいるのが耐えられなかったから」
多香子さんほどではないけれど、父は多忙の身だ。家に帰らない日も少なくない。おかえりを言ってあげられないのは心苦しかったが、地元を予定どおりに去ったのだ。
「電話なんてするんじゃなかった」
「先生は―――」
「悪くない? そうかもね。でも思わずにはいられない。あなたにだってあるはずよ。あの時ああしていればと思うことが。いいえ、誰にだって。この後悔は消えない。ずっと抱えていく。そう割り切っているわ」
そうだ、割り切っている。
私が電話の件を伝えた時、お父さんは「ななみのせいじゃない」って言ってくれた。まずその言葉がまっすぐに出てきたのを私は耳にした。
多香子さんは黙って私を抱きしめた。潰されちゃうんじゃないかってぐらい思い切り。でもその時は何も言ってくれなかった。
視界が滲む。
ここまできたら、この子の前で見栄を張るのはやめて涙を流したほうがずっと楽かもしれない。そんなことを考えつつも手の甲で濡れた目元を拭う。
意外にも流れ続けはしない。カビの生えた悲しみが身体からちょろりと漏れ出た、そんなつまらない涙だった。
「わたしも先生にそんな顔してほしくない」
そう言った鹿目さんが私の乾ききっていない右目、その瞼にキスを落としてくる。躊躇いがない。この子はかつて遠野さんをこうやって慰めたことがあるのかもしれない。彼女の雫を舐め取りさえしたのかも。私は場違いにもそんな想像をした。
「ハチ先生は強くて弱いんだね」
「急になによ」
「お母さんが亡くなった後、すぐに大学生になってさ、人との繋がりをそれまで以上にほしがってもいいのに、その逆を進んだわけでしょ? それはなんだか……強くて、弱い。そう思ったの」
「分析ありがとう。でも、社交性は元からなかったわよ」
「ええ? けどさ、高校の頃は打ち上げで盛り上がれる友達がいたんでしょ」
「それはそれ、これはこれ」
「なにそれ、ふふっ」
私に今、友達らしい友達がいない事象と母の死に関連性はない。第三者がどう言おうが、私はそう信じることにしている。
「ついでに言っておくとね、あなたのことをロクって呼ぶタイミングもわかんなくなっているのよ。今更だけどそう呼んでもいい?」
「わお。すごい話題転換じゃん」
「まあね」
「どうしようかなー。嫌だって言ったら?」
「呼ばないわ」
「祀梨」
「……え?」
「だから、祀梨って呼んで。いいよ、先生になら」
今日一番の笑顔とともに彼女がその指を私の唇に押し付けてくる。人差し指のお腹が上唇と下唇にぴたっと封をする。
「『でも』も『けれど』もなし。はい、どうぞ」
そう言った彼女の指が私の唇から離れても、すぐには口を開けなかった。彼女の目には期待があって、その頬の微かな紅潮に私の心が揺れた。その揺らぎは特別だった。
「祀梨」
「えー? 小さくて聞こえない」
「からかわないで、祀梨」
「ふふっ。わたしもさ、ななみさんって呼ぼうかな」
「勝手にしなさいよ」
「いいの?」
「嫌だって言ったら?」
「呼ばない」
呼びたいのなら呼べばいい。
私はそれを彼女の頭を撫でることで示すのだった。
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