第19話

「連れ出すだなんて……それってどういう……」


 鹿目父からの突然の願い出に思わず眉をひそめた。鹿目さんを月鳴館から連れ出す。それは私にこれまで観てきた映画の中の逃亡劇や脱走劇を想起させたが、しかし彼女の境遇はそれらとは違う。


「申し訳ない。困らせるつもりはなかったんです。なにも私は、今すぐに祀梨をどこかへ連れて行ってほしいと頼んでいるわけではありません」


 こちらの動揺を察した彼が、頬を掻いてそう弁解した。


「認定試験に合格した後のことです」

「順調にいけば合格通知が来るのは十二月の頭、つまりは二か月後。さながら合格祝いということでしょうか」


 私がそう言うと彼はかぶりを振る。 


「合格したらあの子にはここを出てもらい、一人暮らしをさせようと思っているんです。それが祝福になるかはわかりませんが」


 一人暮らし? 

 どちらかというと箱入り娘の雰囲気のある鹿目さんがいきなり自分の力で家事や炊事、その他諸々をこなせるとは思えなかった。その一方で、高校生のときまでは実家暮らしで母親に頼りがちだったこの私がなんとかなっているのだから、彼女も必要に迫られれば、意外とどうとでもなるかもしれない。


「先ほどのお話から、月鳴館に居続けさせたくない事情はわかります。ですが、ご実家ではいけないのですか?」

「私たち夫婦は留守にすることが多く、祀梨の傍にずっといてやることは難しいのです。将来のことを考えるなら、早い段階で自立した生き方をさせたほうがあの子にとっていい」

「ですが……」

「薄情な親ですよね」


 遠回しに私が言おうとしたことを彼は言い、肩を竦めてみせた。


「非情といったほうがいいかもしれない。本当にあの子のことを思うなら、私は……仕事を変えて、いっしょにいられる時間を作るべきです。いえ、べきというのは間違いですね。そうしたい気持ちがあるんです。義務感なんかじゃない。祀梨は……妻との不妊治療の末にできた子で――――」

「ま、待ってください」


 今日会ったばかりの、自分の半分も生きていない小娘に話す内容ではないはずだ。そこまで思い詰めているのか、この人は。あるいは、身近に相談できる人がいないのか。声には哀愁が色づいている。


「えっと……祀梨さんが大切な一人娘であるのはわかります。だからこそ近い将来に一人暮らしをさせてあげたい、そのお気持ちも伝わりました」


 そこで一旦言葉を切ると、彼が小さくうなずき、私は続ける。


「それで私が協力する、というのはいったい? たとえばお母様の説得をお手伝いすればいいのでしょうか」

「いえ。八尾さんは、その……祀梨に年が近い女性なので、下手に会わせると妻が勘繰ってしまうおそれもあるので」

「勘繰る?」

「祀梨との仲を、です」


 遠野さんとかつてそうだったように、私があの鹿目さんと恋仲だとみなされてしまう可能性があるということか。鹿目さん曰く、鹿目母からすれば「病人」だと。


「私たちはべつにそういう……」

 

 先生と生徒。友達同士。どちらも私たちの仲を表すには不十分だ。けれど、それを恋や愛という語句で表現するのもまた違う気がする。


「ええ、私はそうだと信じています。妻がどう思うかは別ですが」

「それなら、私は何をすれば?」

「安心なさってください。私たち家族のことで、八尾さんに無理難題を押しつけはしません。定期的に様子を見に行ってほしい、それだけです。週に一度、忙しいのなら半月に一度でも」

「な、なるほど」


 思ったよりも簡単な協力だった。

 月鳴館を出た後の彼女の暮らしを支えてあげる。たとえば毎日、食事を作ってほしいみたいな無茶ぶりだったら断っていたが、週に一度顔を観に行くぐらいであればできる。そう忙しくない身の上だから。

 

 鹿目父は私が住んでいる場所を聞いた。

 まだ借りる部屋を決めていないが、月鳴館に通うよりは時間も交通費も減らせるようにすると彼は言う。

 続けて、就職はどこでするつもりか問われて困ってしまった。たしかにこの地を離れて、地元やそれ以外の土地で就職するのなら鹿目さんのもとへと通いにくいが、鹿目父がもうそんな未来のことまで視野に入れている事実に多少尻込みする。

 大人はみんな、一年や二年も先のことを間近に感じて生きているんだろうか。


「話をまとめると、八尾さんがあの子の一人暮らしを助けてくれると約束してくだされば、私としては認定試験の合格を口実にこの施設からあの子を半ば強引に退館させてやろうと思うんです」


 けれども、と私は悩んだ。

 この依頼を引き受けるか否かではない。鹿目父が出会ったばかりの私なんかを信頼しているのには恐縮ではあるが、断る理由とはならない。

 単純に、彼女の生活を案じた。つまり、月鳴館という守られた場所から、移された彼女に危険が及ばない保証はないのだ。もし隣人が好色な男子学生だったら、もし彼女が引っ越ししても無防備な姿で出歩いたら、もし堕落した生活を続けて受験勉強が手につかなくなったら。心配しはじめると、きりがない。


 いっそ、それだったら――――。




 十月二週目。

 試験までいよいよ一カ月を切った。私が通い始めてすぐに認定試験への出願は済ませたが、受験票はまだ送付されていない。十月下旬頃に送られてくる予定なのでまだ焦ることもないけれど。オンライン受験は不可能なので、会場の下見という名目で十月末に私と野々井さんと本人との三人で出かけることに決まっている。


「慣れって怖いよね」


 昼休憩が終わって、鹿目さんがソファで私の肩に寄りかかりながら言う。


「春から夏にかけてはさ、山を下りて外に出たいなー、人目を盗んで出ちゃおうかなーってわりと真剣に計画していたの。ほら、ちょうどハチ先生がペンギンを盗もうとしたときみたいに」

「同じように頓挫した?」

「うん。出口の確認はしたよ。誰にも見つからず敷地外に行くのはできそうだった。テツジョウコウや有刺鉄線に囲まれているんじゃないし」

「それを言うなら鉄条網」

「そう、それ。ようするにさ、監獄じゃないって言いたかったの。でもね、たとえ一時的にでも街にたどり着けてもその後が面倒じゃん。お金もないし。かと言って、春を売るのは嫌だなぁって」

「まともな倫理観があってよかったわ」


 寄りかかっていた鹿目さんがずり落ち、それから私の膝に仰向けで寝始めた。いわゆる膝枕にされてしまった。常々思っていたが、膝ではなくそこは腿だ。いや、そんなことはどうでもいい。


「あれ? 先生、照れている?」

「少しだけね。顔を横に、あっちに向けなさいよ」

「耳かきしてくれるの?」

「しない。それに、基本的に耳かきは不要なのよ。綿棒を無理に奥まで突っ込むと、内側を傷つけたり、逆に耳垢が奥に溜まったり、むしろ悪い事態に繋がることもあるぐらいなんだって」

「奥まで突っ込むって、なんかえっちだね」

「男子中学生か」


 くすくすと笑いながら彼女が顔を横を向ける。もちろん、私がいるほうとは逆側。誰かにこうやって足を枕代わりにされるのは初めてのことで、肩に寄りかかられるのはまた違う感触がして、くすぐったい。


「ハチ先生が来るようになって、季節も変わってさ……最近はね、街に出るのがちょっと怖いんだよ」

「怖い?」

「うん。去年のわたしは引き籠りの人たちがどんなふうに感じているか見当もつかなかったけど、今ならわかる気がする。外に出なくても生きられる、中にいたほうが楽で、外は怖いもので溢れている。だから引き籠るのかな」

「もしかして――」

「ううん、あの時にお父さんに言ったのは嘘じゃないよ」


 約一週間前のあの日、鹿目父と私が面談室から彼女の部屋へと戻って話したこと。鹿目父、そして私の提案を彼女は受け入れた。そうしたい、と言ってくれた。


「怖さもあるけれど、楽しみもあるからね。まさか先生とお隣さんになれるかもだなんて、びっくりわくわくだよ」


 それこそ私が鹿目父に申し出たことだった。つまり、まだ部屋が決まっていないというのなら、私が部屋を借りているアパート、その空いている隣室に引っ越すのはどうでしょうかと口添えしたのだ。

 そうすれば極端な話、二十四時間体制で彼女の家での困りごとに対応できる。小さなアパートとはいえ、私の両親もそれなりに過保護であったから、セキュリティー面は問題ない建物のはずだ。


「わたしは同棲でもよかったんだよ?」

「それはこちらから願い下げね」

「えー、どうしてさ」

「自分の部屋に誰か上げるだなんて身の毛がよだつもの」

「いやいや、そこは別の部屋に、広いところに引っ越して二人暮らし始めるっていう仮定だよ。わたしだって四畳半の同棲は苦しいって」

「うちは四畳半じゃないから」

 

 それに同棲って言い方はやめてほしい。せめてルームシェアだろう。世間一般としては、同棲というのはそれ相応の関係性にあたる人たちがするものなのだ。


「ところで今日の午後は先生のほうから話があるんだよね」

「ええ、そのとおりよ」


 休憩前に私から切り出したことだ。これについては、鹿目さんが前に求めてきた私自身に関して何か話してみる、というのではない。そうではない。そろそろ訊かないといけないことだ。野々井さんに頭を下げられてから既に十日近く経っている。そのうち、十月に入って月鳴館に来ていない日もあるとは言っても、先延ばしすればするほど、気が重くなるのだ。


「膝枕してもらいながら聞くのは失礼?」

「そうね、あなたが答えにくいと思う」

「うん? わたしのことなの?」

「あなたたちのことよ」

「ねぇ、笑実理の話だったらさ、今日はしたくない」


 面食らった。やられた、そう思った。そんなふうに拒まれるとは予想外だった。だって、これまでなんだかんだで話してきてくれたから。時にうっとりと、時にしっとりと遠野さんとの思い出を聞かせてくれたのに。


「どうして?」


 私がそう聞くと彼女は黙った。やがて起き上がって、大きく伸びをした。寄りかかってこない。


「理由いる?」

「いらないって、前なら言っていたわ。あなたを知ろうとしていなかった頃はね。でもあなたがここを出る前に、私は聞いておきたいの。知りたいことがあるのよ」

「わたしと笑実理のことで」

「そう」

「笑実理の死について?」

「……そう」


 鹿目さんが口を閉じて見つめてくる。ただそれに集中している。

 顔が火照る。前にもあったはずなのに、彼女に至近距離でこうも熱い眼差しを向けられると、くすぐったいを通り越して、恥ずかしさがこみあげてくる。


「じゃあ、キスしよっか」

 

 甘い囁き声が何を意味しているのか、よくわからなかった。その内容を理解するとともに、私は首を横に振っていた。嫌よ、と言うつもりが口を閉ざしたまま生唾を飲み込む自分はどうかしている。


「……キスしたら教えてくれるの?」

「まぁ、約束はできないけどね」

「私も春を売るつもりはないわ」

「ねぇ、先に教えてよ。先生は本当に自分の意志だけで笑実理の死について何か聞きだそうとしているの? それとも誰かに頼まれて?」

「正直に言えば、きっかけは第三者から与えられたものよ」


 鹿目さんがやっと視線を外す。「ふうん」と呟くその面持ちが冷たい。


「先生みたいな自称陰キャの美人女子大生がここに来たのは偶然なんかじゃなくて仕組まれたことだったわけかー」

「妙な言い方しないで」

「隠し事をしていたんだよね」

「そう、なるのかな」

「なるなる」


 大きな溜息をした彼女が頭に手をやりその黒髪をくしゃっとした。それから、また一つ溜息。

 

「じゃあ、お仕置きね」


 そう言うと、彼女は顔を近づけてきた。

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