第13話

 遠野笑実理とおのえみり

 それが鹿目さんの心中相手の名前だ。鹿目さん曰く「国際化を鑑みてつけられた名前」だそうで、鹿目さんを含む同級生たちからエミリーと呼ばれていた。

 母音を引き延ばす、それだけで異国情緒が香る。それは過言だろうけれど、本人も満更でなかったのだと言う。

 名付け親から注がれた愛情を、明るい笑顔と聡明な理性とで返していた。たとえ十六で命を絶つことになっても。

 

 そんな彼女を、鹿目さんが二人きりの時だけ「笑実理」ときっちり音を止めて呼び始めたのは出会って一年してからだった。

 二人の出会いは今からおよそ四年前、お互いが中学一年生だった頃まで遡る。彼女たちが通っていた中学校は周辺地域の三つの小学校を卒業した児童の大半が進学する公立中学校だった。

 

「笑実理はね、入学式の日を風邪で休んだの。それで別日に一人だけクラスメイトの前で自己紹介させられた。ただね、彼女の声は人前でスピーチするのには不向きだった。滑舌だけならまだしも、声量が足りていなかった」


 鹿目さんはそう私に囁く。いつもの透明な声で。場所はソファ、そんなに近づかなくても、と思う程度の距離で彼女は傍にいる私に滾々こんこんと遠野さんとの思い出を語り聞かせるのだ。

 

 今日はやっと二人の馴れ初めの話らしかった。


「あの子が通っていた小学校は周辺で一番小さくて、今ではもう廃校している。そこの卒業生でわたしたちと同学年となったのはほんの十一名。その中でも彼女は浮いた存在だったみたい。いじめられていたんじゃないよ。そもそも、病気がちで姿を見せることが少なかったんだから」


 蒼白。

 鹿目さんが遠野さんに感じた第一印象。

 日に焼けていないばかりか、同じ黄色人種にしては色白がすぎる少女の肌は、血の通っていない異様な印象を与えていた。そしてその声が決して明朗でなかったことから、後に彼女を幽霊だと喩えた子も少なからずいた。


「もし笑実理がそのまま血色が悪く、痩せ衰え、口数の少ない女の子だったらわたしは仲良くなれなかった。断言できるよ。中学一年生の春、わたしが彼女に惹かれることはただの一度もなかった」


 遠野さんに変化があり、それを鹿目さんが知ったのは中学一年生の夏休みのことだった。鹿目さんはその日、女友達二人と自転車で市営プールまで行く約束をしていた。けれども友達の一人に急用ができ、もう一人が「今日やめにしよっか」と電話口であっさりと言ったことで約束はないものとなった。


「自己分析をするとさ、小中学生のわたしは複数人で遊ぶときにはいてもいい子だけど、二人きりはちょっと……ってなるような子だった。相手がそう思ってしまうような子。わかる?」


 私は「ええ、まぁ」と答えた。

 いつまで経っても友達の友達で、友達になりがたい子なのだろうと。

 

 鹿目さんはその夏の日にプールに一人で行くことにした。彼女はその日起きた時から泳ぐことを考えていて、自分の身体を冷たい水に浮かべずにはいられなかったのだ。泳ぎそのものは得意でなくてもその浮遊感や水との一体感が好きだった。

 

 小学生の頃は夏になると学校のプールへと開放日に泳ぎに出かけた彼女であったが、中学校には使われなくなって十数年は経過しているような屋外プールしかなかった。フェンスで囲まれ、出入口が施錠されてもいるそのプールの水面を彼女は見たことがなかった。毒沼のような色だとは誰かから聞いた。

 対して、市営プールは50mのコースが八、九本分ある大きなプールのほかに幼児用の池みたいな小さなプールがある屋内施設だった。


「もともとの約束は午前十時半だったけど、わたしは朝食を食べ終えて少しすると出かけた。暑い中、自転車を漕ぎながら頭にあったのはプールのことだけ。午前九時過ぎ、営業を開始してすぐの時間帯に到着したの」


 もしかしたら自分と同年代の少年少女が朝早くから来ているかもしれない、そんな鹿目さんの予想は外れた。

 市営プールはまるで鹿目さん一人の到来を待っていたように、しばらくは彼女の貸し切り状態だった。

 鹿目さんの記憶上には監視員に相当する人はおろか、受付係や清掃係の人すらいない。

 現実的なことを言うなら記憶違いに決まっている。


「いつでも上がれる、端っこのコースで最初は泳いでいたんだ。でも、どうせならと思ってその大きなプールのど真ん中までいった。そして、仰向けで浮かぶと、高い天井をしばらく見上げてみた。一分か二分かして、急に恥ずかしくなった。わたしの姿はさ、大きな水たまりに舞い降りた一片の綺麗な花弁ではなく、アメンボみたいにしか映らないだろうなってね。それから……足をつけて周りを見回した時に、彼女を見つけたの」

「遠野さんを」


 するりとその名前を私は口にしていた。

 鹿目さんが「正解」と微笑む。


「プールサイドに立っている女の子が笑実理だとすぐにはわからなかった。彼女の視線は確かに私へと向けられていて、目があっても全然逸らそうとしないから、知っている子なんだとは思った。それでわたしは彼女のいるほうへと、すいすいーっとクロールで近づいていったんだ。うん。平泳ぎや背泳ぎではなかったよ」


 鹿目さんが記憶をなぞって話す様子が、ちょうど水の中で手足を軽やかに動かして前へ前へと進んで行く彼女を私に想起させる。

 市営プールの内装、プールサイドの色や窓の数、そうしたものが思い浮かばずとも当時の彼女の泳ぐ姿を共有できた気がするのだった。


「笑実理はわたしよりも濃い色、黒に近い水着を着ていた。ノースリーブでセパレートタイプの学校用水着。手足の長さにしてはどうにも凹凸に乏しい体形。ごく健全なお人形さんみたいな。真新しい水泳帽をぎゅっと胸元で握りしめていた。きっとその市営プールで購入したものなんだって思った」


 人形。一カ月前、私は鹿目さんを、すなわち下着姿の彼女を初めて目にしたときに人形のようだと感じたのを思い出した。


「どちらから声をかけたの?」


 感傷に深く浸っているのか、目を閉じて黙り込んだ鹿目さんをしばしそのままにしていた私だったが、そう訊いてみた。


「もちろん、わたし」

 

 目を開かずに答える鹿目さんだった。


「わたしはゴーグルとそれに帽子もとって、彼女に顔を見せると『遠野さん?』と声をかけたの。プールサイドに上がる頃には、突っ立ているその子が笑実理であるのは確信していたよ。声をかけない選択肢もあったけどさ、そうするには彼女はわたしを見過ぎていた。無視するには忍びなかったってわけ」

「彼女はなんて?」

「ろく、め、さん」


 数秒の間をおいて、私は今のが当時の遠野さんの台詞を真似たものだと理解した。最小限の唇の動きで小さな音となった彼女の名前は聞き取りづらかった。

 

 目を開いた彼女がいつかのときみたいに、私の肩に頭をあずけてくる。そんなふうに寄りかかられると彼女の体温を感じずにはいられない。残暑にその温度は煩わしい。


「わたしが知らないだけで、親のどちらかが外国人で日本語の習得に難があったり、もしくは言語能力を含む知能に関して健常ではないと診断されている子だったりする……そんなことを真剣に考えた。でもさ、もし仮にそうだったのなら四月から夏休みに至るまでもっとこう、クラスの中で特別な扱いを受けているはず。そうでしょ? 特別ってのが幸福をもたらしているかどうかはともかくさ」

「クラスの中で彼女は普通だったの?」

「どうだろう」


 鹿目さんが私にもたれまま、その左の人差し指を私の膝にそっと突き立てた。肉や野菜に火がちゃんと通っているか知るために竹串を刺すような仕草。


「春頃の彼女についてはさっきも話したけど……わたしにとって風景だったから」

「風景?」

「日常風景の一部。背景と言ったほうがいいかな。ピントをあてないと、ぼやけた状態の存在。もしくは霧や蜃気楼、そういうの」

「つまり、関わりが希薄だったから一学期の遠野さんがどんなふうな生徒だったかを知らなかったのね?」

「そういうこと」


 つんつんと。彼女の指がスラックス越しに私の膝を突く。穴が開きそうな勢いも強さもない。


「その日、笑実理もまた一人でプールに来ていたの。後で知ったけど、本当は家で留守番していないといけないのに親に黙って出てきたんだ。笑実理は虚弱体質を中学生になっていくらか克服していて、人並みの体力をつけるために水泳に挑戦しようと考えたみたい。継続的にね。でも、わたしが水泳経験を訊ねると指折りをして『さんか、よん』って答えた」

「経験豊富とは言い難いわね」

「うん。ただ、そのうちの一回というのがつい去年のことだったから、そう不安がりもしなかった。わたしは『そっか。気をつけて』と言ってまたプールに戻ろうとした。そこに彼女がよかったら泳ぎ方を教えてほしいってのを時間をかけて頼んできたの。ぽつぽつと雫を垂らすような口調でさ。わたしは言い終わる前に承諾して、彼女に準備体操を入念にさせてから水中へと誘った」


 私の膝を突くのに飽きた鹿目さんは指の本数を増やし、それを私の鼠径部のすぐ近くまで動かした。ぞわっとした私は彼女の手を退けた。そのことには何も言わずに彼女は遠野さんとの話を続ける。


「わたしが優しくていい子だったからじゃないよ。断って、もしも彼女に何かあったときに後味の悪い思いをするのは嫌だったし、それに暇だったから教えてあげることにしたの。けど、さっき言ったとおりわたしは泳ぎが得意ってわけじゃない。だから、笑実理にはまずバタ足をしっかりしてもらうことにした」


 二人で並んでプールサイドの縁に手をやり、足をバタバタとさせ水飛沫をあげる。遠野さんのか細く白い足によって生まれるそれは、鹿目さんのものと比べて大きさも音も小さかったそうだ。それから鹿目さんは、遠野さんの両手を引いて後ろ向きにコースを歩きながら、彼女が息継ぎしつつ足を懸命に動かすのを眺めた。そうこうしているうちに一時間が経ち、遠野さんが疲れた様子を見せたので、もう止めにしようと鹿目さんが提案すると遠野さんは悲しそうな眼差しで、プール全体を、そして鹿目さんを見つめてから肯いた。


「それで?」


 また深い思い出に沈んでしまった鹿目さんに私は言う。まだ彼女たちは仲良くなっていない。そのきっかけができただけだ。


 しかし返事はいっこうになく、私にくっついたまま眠ってしまったんじゃないかと怪しんで、つい彼女の髪に軽く触れた。綺麗という言葉では足りない髪だ。この黒の深さが彼女の心の深さになっているだなんて妄言を思いつくが口にはしない。


「その日だけじゃなく、その夏の間にわたしは彼女と何度も泳いだ」


 どちらからともなく、そういう約束を取り交わした。身体のシルエットをくっきりとさせて水の中を進む遠野さんを見た鹿目さんは彼女が春の幽霊とは別の存在であるようみなした。

 多くの言葉を交わし、その声がよく聞き取れるようになると、彼女に優しさや知性といった魅力を感じるようになった。

 一日、また一日と過ぎるごとに新しい彼女に出会えるのを鹿目さんは喜んだ。


「笑実理はさ――」


 ずずっと。鼻を啜る音が聞こえた。


「その夏休みの一カ月で人魚になったんだ。水は彼女を抱き、彼女は水に抱かれた。泳ぎが上手くなるにつれて笑顔を見せることが増えた。プール以外の場所でもいっしょに過ごすようになった。わたしはそんな彼女を好きになった」


 今ここで香るはずのないプールの匂いを私は嗅いだ心地になって、彼女の涙声を聞いた。

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