第14話
中学一年生の女の子が、夏休みにそれまでほとんど関わりのなかった同級生の女の子と些細なきっかけで仲良くなる。普通だ。どこにでもありそうだ。相手を女の子ではなく男の子にして恋愛に発展する。これまたありふれた青春。
その相手が女の子で、その子に恋をする。それはきっと少数派で、どこにでもはない。
でも、と敢えて逆接から補足を始めるなら……三十過ぎの大人同士よりは中学生のほうがそうした出来事がありそうだ。
あってもいいんだ。子供は自らの感情や思考を精査してきちんとラベルを貼り、誰かに説明するなんてできないから。友情と恋心を混同してもおかしくない、少なくとも大人はそう思うものだから。大人だったら必ず区別できるかはまた別問題。
では、とあたかも問題提起をさせてもらうと、少女に恋をした少女がいて、二人が大人になる前に心中を図る確率はどれぐらいなのだろうか。片方が生き残ってしまう事態はいったい、どんなふうに神様がサイコロを振った結果なんだ? 振らないと言ったのはアインシュタインだったか。
死後に結ばれるのを信じられるのなら。そう、ふと考える。
たとえば多香子さんは私の母を追いかけて死んでいたに違いない。けれどあの人は今ここに生きている。まだ死なずにいる。不思議がることはない。共に死んで来世を祈るのが至上の愛だなんて思えなかったのだろう。
九月最初の日曜日。
前日、月鳴館から帰りのバスの乗り込む直前に「もしお暇だったら明日、ランチでもどうですか」と野々井さんから誘われて「ああ、はい」と生返事をよこしたら、その晩に詳細がメールで送られてきて、断るのは気が引けたので付き合うことにした。流れに身を任せたのだ。
そして迎えた今日の正午過ぎ、つまりは出かけるときになって多香子さんの言葉をようやく思い出す私だった。あの予言ないし忠告を本気にして、野々井さんからのアプローチを警戒するだなんて馬鹿らしいことはしないでおく。そうだ、あの時は多香子さんの言葉を笑い飛ばせなかった私であったが、日が経つと冷静になることができていたのだ。
場所は、待ち合わせをした駅から車で十五分ほど西へと走ったところにあるスペイン料理店だった。赤い庇に黄色い文字で店名が書いてあったが、どう発音したらいいのかわからない。意味も知らない。
野々井さんは、ネットで見つけて前々から気になっていたけれど一人で入る勇気が出なくて、と話した。スペイン料理と言われても、頭にパエリアとアヒージョのイメージしかなく、そうした料理を心から欲するシーンがない私の日常と比べると、彼女の人生には国際色があると言える。
そんなわけで私たちはイカ墨を使ったパエリアを分け合い、野菜とパンの冷製スープをそれぞれ味わいながら歓談することとなった。メニューの日本語表記上はアロスネグロとガスパチョとあったが、おそらく私は明後日には忘れている。
「思ったより黒いですね、これ」
頼んでおいて、その色合いに驚いている野々井さんだった。若干、食欲が削がれたふうな表情もしている。
「そうですか? メニューの写真通りだと思いますけれど」
「八尾さん、何食わぬ顔ですね。あ、今から食べるんですが」
「えっと、はい」
笑ってあげればよかったなと、彼女が「す、すみません」と恥ずかしがる様を見て思った。
今日の彼女はグレーのカーディガンにチェック柄のパンツ姿。柄の主張は控え目。全体としてはいい意味で派手さがなく、こちらとしても落ち着ける恰好だった。
「ガスパチョって、カルパッチョと何か関係があるんでしょうか」
木製スプーンでスープを掬った野々井さんが言う。
「さぁ……けれど、カルパッチョはイタリア料理では?」
「へぇ。ひょっとして八尾さん、イタリア語を勉強していますか」
「いいえ」
論理の飛躍に苦笑してしまう。
うろ覚えであるが、カルパッチョは画家の名前に由来するのではなかったか。昔、テレビで見た気がする。
「大学では第二外国語としてフランス語を選択しているんです。話すのも聞くのも、読み書きも何一つまともにできませんが」
向こうの小学生に語彙力や表現力で大敗しているレベル。
「ええっと?」
「熱心には勉強していないってことです。ちっとも。単位を落とさないようには頑張っています。時間はもちろん、テキストや辞書に使ったお金ももったいないですから。初めて紙の辞書を買ったんです。枕にするには小さくて硬いやつを」
「そ、そうですか」
「野々井さんは海外に行った経験がありますか」
「実はないんです。短大の卒業旅行で友達数人と韓国に行くか沖縄に行くかで話し合った結果、間をとって四国巡りになって」
「間……」
「た、楽しかったですよ?」
私にとってはフランスも四国も変わりない。遠い土地だ。
しばらく私は野々井さんの四国巡りの話を聞くことにした。二人して唇や歯茎を黒く染める。気心が知れた仲ならいざ知らず、快くは感じられない色。
彼女は話し上手ではなかったが、細かなエピソードまで思い出して教えてくれた。
私は二人の記憶の巡り方を比べた。
鹿目さんと野々井さんだ。顔つきや身振り、声の大小や質感、そういったものを。言わずもがな、それらの差は内容によって生じるはずだった。鹿目さんは既に亡くなった想い人との過去を語っているのに対して、野々井さんはそうではないから。そこには明確に差が生まれる、そう思っていた。
でも、そうではなかった。
正確には私はその差異をきっちりと感じ取ることができなかった。私はそのことで自己嫌悪に近い、何か暗い感情を抱いた。
たとえば――――野々井さんが、香川で四杯目のうどんを食べようとした友達を止めた話を聞いた時、私がうっすらと浮かべた笑み。それと、鹿目さんがある雨の日に遠野さんと相合傘をして帰ったけれどはみ出した二人の肩が濡れて冷たくなってしまったという話を聞いた時に、浮かべた笑み。
それらは変わらないものだった。
鏡を見ずともそれがわかってしまった。私はどちらとも他人事とみなして、同じ表情を貼りつけているだけ。
けれど軽く目を閉じてみて、私は二人の声に大きな隔たりを聞いた。聞くことができた。それはつまり、もとから彼女たちの声の質が異なる事実以上の違いを受け取ったということだ。
繋がりだと思った。
野々井さんの思い出はすべて今の彼女に繋がっている。一方で、鹿目さんの思い出は今の彼女に繋がっていない。そう聞こえた。
「八尾さん? えっと、眠いんですか」
「いえ、聞き入っていただけです」
「わ、私の話に?」
信じられない、という顔を野々井さんはしていた。しかも嬉しそうだった。
きまりの悪くなった私は「まぁ、はい」と応えてから「今度は普通のパエリアが食べたいですね」と当たり障りのないことを口にした。
しかし彼女からするとその「今度」という語は刺激的なものであったらしく「つ、次の日曜はまた別の場所に行きません?」ともじもじと提案してきた。
つくづく五歳上には見えない。
こういう人が好きな男もいるだろうから、私なんかよりもそういう人と行けばいいのに。女友達とのランチでしか得られない、あるいは捨てられないものがあるとも聞く。そんなことを大学で、近くに座った子がしていたはずだ。
何を得て、何を捨てるのか。野々井さんとのランチを続ければわかるかな。私が「野々井さんの奢りで、ですか?」と愛想笑いを作って訊いたら「わかりました」と神妙に返されてしまった。
九月以降、鹿目さんが遠野さんとの思い出話を私に聞かせてくれるのは、専ら午後の時間だ。昼食後、すぐには勉強を再開する気分になれない彼女がソファに座り、私を隣に誘う。手招きすることさえなくなり、目線だけで誘導してくる彼女に私は従い、ソファに腰掛ける。そして彼女は私に寄りかかる。
誰かの体温を感じていなければ、話しづらいと言わんばかりに。もしくは誰かの肌と触れているから、かつて触れ合った女の子のことを思い出さずにはいられないのかもしれない。
「中学一年生の秋には、笑実理は春とは別人になっていたの。血行や肉つきがよくなり、顔色もよくなると誰もが彼女が美人だとわかった。多少、記憶の美化はされているかもね。たかだか十二、三歳の女の子を美人と称えるのはさ……なんていうか、ずれているかもって。ハチ先生はどう思う?」
そう訊くと彼女は私の髪へと手を伸ばした。気づけば肩にかかりそうな長さになっており、色も落ちつつある髪だ。私は彼女の手を避けて「さぁ」と言った。でも、彼女は私の答えを待っているみたいだった。
「美人でいいと思うわ。早熟な子っているものだから」
「先生はどうだったの」
「フィジカルの面で言うなら、少し遅かったぐらい。たとえば小学校中学年から高学年あたりに、クラスの女の子たちが男の子の背丈を追い越しているのを私は指をくわえて見ていた。羨ましかったわ、すらりとした体型が。そのくせ生理はそうした子よも早めに来て、不公平を感じていた」
「ふうん。メンタル面は?」
「基本的に物静か。それに独りで読書してばかりだったから、周囲からは大人っぽく見られることもあった。童顔ってわけでもないし」
「それ、外見だよね。中身は、そんなに大人じゃなかったの?」
声が弾む。鹿目さんの口角が上がっているのがぎりぎり見えた。
「まあね。中学生の頃なんて、関わる大半の人間がいけ好かなくて、反抗期らしい態度をとっていたわ。かっこつけてシェイクスピアの四大悲劇を原文で読もうとしたり、動物園のペンギンを盗もうと画策したり」
この一カ月余りで、彼女の部屋の空気に私という存在が浸透してきたせいか、私は口を滑らせる回数が多くなっていた。深く考えることなしに
「ほんと?」
「そんな期待するような声をあげないで。どちらもうまくいかなかった。後者についてはうまくいったら大問題よ。ほら、次はあなたの番」
「えー? その前にひとつだけ」
「なに」
「動物園からペンギンを連れ出すのと、ここからわたしを連れ去るのはどっちが難しと思う?」
急にそんなことを言われて、今度は彼女の手を避けられなかった。するりと彼女の指が私の髪を梳く。二度、三度。そして離れていく手。私はそれからやっと返事をした。
「ペンギン」
「そのこころは?」
なぞかけじゃないのよ、という言葉を私は飲み込むと、思うままに彼女に答えを教えてあげた。
「あなたと違ってペンギンは説得できないから」
ペンギン語は習っていない。
フランス語やスペイン語よりも難しいのだろう。
「へぇ、わたしはできるんだ」
「さぁね。少なくとも対話はできる」
「ねぇ、先生。話が通じるなら説得できるって、血が出るなら殺せるって考えより信憑性あるかな」
私は溜息をつく。くすくす笑う彼女の精神がどれぐらい成熟しているのか、誰が測ってあげられるのだろう。
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