第12話

 生き残った鹿目さんと違い、死んでしまった女の子。

 

 野々井さんはその子を知っていると言った。それはつまり、生前から知り合いだったという意味のはずで、ひょっとすると単なる知人ではなく親類にあたるのかもしれない。そうだとしたらはっきりと妹や従妹であると口にしてくれればいいのに。

 情報の小出しはむずがゆい。私は探偵ではないのだから、手がかりを地道に追っていくというのは気が進まない。

 遠くの逃げ水を掬いに行こうといくら追いかけども、あるのは光と熱だと知っている。死んだ子の素性が判明したのみでは、私と野々井さん、それに鹿目さんとの関係は変わらないだろう。


 八月が終わろうとしていた。久しぶりの曇天。


「今日は先生の番ね」


 パチン、パチンと十本の指の爪を切ってから鹿目さんがそう言った。爪を切る前に言ってほしかった。

 勉強の合間の小休憩、私は彼女が爪を切る様子をぼんやりと眺めていたから話す内容はまとまっていなかった。爪切りに一度収まり、それからゴミ箱に落とされる爪は彼女の身体から離れてただのタンパク質の欠片だ。それを綺麗とは思えない。

 鹿目さんは足の爪を同時に切らないらしい。手のひらで隠せるサイズ、ありふれた爪切りを彼女は私に「ん」と渡す。私はそれを勉強机の引き出しにしまった。

 ソファの上の彼女と椅子に腰かける私。慣れた構図だ。


「さ、話してよ」

「好きなように話してと前に言ってくれたわよね」

「うん」

「もしリクエストがあるのなら、それに応じた話をしてもいいと思っているわ。できる範囲、してもいいと前向きになれる種類の話なら」

「ねぇ、ハチ先生。、ってのはどうも対等ではないふうに聞こえるよ。ああ、でもいちいち揚げ足をとって先生の気を損なわせるつもりはないんだ。うーん……じゃあ、確認。たとえばどんな話は絶対にしたくない?」

 

 絶対にしたくない話。墓場まで持っていく秘密。

 

 一つ、すぐに思いついたものがあったが、しかしそれは既に多香子さんやお父さんは知っていることだ。それに秘密ではなく私個人の後ろめたい過去というだけ。他者にしてみれば、なんてことない事実でしかない。

 

 他には……。

 特に思いつかなかった。誠実に生きている自信があると言うと嘘になるけれど、誰かに後ろ指をさされ、罰を受けるべき秘密をいくつも持っている人間ではない。

 しかたなしに私は「たとえば」とまずは声を出してみる。すると鹿目さんは「たとえば?」と訊き返してきた。


「自分自身のコンプレックスについて思いつく限り、百個や二百個も長い時間をかけて話してほしいと望まれても困るわね。そういうのは気が滅入るわ、とても」

「極端すぎるよ。じゃあ、長所と短所を一つずつどうぞ」


 面接みたいだ。そう思った。

 月鳴館にやってきた初日にした面接では聞かれなかったことだ。自分のいい部分と悪い部分。長所と短所は表裏一体、だなんて話をしてみたとこで意味がないんだろうな。


「長所は……そうね、人の話が聞けるところ。短所は自分から積極的に話すことが少ないところ」


 提出済みの、形式的に必要だった履歴書に記入した内容を簡略化して私は答えた。鹿目さんは「ふうん」と心底つまらなさそうに返してくる。

 

「先生ってさ、処女?」

「今、そういう話の流れだった?」

「いいから答えて」


 生真面目に、そして強気で。

 私は返事に間が空けば空くほどに、妙な含みを持たせてしまうと考えて「そうよ」と短く、しっかりとした発音で口にした。


「そっか。んー……わかった。ねぇ、こっち来て」


 彼女の隣へと手招かれる。そこに移動したらまた勉強時間が減るとわかっていた。私なりに学習計画を立て、それに沿って指導をして、課題も出しているのに。

 でも、そっちへ行く。

 昨日の朝から始まったアレのせいで、だるい。休めるなら休みたい。心が休まるかはともかく、ふかふかのソファに座りたい。


「初恋の話が聞きたいな」


 鹿目さんはなぜか甘えた声を出してくる。

 猫撫で声……とまではいかないが、さっきあった真面目さがない。なくなった。あれか、恋バナってのをするときに女子が出す模範的な声なのかな、これ。

 

「私の?」

「もちろん」

 

 私は自分の初恋について思いを巡らし、それがあっけなく掘り出されると彼女に訊いてみることにした。


「短いバージョンと長いバージョン、どっちがいい?」

「極端な例が好きな先生のことだから短いと三十秒、長いと三日三晩続きそう。短くも長くもないちょうどいいバージョンを用意してほしいな。ぜひとも」

「善処するわ」


 そして私は鹿目さんではなく、いつもより弱い日差しを受けているカーテンを見やりながら頭で話を整理した。難なく探し当てた時には、ちっとも面白味のない燃えかすのような初恋だと思えたのが、いざ人に話そうとする段階に至って、そこには慎重さがいるのではないかという気持ちになった。


「それは小学五年生のことで、相手は同学年の男の子だった」

「普通だね、すごく」

「そう。でも彼は少数派だったわ」

「というと?」

「双子の片割れだったの。どちらとも男の子。私がいた小学校には一年生から六年生で、全部で四組の双子がいたわ。正確には私が小学四年生の頃から六年生の頃に在籍していた双子の組数」

「ちょっと待って」


 鹿目さんは、すっとその左の手のひらを私へと向けた。くしゃみでも出そうになって話を中断させたのかと思いきや、そうではなかった。


「それって、わざわざ調べたの?」

「どういう意味?」

「そのままだよ。ううん……そうじゃなくて、先生の初恋相手が双子の一方だったことはさ、先生の学校に当時いた双子の数と関係があるの?」

「なかったら言わないわ」


 鹿目さんは手をおろし、私をまじまじと見つめてきた。私が「続けるわよ」と口にすると「どうぞ」と低く言った。


「多くの一卵性双生児がそうだと知られているように、彼らは身なりを同じにすれば家族でさえも見分けるのに苦労するほどに似ていた。だから私は彼を好きになったときに思ったわ。どうしてこの彼であって、あの彼でないのかって」

「外は似ていても内は違うからでしょ」

「まったくもってそのとおり。けれど当時の私はそんなふうに割り切れなかった」

「いやいやいや」


 首をぶるぶると横に振って鹿目さんが顔をしかめる。


「なに」

「割り切るも何もさ……その二人は内面もほとんど差異がなかってってこと? だから当時のハチ先生は、初恋相手がどちらか一人と特定するのを躊躇った。そういう話?」

「最後まで聞いて。口を挟まずに」

「そうしたら、わかる?」

「おそらく」


 私の不確定の推量に鹿目さんは溜息まじりに「わかった」と言い、口を閉じた。


「彼らは二人ともサッカークラブに入っていた。いわゆる一軍チームのほとんどが六年生で構成されている中で二人は五年生にしてチームに欠かせない選手となっていた。でも、彼らがどのポジションを担当していたのかや具体的な成績は知らない。私はサッカーそのものには関心がなかったし、今でもない」


 鹿目さんの顔には「そんなことはどうでもいい」と書いてあった。私は気づかないふりをして続ける。


「ただ、そんな私でも彼らがサッカーをする姿を目にしたときには、かっこいいって純粋に思った。混じりけのない惹かれ方だったわ。別段、彼らと特別な行為に及びたいだなんて考えなかった。ずっと見ていたい、そんな感じ」


 スポーツをしている姿に惚れる。そんな普通の初恋。


「フィールドの外に出た彼らと直に接する機会はほとんどなかった。私にはね。双子の一人が私と同じクラスだったけれど、彼の周囲にいつもいたのは仲のいい男の子たち。時折そこに、クラスで人気のある女の子を中心としたグループが関わる。彼に惹かれている女の子は多い。別のクラスにいるもう一人もそんなふうだったはず。まずここがポイントの一つで、私は恋をしてしばらくは双子のどちらに惚れたのかわからなかったのよ」


 ここまでを聞き届けた鹿目さんが挙手をする。私が首をかしげると「ん!」と挙げている手を強調した。


「なんなの」

「質問はあり?」

「ああ、そういうこと。ええ、いいわよ」

「小学生の頃のハチ先生は引っ込み思案で人を頼らない子だったの? 誰かに聞けばいいでしょ、サッカーを観ている時にさ。指差して、あれは誰って」

「一度目のこと、たった一目での恋だったのよ。つまりは、放課後にグランドにふらりと寄って彼らがサッカーをするところを私が眺めることは極めて稀で、周りに他に誰もいない場所から見ていたの」

「何回か観に行けばよかったじゃん」


 唇を尖らせ、不服そうに彼女が言う。今になってそんな非難を受けるとは予想外で、つい笑ってしまう。


「そうね。でもね、そうしたい気持ちよりも、自分に芽生えた恋に対する恥ずかしさと、習い事には時間どおりに通わないとっていう気持ちが大きかったんだと思う」

「習い事って?」

「学習塾と習字。中学受験はしなかったけれどね。どちらも週に一度だけだった」

「ねぇ、先生。それならさっきのはこうが正しい。自分の恋心を本人や周りの子に悟られまいと恥ずかしがり、習い事を言い訳にして放課後にグラウンドに二度と寄りはしなかったって。どう?」


 そこに正しさがあるのは疑問だが、私は「なるほど」と肯く。


「で、どうやって初恋相手、しかも一目惚れの相手を特定したの?」

「あなたからすると、おかしなことかもしれないけれど……」

「そんな前置きはいいから」

「自力で双子を見分ける。そんな技能が必要だと、それを身につけないといけないんだって十歳か十一歳の私は信じたのよ。だから、学校にいる双子の調査を始めた」

「えぇ……おかしくない?」

「何をするにも遠回りしがちな女の子だったの。そういうことにしておいて」

「調査結果は?」


 学校に在籍している双子の数。彼らの性格、噂話、逸話等々。そういったものを集めているうちに私は一つ下の学年にいた双子姉妹の片方が同じ習字教室に通っているのを知った。

 驚きだった。親しかったわけではないけれど、何度か話をしたことがある子だ。彼らと違って。その彼女とほとんどそっくりの人間がもう一人いて、中身が違うのはなんだか気味が悪くすらあった。それを口にするほど私は嫌な人間ではなかった。

 

 その子だったか、それとも別の双子だったかに私は「鏡を見ている気分にならない?」と訊ねたのを覚えている。返ってきたのは「それはない」だった。


「回り道にはなったけれど、相手を特定できた私は、さっき言ったことに悩み始めたの。どうしてこの彼で、あの彼じゃダメだったんだろうってね。私が好きになったのは別のクラスにいる彼だった」

「同じクラスにいるほうではなく」

「そう。もう察しがついているかもね。私は……卒業するまで二人のどちらにもまともに話しかけられなかったのよ。別のクラスにいる彼の内面なんてのは微塵も知らないまま過ごして、ただ一途にあの日の放課後を思い出しては悶々としている、ダメな女の子だったの」


 やれやれ、といったふうに肩を落とす鹿目さんだった。


 ちなみに彼らとは同じ公立中学校に進学したものの、どちらともとクラスが別となった。そしていつの間にか自然と私は双子に興味を失っていた。中学でもサッカーを続けた双子だったが、夏休み中にどちらかが足に大怪我を負ったと風の噂で耳にした。

 

 でも、どちらだったかは覚えていない。

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