第4話

 窓辺に置かれた二人掛けソファの上で一人の少女が丸まっている。野々井さんが部屋のドアを開くと、まず目に入ったのがそれだった。

 ベージュ色で布張りのソファの上で彼女はこちらに背を向けている。肩甲骨がくっきりはっきりと直に目にできた。日に焼けてもおらず、傷一つない背中。丸まっている少女が下着姿だったから、それがよくわかったのだ。たぶん水着ではないと思う。刺繍入り、上下ネイビー。私、こういう色の下着ってつけたことないな。


 野々井さんの声に反応したのか、寝返りと共に少女がその正面をこっちに向ける。


「あ、落ちる」


 私がそう言い、野々井さんが部屋の中へもう一歩踏み出したが遅かった。ごろんと床に少女が落下し、潰された蛙の断末魔みたいな声をあげた。慌てて駆け寄った野々井さんに対して、私はゆっくりと入る。そして部屋を見回した。私が暮らしている部屋の洋室より一回り小さい。

 シングルベッド、テーブル、アームレスチェア、キャビネット。そんなところだ。整頓されているというより、物が少ない。余計なものがないのだ。もしかしたらクローゼットに衣類以外にも少女の過去や現在をこれでもかと詰め込んでいるのかもしれない。


 それから少女――――鹿目祀梨ろくめまつりの姿に焦点を当てる。彼女は小さく唸りながら頭を手でさすっていた。

 

 背中だけではない、細長い手足はよく手入れされた人形のように美しい。造形美という語句が頭に浮かぶ。それは通常、人間を相手に用いないが、しかしこの少女にはぴったりな気がした。

 高校中退の理由は、この整った容姿を売りにする仕事なり活動なりをしていた延長線上にあるのではないかと邪推する程度に。

 

 それから長い髪。ソファの上では垂れていたから背中を隠すことはなかったが、直立したのなら肩甲骨あたりまで届くんじゃないかって長さの黒髪。つやがあり、ぼさぼさとしていない。こういう施設に入所しているのに、並以上の手入れができているのなら、そこには何かからくりがあると考えるのは僻みだろうか。

 高校生の頃は編み込みなんかもいろいろ試していた私の髪は今現在、マニッシュショートの栗色になっているが、周りに合わせた結果だ。しかも現実としては誰とも合わずに生きているのだから悲壮感すらある。 


 そして顔。鹿目さんのそれは、アイドルグループにいてもおかしくないけれど、センターって感じではない可愛い顔だった。褒めているのかそうでもないのか、自分でもよくわからない。

 野々井さんが狸なら、この子は狐、そうでなければ兎や豹だと思う。直感として。それはつまり犬や猫でもないし、獅子でもないということで、さらに言うならあまり役立たない比喩だった。


「あ、頭大丈夫ですか? ごつんって……」

「あと何回か落ちたほうがまともになるかもね」


 心配してあたふたしている野々井さん、そんな彼女が差し伸べた手に目もくれずシニカルなことを言ってのけて少女は体勢を起こすと、ぺたんと座った。


「あの、なんで下着姿なんですか」

「暑かったから。つーか、見過ぎ。えっち」

「ち、ちがっ」

「うん? 乳? なに、生で見たいわけ?」


 顔を真っ赤にした野々井さんが私を見てくる。助けてとそこに書いてある。スタッフとして毅然とした態度で臨んでほしいが、何事も相性というのがある。野々井さんはこの手のタイプとは悪いのだろう。

 私は野々井さんの隣、すなわち鹿目さんの真正面までくると腰を落とし、視線の高さを近づけてから口を開いた。


「はじめまして。八尾ななみです。今日から鹿目さんの学習をサポートします。よろしくお願いします」

「すごい堂々としているね」

「私はべつにあなたが素っ裸でも勉強を教えることはできるから」

「八尾さんもいっしょに脱いでくれる?」

「いいえ」

「なんだ、つまんないの」


 絵に描いたような子供じみた発言に私は意識的に口角を上げ、姿勢も正した。そして鹿目さんに向かって手を差し出してみた。彼女は私の手を見たが、とることはない。


「その座り方、股関節や骨盤に悪影響があるそうよ。ほら、立って」

「看護科の学生さん? 裸に動じずにそういうこと指摘してくるから。それにマニキュアもネイルもしていない」

「はずれ」


 私が通っている大学名と学部を伝えると鹿目さんは「ふうん」と無感動に相槌をした。推理が外れても特に気にしていない様子。そして座ったままの彼女が「はい」と両手を広げてきた。


「抱きかかえて立ち上がらせて」


 恥ずかしげなくそんなことをお願いしてくる。

 私は手を引き、背筋を張る。


「……野々井さん」

「は、はい!なんでしょう」

 

 下着姿の鹿目さんを見まいとしているのか、壁を向いていた彼女に声をかけると妙に大きな声で返事をされた。 


「月鳴館では、いえ、鹿目さん相手だと常にこうした対応を?」


 ぶんぶんと首を横に振る野々井さんだった。

 

 にやにやしている鹿目さんを見て、ちょっと悩んでから私は少ない手荷物を床に一旦置く。そして鹿目さんの脇下に手を入れ彼女の肩から上を自分の胸元に押し付けながら立たせようとする。が、うまくいかない。人を床から立ち上がらせる方法を私は把握していなかった。赤ん坊や子猫を抱きかかえるのとは全然違うのだ。まぁ、前者については親戚の子すら抱いたことないけれど。


「ストップ、ストップ! 離れて!」


 彼女の言葉に従い、離れた。


「逆に立ちにくいから。初対面で抱きしめてくるかな、ふつう……」


 頼んできた当人である彼女がぶつくさと言いつつ立ち上がる。そしてクローゼットを開いてハンガーにかかったワンピースを特に迷わずに選んで、それを頭からすぽっと着た。半袖で無地のグレー。ちなみにクローゼットの中は、きちんと整理されていた。外に出かけることがないはずにしては、ハンガーにかかっている数が多いぐらいだ。


「えーっと……鹿目祀梨です。よろしく」


 ボディラインが曖昧となり、色合いも地味になると、心なしか鹿目さんの声の調子も落ち着いた。そして野々井さんも壁ではなく鹿目さんのほうへと向き、かと思いきや、不意に天井近くを見やった。エアコンだ。動いていない。

 

「クーラーつけないんですか? もしかして故障中とか……」

「はぁ。あのね、クーラー苦手って前に言わなかった? ああ、別の人か。午前中はつけないことにしているの。最近、朝起きた時はそうしようってまず思うわけ。でも、だいたい十時過ぎにはつけちゃう。意志が弱いの。まぁ、いいよ、そんなのはさ。さぁ、出ていきなよ。八尾さんだけでいいから。それともあなたも生徒なの?」


 鹿目さんを気遣っての質問に、こうも捲し立てられた野々井さんの表情は「ひえぇ」と言う声が聞こえてくるようなものになっていた。


「その綺麗な声はそんなことを言うために使うものじゃないわ」


 野々井さんから助け舟を出してと無言でせがまれる前に、私は感じたことをそのまま鹿目さんに伝える。


「え。今、わたしの声を褒めたの?」

「重要なのはそこじゃない。あまり攻撃的な言葉遣いをすべきじゃないってところが大切」

「先生みたい」

「今日からはそう」

「ううん、ちがう。カウンセラーの先生みたいってこと。うちの学校にも非常勤でいたの、スクールカウンセラー。公認心理師の資格を持っている人だった。知っている? 公認心理師。心理職としては国内唯一の国家資格でまだ新しい。臨床心理士は民間資格。今は両者に優劣がさほどなくても、あと十年もすればわからない。ところで、ここには公認心理師っている?」


 私は野々井さんに目配せをするが、彼女は首を横に振った。それが、当該の有資格スタッフがいないのを意味しているか、知らないのかを確認する前に鹿目さんが右の人差し指を彼女自身の唇にあてる。お静かに。そんなジェスチャー。


「勘違いしないで。わたしは理不尽にクレームをつけたいんじゃないの。今あげた二つの資格の差異をちゃんと説明できないし、正直に言えばどうでもいい。前提として、ここが一般的な福祉や医療、それに教育機関と違うのはわかっているもの。必要なのはそうした人材ではなくて収容者が怯えることのない人畜無害な人たち。そう、あなたみたいな。ちがう?」


 野々井さんの首は動かなかった。冷や汗を掻いている。


「ねぇ、八尾さん」


 どこか満足気に、すなわち野々井さんの反応を喜んでいるふうにして鹿目さんが私に声をかけてくる。


「なに?」

「勉強を教えることに自信があっても、めんどくさい女の子の相手をするのが苦手だったら、やめておいたほうがいいよ。アルバイトなら他にいくらでもある。それに夏休みは家族や友達、恋人なんかとわいわい楽しく過ごすのが理想的だよね? いかれた少女に付き合うのは健全な道楽とは言えない。せっかくの美人さんなんだもの、その気になればとっかえひっかえでしょ」


 やっぱり透明感のある声だ。その内容が孕む色はけばけばしい。それを残念がる自分がいるのに僅かに戸惑った。それでもここで口を閉ざすのは悪手だとわかっている。


「三つほど、あなたに教えてあげても?」

「欲張り。二つまでなら聞いてあげる」


 私は彼女の寛大な措置に感謝の溜息を小さくしてから、ゆっくりと話し始める。


「まず、人生において理想的な選択をできることのほうが少ない」

「わかるよ。ほんとうに、よくわかっている。もう一つは?」

「いかれた少女っていうのは、たとえば午前二時に古いことわざ辞典を一ページずつちぎっては口に詰めて窒息死しかけたり、一年間切っては瓶に溜めてを繰り返した足の指の爪をミキサーにかけて野良猫に無理やり飲ませようとしたり、ワインを浴びるように飲んで土曜日の横断歩道に横たわったりするような子。あなたはどう?」


 野々井さんがどんな顔をしていたかは知らない。見ていなかったからだ。

 一方、鹿目さんは不愉快を面に出したが、それは一瞬で、眼差しはすぐに興味深げなものへと変わり、その唇からは変わらず透き通った声が出てきた。


「わたしがもっと人間心理を学ぶことができれば、そうした行動にもそれらしい、ようするに大衆が納得してくれそうな説明ができるようになるかな」

「あるいは大衆と同じく、思春期や若気の至り、発狂という言葉で済ませることになるか、ね。さぁ、少しは勉強する気が出てきた?」


 鹿目さんは「とても」と笑った。口の隙間から覗く白い歯は、彼女の身体ほどには洗練されていない並び方をしていた。

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