第3話
月鳴館は関係者全般のために送迎用のマイクロバスを手配している。
朝昼晩の三往復のみが原則。入所者を頻繁に訪れる親族は少なく、バスは大抵空いているのだと事前に聞いていた。
麓まで行くために私は大学の最寄り駅から都市部と逆方面行きの電車に乗り込み、がたんごとんと半刻近く揺られた。そして小さな駅舎に着くと、そこからバスの発着場所まで五分ほど坂道を歩かなければならない。
もし駅から十分も二十分も歩かされたのなら、野々井さんには悪いがこのバイトを辞退していたかもしれない。八月の太陽はそれほどまでに凶悪で、たった数分の道のりでも冷房がよく効いた電車内を恋しく感じるには充分だった。
服装はきれいめなものなら、スーツスタイルでなくてもいいと言われていたが、コーディネートで品定めされるのは嫌だなと勝手に思い、ライトブルーのシャツに黒のパンツルックでいかにも塾講師や家庭教師っぽく自分を象った。家を出て一分歩いてからいつものスニーカーを履いていたのに気づいて一度戻ったのは内緒だ。
午前九時きっかりに麓を出発する第一便に客として乗ったのは、私以外には二人しかいなかった。
一人は花柄のワンピースを着た五十手前と思しき女性で、もう一人は三十代半ばぐらいの白の半袖ワイシャツ姿の男性。互いに会釈もしない程度の仲で席も離れ離れに座った。
前者は入所者の身内で、後者は施設に仕事で赴くのだろうか。直に確かめてみないことには逆である可能性もあったが、どちらにも声をかけることのない私だった。そんなコミュ力持ち合わせていたら、たぶんここにいない。華々しい大学生活とやらを満喫しているはずだ。
なお、私が乗り込む際にはがっしりした体格の運転手が「これ、教習所行きのバスじゃないけど、大丈夫?」と訊いてきたが「月鳴館までお願いします」と言うと「もちろん」と薄ら笑いを浮かべられてしまった。そこ以外にどこにもいかないさ、とその目が暗に言っていた。
イヤホンで音楽を聞きながら山道の景色をぼんやりと眺めること二十分、目的地に到着した。バスを降車し、例の二人がさっさと正面入口へと進む一方で、私は思わず足を止めてその建物を仰ぎ見た。
月鳴館の外観は療養施設というより、西洋貴族の邸宅といった印象を受けた。立派なレンガ造りの壁面のせいだ。少なくとも市井にいくつもある小奇麗なクリニックとは違う。なんだったら美術館や図書館の風体に近い。
「おはようございます、八尾さん」
「わっ!」
「す、すみません、驚かせちゃいましたか……?」
いつの間にか、すぐそばに野々井さんがいた。
グリーン系のポロシャツにアイボリーのチノパン。キャップを被っていれば、ゴルファーにも見えるような恰好だ。スタッフ証を首からかけている。今日はヘアピンで前髪をあげているが、これが仕事中の野々井さんのデフォルトなのかな。職業柄と捉えればいいのか、化粧っ気がまるでない。人のことは言えないけれど。
「私のほうこそ驚いちゃってすみません」
「いえ……。案内しますから、ついてきてくださいますか」
そんなに丁寧にお願いされると私までなんだか緊張してしまう。
そうして私は彼女の隣、というより半歩後ろを歩いて、月鳴館の中へと入った。
内装もまたお屋敷らしい雰囲気があり、エントランスの広さには目を見張った。これではちょっとしたリゾートホテルだ。ああ、療養ってそういう?
「他の部屋は、こんなふうに華美ではないんです」
表情に出ていたのか、野々井さんが私にそう説明する。華美という熟語はそのまま「カビ」を私に想起させたけれど、室内は古くても清潔に保たれているのがわかった。
「元々、とある富豪の別荘地だったらしいです。詳しくは私も知らないのですが、すぐにこうした施設になったのではなく、紆余曲折あったそうで」
「富豪……ええと、その人も信者だったんですか?」
月鳴館の経営母体が社会福祉法人でもなければ医療法人でもなく、宗教法人であるのはネットで調べて判明した。
施設内の詳らかな事情までは個人ブログの一つも検索に出てこなかったが、HPを信用する限りでは施設行事に宗教的儀式はまったく組み込まれていない。かえって怪しい気がしないといえば嘘になる。
私の問いかけに、野々井さんはまた口をもごもごとさせていたが、私は辛抱強く返答を待った。
「カ、カルト教団じゃないですよ?」
野々井さんが声を潜めて言う。
「そういうふうに疑っていたら、来ていないですよ」
「入信を強いることもないですから。うちのスタッフだと入っているのが少数派なぐらいで」
あっさり内情を明かされる。たしかに壁にかかっている風景画や静物画、その他の掲示物からも、宗教の匂いはしない。見ようによっては宗教的解釈もあり得るかな。
「ちなみに野々井さんは?」
「……入っておいたほうが役職に就きやすいって聞いたんです。会費も思いのほか安くて」
こういうのもフットワークが軽いって言うんだろうか。実益を求めた信仰を善とする宗教なのかは聞かないでおこう。
「管理職とか大変そうですけれど」
「まぁ……はい。けど、ほら、給与額が違いますから」
「意外と散財するタイプなんですか」
「貯金したいなぁって。ん、ん。私の話はいいので、入館手続きしないと」
そう言って、野々井さんは彼女と似たような服装の女性スタッフがいる総合カウンターへと私を連れて行くのだった。
その後、私は応接室で人事部にあたる部署の長である男性スタッフと面接をした。野々井さんが同席し、私のことを不登校支援プログラムや学習支援事業に関心のある教育部の大学生として紹介した。
事前に打ち合わせしたとおりだ。学部は合っているが、私は別にそうした支援に特別な感情を持ち合わせていない。
野々井さんはその男性スタッフとしても打ち合わせしていたのだろう、私の採用は円滑に決まった。
「たしかに
うんうんと初老の男性スタッフは頷き、野々井さんは、あははと愛想笑いをした。
鹿目さんというのが、私が勉強を教える女の子である。野々井さんからは、面接の打ち合わせはしたというのに、鹿目さんのパーソナリティについては未だにまったく教えてもらっていない。野々井さんが個人的に鹿目さんから聞き出したい事柄の仔細もだ。
曰く「仲良くなってもらってから」だそうで、私は野々井さんに自分が友達のいない、日陰者どころか隠者めいた大学生であるのを告白するか迷っている。
ここまできたら、もう隠しておいたほうがいいって気もするし、反対に言ったところでどうにもならない感じもしているのだった。
注意事項を確認し、書面での契約を取り交わした後、私たちは応接室を出た。さっそく今日が勤務初日ということで、大まかな学習計画を鹿目さん本人と相談して決定してほしいと頼まれた。無論、まずは打ち解け合うことが優先される。
一旦、エントランスに戻り、振り子式の柱時計を見やるとまだ十時になったばかりだった。何気にこういう柱時計って実物を目にするのは初めてだ。
二便のバスは午後三時に麓を出て月鳴館には三時半前に着く。昼食はスタッフ用の食堂を使っていいと言われ、またどうしても早めに帰りたいのであれば自家用車を持っているスタッフに麓まで送らせるとのことだった。実際、スタッフの大半が自動車通勤で一部は住み込みで働いている。二十四時間体制でないといけないから、日勤者と夜勤者がいるそうだ。
「付きっ切りで対応しないといけない利用者の方はほとんどいないんです。正直、介護施設よりも長期滞在がメインの宿泊施設に近いですね」
利用者の個室やレクリエーションルームのある棟へとつながる廊下を歩きながら野々井さんが言う。今日一日はどうやら私のガイド役なようだ。
「利用者にどんな人がいるのか、まださっぱりですが……鹿目さんは手がかかるほうですか」
「目立って悪い癖はないです」
「悪い癖?」
「たとえば……過度の潔癖症や、虚言癖、窃盗癖、自傷癖、諸々です。他にも発作を伴う精神疾患の類を持っている方もいますし、過去にはギャンブル依存症の方もいました」
自分が担当する女の子にそうした症状がないと知って安堵する自分と、安堵したことに対して罪悪感を抱いた自分がいた。
「そういうのって、やっぱり精神科医が治療を?」
「ここにいるのは臨床心理士ですね。薬物療法をとるべきと判断された場合に、なるべく市内で専門医が常駐している医院を紹介することもあるそうです」
ただしそうした判断を下し、家族と相談して実行に移すのは自分のような立場のスタッフではないと野々井さんは補足した。さらに言えば、重度の症状の場合は端から月鳴館の入所を断り、しかるべき機関に出向くのを勧めているとのことだった。
「鹿目さんは……他の利用者やスタッフとも交流したがらないんです。今年の春に入所して四か月になりますが、友人関係を築けている人はいません」
「勉強は本人の希望で?」
「はい。つい先週……私が鷲沢さんに会った前日の昼に。十一月にある高卒認定試験に合格して、そこからは大学受験に向けて勉強したいって。珍しく彼女からスタッフの一人に声をかけてきたみたいで」
「高校を中退しているんですか。それとも退学処分?」
野々井さんは「中退です。高一の冬に」と返事をすると、それから少し間をおき考える素振りをした。
「理由は本人の口から聞いてください。えっと、本人が話したくなったら」
「ええ、わかりました」
月鳴館への入所と大学受験を検討している事実を考えれば、経済的な理由でないのは察しがつく。何らかの事態が起こり、それで鹿目さんは学校をやめた。そして家庭は彼女の居場所として最適ではなかった?
「こちらです」
個室が並ぶ廊下。細長い曇りガラス窓のついたスライド式のドアだ。その一つの前で足を止めた野々井さん。壁にかかったネームプレートに「鹿目 祀梨」とあり、その上にカタカナで「ロクメマツリ」と記されていた。
「来訪する時間帯は伝達済みなので、中にいるはずです」
そう言って野々井さんがドアをノックした。部屋に引き籠っている人が多いのか、もしくは別の場所に集まっているのか、私たち以外に人影のない廊下にその音が虚しく響く。
返事は返ってこない。
「鹿目さん? 開けますよ――――」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます