第2話
駅前の大通りから逸れ、脇道を進んだところにあるそのカフェは民家を改装して店舗にしたらしく外装・内装ともに趣が感じられた。いわゆる古民家カフェというやつで、音には聞いていたが実際に足を運ぶのは私にとって初めての経験だった。
店内は薄暗い。窓はあるがカーテンで夏日をしっかり遮っているのに加え、先が球体になっているペンダントライトはほどほどの明るさだ。午後四時時過ぎの客入りもそこそこ。
「私もまだ二度目なんです」
この場所へと私を導いた張本人が、気恥ずかしそうに告げてきた。恋愛や殺人の経験回数ではなく来店回数だと思われる。
壁をぶち抜いたのか、わりに広い店内の奥まったところにある二人用のテーブル席に、私たちは向かい合って腰掛けた。
真正面から彼女を見やってその顔立ちだけで判断すると、童顔ゆえか、私より五歳も年上だとにわかには信じられない。背丈も私とそう変わらず、150センチ後半だろう。
ショートボブがよく似合っていて、イヤリングやピアスもしていなければ、ネックレスやブレスレットなども身に着けていない。
服装は清潔感のある七分袖の白いブラウスに、明るいグリーンを基調にしたドット柄のミモレ丈スカート、履物はサンダル。総合的には大人っぽく、細身のシルエットだ。
対して私は、黒のストレートパンツにボーダーシャツで、なんてことない着回し。足元はいつものスニーカー。
炎天下、駅から黙々と歩いてきたので二人とも汗ばんでいるが、涼しい店内にいればすぐ引くに違いない。
学生バイトと思しき若いウェイターに二人分のドリンクを注文した後、目の前の彼女――
「……
「はい。敬語を使わなくていいですよ」
「いえ、そういうわけにはいきません」
なぜか固辞されてしまった。
年上からの敬語アレルギーということはないので、言及したり再要求したりはしない。ななみと呼んでほしいとも思わないし。
よもや電話一本で破滅はしないだろうと高を括って、多香子さんの残した番号に電話をかけたのはその二日後の朝にあたる今朝のことだった。
間に一日置いてみて、忘れたらそれまでだと思っていたけれど、忘れる気配がまるでないばかりか、興味が湧いてしまったのでついうっかり連絡していた。相談できる友人もいない。
通話自体は短いものだった。野々井さんは外出中だったが、直接会って話したい旨を伝えてきて、駅で待ち合わせることになったのだ。幸か不幸か、大学の講義はその時間帯に入っていない曜日だったので了承した。
野々井さんは何からどう話すかをまだ決めあぐねている。それとも飲み物が運ばれてくるまでは話し始めるつもりがないのだろうか。私が「野々井さん」と改まって声をかけると、低い所を泳ぎ続けていた彼女の視線がこちらへと向けられる。
「叔母からは仕事内容に関して、広い意味での家庭教師としか知らされていないんです。そもそもの話、請け負う心づもりでこの場にいるわけでもなくて。誤解を恐れずに言うと……好奇心に負けただけなんです」
そこまで言い切った私を野々井さんは、じいっと見つめてきた。でも長くは続かない。少し焦った様子で目線を逸らして、もごもごと口を小さく開いて閉じるを繰り返した。
「わ、鷲沢さんからは、ほとんど何も聞いていないってことですか」
やっと出てきたのはそんな事実確認。
「そうなります。野々井さんって、叔母とは仕事関係の付き合いなんですか? 知り合ったばかりと聞きましたが」
「それは……」
赤面。私は驚いた。自分が口にした言葉でそんなにも人が羞恥を感じ、それをまさしく表面に出すのを目にしたことがこれまでの人生でなかったからだ。
どちらかと言えば、私は誰かを辱めたり貶めたり、憤慨させたりがないようにと慎重に生きてきた自負があった。それが正常であると信じさえしていた。そんなわけで、いきなり顔を赤らめた野々井さんに、ぎょっとしたのだ。
「そう、ですよね。話していませんよね」
消え入りそうな呟き声はしかし、静かなBGMにかき消されはしなかった。
やがて、先と同じウェイターが注文通りの、柑橘系のフローズンドリンクを持ってきた。彼はちらりと野々井さんを見やるといくらか不思議そうな面持ちをしたがそれを直接伝えてくることはせず、次の業務へと移った。仮に野々井さん一人きりだったのなら気分が悪いか否かを訊ねたのかもしれない。雰囲気だけを根拠にするなら、私よりは野々井さんは話しかけやすい人物だった。
そこから沈黙を六秒数え、私は多香子さんが「昨夜」と言っていたのを思い出すと、ある推測を立てた。
「無理に話してもらおうだなんて思っていません。ただ、ひとつだけ。私は……叔母の性的指向を知っています」
淡々と言った。
野々井さんが今度は目を丸くして緊張をその顔に走らせた。多香子さんや私と比べて彼女は、なんて素直な人なのだろう。容姿だけではなくそうした内面を多香子さんが気に入ったのかはわからない。
確信できた。野々井さんは、多香子さんに抱かれたのだ。
「念のため言っておくと、私と叔母にそんな関係はありませんから」
「は、はいっ」
「……不躾を承知でお願いするのですが、ここから先は本題だけを手短にお伝えくださいますか?」
本質的に私は弱い人間なのだと思う。
対面している年上女性の弱味らしきものを握った途端に、強気に出ていたから。
多香子さんだったら、にっこりと完璧な微笑みを浮かべて提案するところだろうが、私にはそこまでできない。できる人間になりたい願望はないけれど。
野々井さんはグラスに手を触れた。触れるだけ。その冷たさを手に感じ取っているだけ。そしてぱっと離すと、訥々と話し始めた。
「八尾さんに……私が働く施設にいる子に勉強を教えてもらいたいんです」
「施設?」
「平たく言えば、若年層向けの療養施設です。入所者は女性がほとんど」
私はそれを平らに受け止められなかったけれど、無言で続きを促した。
「民営の社会福祉施設の一種とでも言えばいいでしょうか。
げつめいかん。私はその響から、有名なお酒を連想した。飲んだことはない。
「ええと、率直な意見として、無資格の大学生アルバイトで務まる仕事だと思えないのですが」
「でも鷲沢さんは……」
言い切らずに野々井さんはそこで口を噤んだ。
多香子さん、私についてどう紹介したんだ。私は並の大学生よりもあらゆる面で劣っている人間なのに。
「ボランティアではないんですよね? 給与はどれだけ出るんですか」
異様な金額であれば即座に断るべきだ。怪しいバイトについて、たとえば私の通う大学でも学生たちに掲示物や一斉送信のメールを通じて、しつこく警鐘を鳴らしている。
野々井さんが「交通費別、日給換算で……」と指を使って金額を示す。
しまった、相場がわからない。
感覚として安くも高くもないけれど、私がずれている可能性もある。なるほど、友人がいないとこういう時に困るのか。いやいや、単純に世間知らずかな?
「日給って、一日に何時間働く勤務形態なんですか」
「それはあの子の調子や機嫌によります」
「特定の一人のように聞こえますが」
「い、今のところはそのつもりです。施設内で学習に前向きな子はそう多くありませんから……」
言葉を濁す野々井さんに私はなんと言えばいいか迷った。たとえば私が喫煙者で、ここが喫煙席であったのなら、ひとまず煙草を一本吸って間を持たせているだろう。
そんな映画やドラマのワンシーンめいた想像は、今は何の意味もなさなかった。しかたなしに私は冷気を放ち続けている飲み物をまた少し口に含む。
「お察しのとおり、私は鷲沢さんとセックスしました」
ぶーっと。
いや、そんな勢いよくではないけれど、とにもかくにも私は飲み物を吹き出した。私が望んだシーンはこれじゃない。たしかにこれも定番だけれど。
幸いにも汚れたのはテーブルだけで、そして量も多くない。紙ナプキンで充分に対処できた。
「それ、顔真っ赤にしてまで打ち明けないといけないことですか」
しかも妙なタイミングで。
私はオレンジ色に汚れた紙ナプキンを畳むと、隅に置いて彼女をなじった。
「初めてだったんです……男女問わず」
「やめてください。身内とのそんな話、聞きたくないです」
「行為が終わって鷲沢さんに事情を説明すると、あ、あの人は私の髪を優しく撫でながら言ってくれたんです」
聞いていない。
いっそ飲み物の残りを顔にぶっかけて、目を冷ましてやろうかと一瞬思った。しかし善良な市民たる私にそれを実行するだけの背徳心はなかった。
「私の望みを叶えられる人に心当たりがあるって、ちょうどその子に明日会いに行く予定があるのよって」
「野々井さんの望み?」
「はい」
さっきと打って変わって、明瞭な肯定が返ってきた。
「その子を、たとえば有名な学校に合格させることですか」
「ちがいます。あの子から……聞き出してほしいことがあるんです」
不穏な気配があった。
気軽に立ち入ってはいけない。好奇心は猫を殺すと言うが、一切の覚悟なしに会うんじゃなかったのかも。
「野々井さん、私は――――」
「お願いします」
今にも泣きそうな顔で縋られてしまう。そして頭を深く下げる野々井さん。
理解できない。会ってまだ三十分もしていない、小娘相手になぜこうも真剣に迫ることができるのか。
それほどに多香子さんはこの人の心身をかき乱したのだろうか。あの魔性の女が残した呪文をこの純粋な女性は信じ込んでいるというのか。
そう考えてみると辟易した。
試しに野々井さんの、染み一つないブラウスの下を思い描いてみる。どんな下着をつけているか、そこに収められている乳房はどんな形をしているのか。劣情を抱くことはない。私はあの人とは違う。ただ、その空想に多香子さんの指先や唇、舌が加わると、何とも言えない感情が生まれた。
「わかりました」
妄執を振り切るために軽く目を閉じた私は、迂闊にもそう口にしていた。
その了解の語を耳にした野々井さんは「えっ?」と訊き返してくる。その声を合図に私は目を開く。
「どうせ夏休み、暇ですから。お請けしますよ、その仕事。野々井さんの個人的な頼み含めて。でも……いい結果を保証することはできませんよ?」
「あ、ありがとうございます!」
ぎこちなくも顔をほころばせた野々井さんからは喜びが伝わってくる。
こうして私は八月から月鳴館で働くことになったのだった。
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