棘を喰らわば花まで
よなが
第1話
「あー、ばらばらにしてやりたい」
唐突な解体欲求。
可憐な少女が口にした言葉に耳を疑い、その顔を二度見した。声に怒りや悲しみはなく、むしろいくらか楽しげだった。微笑みさえ浮かべている。
ばらばらにしてやりたい? 目的語がはっきりしないと、どうにも猟奇的に思えた。それに残忍なニュアンスもある。
押し黙った私に彼女が小首をかしげた。
「ななみさんのことをだよ?」
私だった。
そんな気はしていた。
「じゃあ、真逆ね」
「どういうこと?」
「私は溶け合いたいって思っていたから」
今度は彼女が口を噤む番。けれど沈黙はほんの数秒。
「いっしょじゃん」
そうだったらいいのに。そうであってほしい。
※ ※ ※
涼風が凪いで、夕刻を進む足取りが重くなった。
梅雨明け宣言が数日前にあり、八月がもう目前。ふらりと、気晴らしに散歩に出かけることにした十数分前の自分が恨めしい。
日曜日で講義がなかったので、冷房を利かせた部屋に朝から今の今まで入り浸っていたが、日差しの色が変わって外に出る気になったのだ。不健康だなって。この涼やかな環境でしか生きられない体になると電気代が洒落にならないよねって。それに外、わりと涼しそうだなと勘違いしちゃったわけだ。
最寄りのコンビニまで行くか迷って、踵を返すことに決めた。大丈夫、まだ食糧の蓄えはある。ああ、でもアイスを買って食べるのもいいかもしれない。ううん、帰ろう。そうしよう。体力もお金も節約だ。
大学生になったらアルバイトをするつもりでいたのに、結局、労働とは縁遠い一年間を過ごしてしまった。父親からの毎月の仕送り額はおそらく平均以上なのだと思う。四年制の地方国公立大学に通う女子学生への仕送り額の統計なんてのが存在するかは知らない。仮にあったとしてもわざわざ調べる気にはなれないけれど。
そんなことせずとも、同年代の友人がたくさんいれば比較できる。でも、それに該当する人間が私の周囲にいない。
交友関係が、誰とも線で繋がっておらず自分自身の一点のみ。こういう状態のことを俗にぼっちと言うらしい。ひとりぼっちの略語だろう。孤独と表現するよりも語感が丸くて、可愛く、そして蔑みがあった。
額に汗を滲ませて帰路を歩むこと十五分足らず、私の住むアパートに到着する。
いわゆる学生街とは離れた場所に位置するここの一室を借りたのが去年の春のこと。初めての一人暮らしは可もなく不可もなしに季節を巡らせ、この土地での二度目の夏を迎えているのだった。
二階建てで各階に四部屋の計八部屋だが、自分以外の住人についてはほとんど知らない。小さな駐輪場を見やるに、手入れされている自転車が三台あるから私以外に少なくとも二人は暮らしているのだと思われる。
二階の角部屋、すなわち私の部屋の前で、今まさにインターホンを鳴らそうとしている女性と出くわした。
ライトグレーのパンツスーツ姿。後ろで一つ結びされている黒髪。両耳にゴールドのシンプルなピアス。
見知った顔だ。最後に会ったのは二年前であると記憶しているのに、彼女は一秒たりとも老いていないふうに見えた。数年前に三十路となった彼女は、魔女の如く、時の流れをひどく緩やかにしている。単に若作りと言ってしまうには惜しい容貌。
「久しぶりね、ななみ」
私の叔母、
「多香子さん……何をしに来たんですか」
「仏頂面ね。嬉しそうにしてくれてもいいのに」
「そんな間柄じゃないでしょう」
「関係性よりあなたの人柄のせいじゃない? 普通、久々に会った親戚にはとりあえず愛想笑いでもしておくものよ」
「そういうの、苦手なので」
「私も二十歳の頃は苦手だった。もう二十歳よね? たしか、誕生日は先月だった。あっている?」
私は肯く。
多香子さんの声には、訊きはしたが確信している調子があった。そしてずっと笑顔のままだ。昔からそう。彼女が泣いたり怒ったりしたのを見たのは二年前が最初で、もしかすると最後なのかもと思っている。
「遅めの誕生日プレゼントを届けに来た様子ではないですね」
「ななみが望むなら、今から見繕いに行ってもいいわよ」
「仕事帰りなんですか」
「ええ、そんなところ」
「へぇ」
多香子さんは大袈裟に肩を竦めて、溜息までする。その理由は、日曜日にも仕事があったから、ではないみたいだ。
「暑さのせいかしら、ななみは会話を楽しむ余裕がないのね。わかった、さっさと本題に入るわ。……入れてくれる?」
手で首元を仰ぎながら多香子さんは固く閉じられているドアへと視線をやった。
たしかに、黒のカットソーに薄手のジーンズ姿の私よりも暑そうだ。けれど、だらだらと汗を流していないところを見ると、近くに駐車してきてここに来てから間もないのだろう。
「数分で済むようなら、ここでかまいませんよ、私は」
「部屋にあげたくないのね」
「できれば」
「もしかして彼氏と住んでいるの?」
「そんなのいません」
「じゃあ、彼女?」
「違います。誰とも住んでいません、一人ですよ。犬や猫もいない」
ふと考える。世間一般では1Kの間取りでも人と同棲するものなんだろうか。
自分の部屋に私ではない誰かがいるのを想像するだけで気分が悪くなる。そこを聖域と形容するつもりはないが、しかしそこは私のためだけの空間であってほしいと切に願う。友達が多い人間、とりわけ部屋に人を招くのを厭わない人は別の思考回路を有しているんだろうな。
「多香子さんは学生時代に恋人と同棲していたんですか」
「そういったことを含めていろいろ話してあげるから……そうね、夕食がまだならいっしょにどう?」
「よそ行きの服がないので」
「べつにそのままでいいわよ。何も予約が必要なお店に誘うつもりはないもの。なんだったらハンバーガーや牛丼でもいい」
「多香子さんが?」
「私をなんだと思っているのよ」
どうって。問われても困る。
反射的にいらぬ質問をしてしまったのを悔いた。この人の学生時代の話はひょっとすると今後の就職活動をする上で参考になるかもしれないが、もしかせずとも私にはできない努力ばかりだろう。
バリバリのキャリアウーマンなんて表現はどことなく差別的で古臭さがあるが、とにかく多香子さんは仕事ができる人だ。親戚一同が口を揃えてそう言う。
具体的に何をしているかは知らない。ガイシケイだかなんだかと以前に耳にしたことがある。いや、さすがに二十歳の私は、それが外資系企業を意味するのは知っているけれど、だからと言ってその中身を理解しているわけではない。
「そういえば、ちょうど十年前になるのね」
私が返答を保留していると多香子さんは、遠い日々を懐かしむ目つきをした。
「……もうそんなになるんですね」
「警戒しているの? 私がまたあなたを連れ回すんじゃないかって。でもね、今回は
「お父さんから?」
「出張か何かで、もし近くに行くことがあれば、ななみの暮らしぶりを確認してほしいって。あなたが大学に入ってすぐの頃に、電話でそれとなく頼まれたの」
「けっこう前じゃないですか」
「まあね。これでも忙しい身だから、一か所に留まることってなかなかないの」
「ええと、つまり私を訪ねてきたのは、私の生活を聴取してお父さんに報告するためなんですかね」
まさか報告書の提出を要求されてはいないだろうけれど。
「半分はね」
「もう半分は?」
「バイトを紹介してあげようと思って」
「バイト?」
「そう眉間に皺を寄せないで。綺麗な顔のままでいたいなら」
笑顔の美人が言うと説得力がある。私はかぶりを振って、続きを促した。
「広義で言うところの家庭教師よ。ななみ、賢いでしょ」
「広義? それって漫才師をサービス業の括りにするのと同じですか。それに私じゃ、難関大や高校を志望している受験生に勉強を教えるのなんて無理ですよ」
「安心して。そんな高いレベルじゃないらしいわ」
「というと……」
「ねぇ、詳しい話はどこかで涼みながらにしましょうよ」
私の傍へ半歩踏み出した多香子さんが、ふわりと私の右肩に軽く手を置く。十年前、その手は肩ではなく頭や頬を撫でることが多かったのを覚えている。
私は立ち位置をスッと変え、彼女の手を退けた。
「ごめんなさい。こう見えて今年の夏は、羽を伸ばしたり羽目を外したりするのに忙しいんです。二十歳になったんですから、そろそろ一夏のアバンチュールだかアバンギャルドだかがあってもいいかなって」
「話だけでも聞いてあげてほしいの」
笑っているのに笑っていない。冗談を言ったのに笑い飛ばしてくれないし、苦笑いだってしてくれない。だから、私はこの人のことが好きになれない。
「誰の」
「知り合い。と言っても、つい昨夜会ったばかりの人」
「その方のお子さんが家庭教師を必要としているんですか? それとも家庭教師派遣会社にお勤めの方?」
「どちらともノー」
そう言ってから多香子さんは、思案する素振りを見せた。どうすれば私をここから連れ出せるか、この暑さから清々しく逃れられるかを考えているみたい。その口許には笑みがこべりついている。憎らしいほど綺麗だ。
「まぁ、しかたないか」
そう呟いたのは多香子さんだった。彼女らしからぬ諦念。あるいは素の彼女が持ち合わせているサバサバとした心構え。
彼女は私から一歩離れる。そしてジャケットの胸ポケットから手帳を取り出して開いた。一瞬だけ拳銃を取り出すのかと身構えた自分が恥ずかしい。
びりっと。彼女は一頁を破って、私に差し出す。そこには走り書きで数字が並んでいた。電話番号?
「ななみだったら、力になれるかもって。気が向いたら連絡してあげて。向かなかったり、本当に忙しかったりするのなら忘れてちょうだい」
声のトーンを落として生真面目にそう言った多香子さんは、呆けている私の手に、その紙片を半ば強引に渡してきた。
それから私の脇を抜け、彼女はこの場を離れようとする。すれ違い様に香る甘い匂いに意識が引っ張られつつ「あの」と私が引きとめると、彼女は振り返った。
「悠斗さんには、元気そうにしていたって伝えておくわね」
「え? あ、はい。って、そうじゃなくて……」
「それと――――」
いかなる抗議も聞いてくれそうにない多香子さんが、その色づく唇を艶めかしく動かす。
「あなた、一番きれいだった頃の姉さんに似てきたわね」
また眉根を寄せてしまうのが自分でもわかった。素直に賛辞と受け取ることができない私がいた。
知っているからだ。
この人は今なお、私の母つまりは彼女にとって実姉のことを想い続けているのだと。
置き去りにされた私は、ゆっくりと右の握りこぶしを開いて、無意識にくしゃっと丸め込んでいた紙片を眺めるのだった。
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