第5話
「鹿目さん、起きている?」
「起きているよぉ」
いっそう丸まって答える彼女だった。
「まずは、昨日に告知したとおり歴史の小テストをするわね。日本史と世界史どっちからいく?」
「えー、どっちもやだ」
「暗記していないの? 範囲をかなり小分けにしてあげたじゃない」
私はテーブル上に積まれている教材から必要なものを選んで準備する。大半が一昨日の午後に私が駅ビルの書店で購入したものだ。現時点で山積みだが、大学受験のためには追加購入が必須だ。
ちなみに野々井さんに領収書を渡し済み。彼女が正式に、鹿目さんの学習支援を行うアルバイト学生、すなわち私との窓口を務めることになったみたいだ。新しく別の人と関係を持つよりは気が楽だった。
鹿目さんが受験を予定している高等学校卒業程度認定試験(通称:高卒認定試験)は年に二回、八月と十一月の試験日程があり、彼女は後者を検討している。つまり三ヶ月後だ。
調べるまで知らなかったのだが、出題範囲はおおよそ高校一年生の範囲に集中しており、科目数は国英数三科に加えて地理歴史と公民、理科を合わせた三科の計六科目。高校での単位修得状況によっては免除可能であるみたいだけれど、鹿目さんが試験免除できる科目は存在しなかった。近々、学習指導要領の更新の影響も受けるのだとか。
「来て早々に勉強開始ってスタイルがいけないと思う。まずは軽くおしゃべりをして、ノッてきたらぼちぼちと始めればいいじゃん。アイスブレイクって知らない? 緊張をほぐすことが大事だよ。急がば回れって言ってもいい」
もっともらしいことを、体を丸めたまま話す鹿目さんだった。さすがにその姿勢では彼女の声もそこまで澄んでいない。
「そういうのは昨日や一昨日に充分にしたつもり。いいかげん、丸まっていないで席に着きなさいよ」
「また無理やり身体に教え込んじゃう?」
「そのほうがいいなら」
教え込んだ覚えはないけれど。初日の、立ち上がらせるのに失敗した件を言っているのだろう。
鹿目さんは「うーん……」と、さも考え事をしている唸り声をあげてから体を起こし、ソファに座り直した。私は野々井さんが用意してくれた椅子、もともと鹿目さんの部屋にあったものよりも簡素で座り心地の悪いそれに座って彼女を眺めていた。
上はサイズが緩めの水色と白色の縦ストライプのカットソー、下はチャコールのショートパンツ。
これ見よがしに露出している脚を組んで彼女が言う。
「提案があるんだけど」
「学習計画についてなら、柔軟に対応するわ。私もこういうのは初めてだから手探り状態なのは否めないし」
「真面目すぎ! そうじゃなくてさ、呼び方の話」
「呼び方?」
「そうそう。あのね、ハチって呼んでいい?」
名案でしょと言わんばかりのしたり顔だった。
「それじゃ犬みたい」
「それでね、わたしのことはロクって呼んでほしいな」
「お互いに数字ってこと? それだとまるで囚人じゃない」
「あ、ちょうど今日は縞々着ているし、いいかんじ。白黒じゃないけど」
「白黒の縞模様のイメージってだいぶ古いそうよ」
「監獄に詳しいの?」
「そんな目を輝かせないで。前に海外ドラマの視聴ついでに気になって調べてみたってだけ。時代や場所にとって刑務所もけっこう違うみたい」
「ふうん。さすがにここはムショに比べれば快適そのものだよね。ご飯も臭くないし、職員から人権を無視した扱いを受けることってない」
「知識にずいぶんと偏向があるようだけれど……ここを早く出たいの?」
四日目にして初めて私は彼女に、この月鳴館から出ていきたいのかどうかを訊ねたのだった。彼女が勉強して試験を受けて、その先を目指しているという事実は、ここを離れる意思の表れだと捉えられる。だからわざわざ確認していなかった。
「イエスかノーかで言えばイエス」
脚を組みなおして彼女が言う。少し硬度のある声。
「でもね、出たくてしょうがないなら、さっさと出ている。客観視するなら、わたしはもう少しここにいたほうがいいのかも。ねぇ、どこまで知っているの? わたしのこと」
「なんにも。あなた個人のことはもちろん、施設内の設備についてもまだ全然だもの。たとえば、あなたがその長い髪を毎日洗っているかどうかも知らない」
部屋にシャワーもトイレもない。廊下に共用トイレがあるのは知っていて、使わせてもらっている。きちんと清掃されていて、今のところ鹿目さん以外の利用者とばったり出くわしたことはない。
「洗っているよ、毎日。私のシャワー室とランドリーの使用頻度、ここではかなり高いほうだと思う。引きこもりオブ引きこもりみたいな子もいるらしいし。んー、よかったら触ってみる? あ、髪だけだよ」
「遠慮しておくわ」
「まぁまぁ、そう言わずに」
鹿目さんが手招きする。
こちらとしては、私がソファに行くのではなく彼女がさっさと指定の席に座って勉強を始めてもらいたいところだ。とはいえ、口論するのも気が引けて、私は彼女の隣に腰掛けた。「優しくしてね」と、にやりと笑う彼女の後頭部、頂点よりも少し下ったあたりにまず軽く触れた。そのままうなじへと手を流していく。彼女の髪はさらりと何の抵抗もなしに私の指を滑らせた。
「ご感想は?」
「綺麗ね。羨ましいわ」
「どうも、どうも。ハチ先生の髪も触らせてよ」
どことなく3年B組を担任していそうな響きのある呼称にされてしまった。
「他人に体を触れられるのが好きじゃない」
「他人じゃないからオッケーってことだよね。それにほら、いたいけな少女を一方的に弄んだ成人女性として報告されるのはもっと嫌だよね」
にこりと。可憐な脅迫。たったひと撫でしただけなのに、ここまで言われるのは釈然としないが、渋々触らせることにした。……くすぐったいな。
「あー、ふつうにいいんじゃない?」
鹿目さんの心のこもっていない称賛に、私は自分の首の付け根を軽く揉みながら訊く。
「長いと、乾かすの大変じゃない?」
「もう慣れた。うちから持ってきているの、ドライヤー。衣類を除いたら、そういう持ち込み品って少ないんだよ、わたし」
「もしかしてこのソファも?」
ベッドやテーブルと比べると、いい意味で安っぽくない足つきソファ。他の調度品から浮いている印象もあった。
「ざっつらいと。そこの椅子やベッドの上って落ち着かなくて。そうじゃなくても、このソファは思い入れがあるんだ」
「日常的にその上で丸まりたくなるぐらいに?」
「まあね。もっと仲良くなったら……ハチ先生がこれからいつも勉強の合間にこうやっておしゃべりやお触りを許してくれたなら話すときがくるかもね」
「どうやら今日明日じゃないようね」
くすくすと私たちは笑い合うと、ようやく勉強を開始するために席へと移動した。
午前中は世界史と日本史の暗記項目の確認をした後、数学を中心に学習した。幸い、基礎的な部分、中学生で習ったレベルの問題を解くのは苦労していなかった。計算力もそれなりにある。自己申告によると英語は「中二の頃、理解を諦めた」とのことなので苦戦しそうだ。
午後一時になると昼休憩にそれぞれ別の場所へと向かった。
食べ終わると部屋に戻って、眠たげな鹿目さんを励ましながら一時間余り、化学分野の覚え込みと練習問題に取り組ませた。物質の構成、たとえば混合物と純物質の識別はなんとなくできるみたいだったが、元素記号と周期表に単元が移るとろくに覚えていない彼女だった。
「ねぇ、ハチ先生。明日も明後日も来るの?」
鹿目さんの気がそぞろになってきていたので、宿題の指示をして今日の学習を切り上げると彼女が訊いてきた。ごく自然にソファへとその身を移して、丸まってこそいないが沈んで溶け込むように体をあずけている。私が座れるスペースはなさそうだ。
「そうね。月鳴館側が日当を出し惜しみしない限りは」
「薄々気づいていたけれど……ハチ先生、暇なんだね」
「否定はしないわ」
野々井さんには日曜以外だったら通えると話してある。そういえば、今年はお盆に帰省することもないって話していないな。月鳴館は施設の特性的にお盆休みはないだろう。
「恋人いないの?」
「いろいろ訊かれる前に断っておくと、このバイトが終わって家に帰っても午後五時前。大学生にしてみれば、まだまだ活動時間なのよ。わかる?」
「はいはい、どうせ中卒少女にはわかんない世界だよーっだ」
「べつにそう言いたかったんじゃ」
今になって、ぼっちバレするとからかわれそうで見栄を張った私だった。そんな小さな自尊心、ゴミ箱にポイしておくんだったかな。
「話、戻すけどさ」
私がテーブルの上の教材を整理していると、鹿目さんはソファに体を溶かしたまま、髪に手櫛を通しながら呟いた。その目線の先にあるのは彼女自身の髪で私ではない。
「どこまで戻るの?」
「わたしがここを出たいか出たくないかって」
「数時間前の話題よね」
「いいから聞いて。……月並みな例えだけどさ、動物園の檻の中の動物と野生の動物のどっちが幸せなのかって話」
「たとえば、鳥にとって大空を知らないことやキリンやゾウにとって広大な草原を知らないことが不幸だと思っている?」
「最初から最後まで知らないでいられたら、そこに幸福も不幸もないのかも。じゃあ、仮に知っていたとしてさ、毎日出される餌や安全な寝床、一度与えられたそうしたもの全部を捨ててまで自由を得ようとするのってどう?」
そう口にした鹿目さんは髪から手を離し、身体を起こして私を見てきた。先生らしい、もしくは八尾ななみ自身の答えを望んでいる。
「現実は残酷で、選択はあってないようなものよ。動物園から逃げ出した動物は保護されるか、種と場合によっては処分されるか。野生と離れていた期間が長ければ長いほどそこに再び適応するのは困難でしょうね」
「そうだね」
「そして月鳴館は動物園ではないし、あなたも動物ではない」
「うん」
「……怖いの?」
ここにいるスタッフたちに、横柄な態度をとっていたとしてもそれをそのまま外の世界で出せるとは限らない。ここにいるスタッフや他の利用者とどれだけ馴染むのを拒んで独りで生きようとしていても、結局は誰かを頼らずには生きていけない。無事に大学生になれてもそれで人生の成功が約束されるのではない。
鹿目さんはそのことをわかっている。来たばかりの春の頃には心の傷か何かで考える余裕がなかったのかもしれない。でも季節が変わって、彼女も変わろうとしている。
どうだろう。
私は小さく、本当に僅かに首を横に振った。あんまり勝手にわかった気にならないほうがいい。彼女の素性、これまでの経緯、過去を知らないで憶測で同情するのは止しておこう。それはまるでクマや鹿の剥製を観賞しながら、それらの命が辿ってきた道筋を夢想するようなものだ。
席を立ち、私を見つめたまま返事をくれない鹿目さんのもとへと近寄る。彼女はソファの一部を譲ってくれる気配がない。しかたなしに私は肘掛けの側面に腰をあずけて彼女に背中を見せた。そしてそのままバスの時間が近づくまで、二人して蝉の声を聞くか聞かないかしていた。
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