第96話

 次に◆ナイトがc6。◇ナイトf3。◆ポーンe6と進め、サーシャはビショップの道を開け、着々と陣形を整える。


(……なにかを狙っているな。考えられるのはシベリアントラップ……一手指し違えれば、俺の負けが決まる……)


 先の展開を読み、◇h8のルークと◇e8のキングでいわゆる『キャスリング』の準備をする。こうすることで、一気に駒を二つ動かせ、ルークはf8に移動し、中央から攻めることができる。キングはg8に移動し、端近くでより守りを固めることができる。一回の対局で一度だけできるのだ。


 キャスリングはこのように、攻めと守りを一手で行えるのだが、その対策ももちろんある。そのうちのひとつがシベリアントラップ。サーシャが◆ナイトf6へと進める。


 この◆ナイトがシベリアントラップのキモとなる。進軍してくるこの駒を、無理に追い払おうとすれば、シシーの陣形は崩れ、サーシャの陣地奥深くから一気にクイーンが侵入し、即チェックメイト。負けになる。


(来たか……だが、読んでいる。慎重に対処すれば……いや、待て。これは……)


 心のざわつきを感じ、シシーは何度も深呼吸。進んでいる道がどんどんと崩れていくような、沈んでいくような予感がする。


「どうしたの?」


 余裕を持った笑みで、サーシャは頬杖をつく。


 対照的に、シシーは静かに読みに入る。チェスクロックを見る。


(残り時間は一三分……七分まで読み切る)


 そのままチェス盤の中へ。意識を溶け込ませる。相手のやりたいことを、今の時点で読み切る。勝てるのか。ドローに持ち込んだほうがいいのか。相手の裏の思考はなにか。もちろん、そんな全てがうまくいくわけがない。それも含め、ただ、深く潜る。


「いいの? まだ序盤だよ。そんなに時間使っちゃって」


 四分経過。いつの間にか主導権をサーシャが握る。この時間を使い、彼もシシーの返しを想定し、枝分かれしていく未来を想像する。そして見えてくる勝ちへのルート。その細く見えにくい勝利の糸を手繰り寄せるために。


 約六分後、閉じた時と同様、シシーが静かに目を開ける。


「——読み切った」


 右手人差し指で唇に触れる。再度確認するが、自分の読みを信じるしかない。貫くだけ。


「あのまま行っていたら、おそらくお前の勝ちだった。シベリアントラップだと思っていたが、お前の狙いはその先」


 h7に存在する、まだ動いていないサーシャのポーンを指差す。それこそが今回の戦術の根幹にある。


「フィッシングポールトラップ。同時に仕掛けていた。ルークの道を開け、縦からルーク、斜めからクイーンが即チェックメイトを狙ってくる。すでに俺は守るしかなくなっている」


 キャスリングしたキングは、守りが堅牢になったという見方もできるが、身動きが取れない、というデメリットもある。ゆえに、端からのルークと、それをテイクしようものなら、斜めからクイーンやビショップが睨みをきかせる。

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