第95話
「ない。初めてだ。面倒だな」
駒を動かし、チェスクロックを押し、棋譜を書く。ワンアクション増えるだけでも、シシーには煩わしい。そもそも、棋譜くらい各自で記憶しろと言いたい。
ちょうどよかった、そんな顔でサーシャが柏手を打つ。
「じゃあさ、ルール追加で『棋譜なし』でもいい? 僕もいらないと思ってたんだよね」
「かまわない。俺もいらない」
決定。負けたらコーヒーを奢り、棋譜はない対局が始まる。
「えぇ……」
ファティが顔を顰めている間に、色々と物議を醸しそうな対局開始。
初手。シシーはポーンe4。チェスにおいて『初手e4』というのは、おそらく七割近い流れであり、ここから様々に変化していく、といっても過言ではないほどに指される手だ。
後手番、サーシャはポーンc5。これも非常に多い手。シシリアンディフェンス。
その後、◇ポーンd4、◆ポーンd4でテイク。開始から二手で、シシーはポーンをひとつ失ってしまう形に。続いて◇ポーンc3でナイトを展開していく戦術。
「……スミスモラギャンビットか。攻撃的にくるね」
ギャンビットとは、駒を最初にひとつ失う代わりに、先手が場を攻勢になるように整える戦術である。後手番としては、それを受け入れポーンをテイクする『アクセプティド』、乗らずに取らない『ディクラインド』に派生する。ここでは、サーシャはアクセプティド。スミスモラギャンビットが完成する。
ある意味、チェスは相手と息を合わせて、戦術を決めるところがある。そのため、誘いに乗らなかったときの定跡を覚えていないと、すぐに勝負は決してしまう。才能よりも、知識がなによりも優先される。
その中でも、スミスモラギャンビットは、後手番のクイーンの動きを抑制する働きがある。そもそもがシシリアンディフェンス自体、まず先手番に主導権を与える手だ。後手番は、クイーンなしでも守れる自信がないと、中々指せない手となる。
予定通り、シシーが先行して場を作っていく。
「速攻で決める。息つく暇も与えない」
この戦法は、緩急の『急』で押し切る。怒涛のラッシュをシシーは仕掛けて一気に持っていく算段をたてる。
「せっかくなんだから、もっと楽しもうよ。てか、仮面似合ってるよ。セクシーだね」
「言ってろ」
軽口をたたくサーシャを、シシーは咎めた。
◆ポーンc3でテイク。これでシシーはポーンを二つ失うが、◇ナイトc3でテイクする。
流れるように美しいギャンビット。ここから先は研究量がものを言う。幸い、持ち時間は九〇〇秒ある。じっくりとシシーは考える。
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