第32話

 うんうん、と正論だと言わんばかりにマスターは大げさに頷く。


「当然、まともなわけがない。でも、以前はそれくらいの怪しい対局ばかり指してたのに、ずいぶん大人しくなったね」


 かつて、この少女は勝つためだけに、毒まで飲んだことがある。その時はマスターといえど、恐怖さえ覚えた。


「一応あんたとの約束だからな。命張りそうなものはやらない。で、何時にどこに行けばいい?」


 不本意ながら、この老人を打ち負かせるようになるまでは、決め事は守ろうとシシーは考えている。破ったら、それはそれで負けた気になる。 


「引き受けてくれるの?」


 問いかけてくる割には、マスターの声色に驚きは感じない。最初から確信を持っていたかのように、淡々としている。


 呆れたように、シシーは深くため息をついた。このタヌキめ、そんな声が聞こえてきそうなほど。だが、受け入れると決めている。強くなれるなら、危険な道は歓迎したい。


「どうせやるしかないんだろ。時間の無駄だから早く言え」


 諦めて、先のことはマスターに委ねた。信用はしてない。してないからこそ、平気で危ない勝負を提供してくれる。なら、やるだけ。


 マスターは服の内側に手を突っ込み、準備していた一式を取り出す。引き受けること前提で用意してきている。


「察しがよくて助かるね。住所はここ。三〇〇〇はこれ。それとこれ」


 と、場所を書かれた紙、お金の入った封筒、それとはまた別にもうひとつ、シシーに手渡す。


 案の定、怪しさ全開で、受け取ったものの、不満のある表情をシシーは浮かべた。


「住所と金はわかるが、なんだこれ」


 上に掲げ、ライトを透かしてみると、どうやらなにか紙が入っているらしい。まぁ、まともなことが書いてあるものではないよな、と予想を立てる。


「もし負けたらそれを渡す。まぁでも先に伝えてあるから、ビーネちゃんはそこで相手をチェスで倒す。それだけ」


 難しく、余計なことを考えているであろうシシーを、マスターは制する。クリアな思考で、簡単に、行って勝って来ればいいだけ。


 どうせロクでもないことを賭けたのだろう、とシシーは見通している。だが、そのあたりは知ったことではない。なにをこの老人が賭けようが、その結果、失うことになろうが、そこまで心配してあげるような仲ではない。それに、言っている通り。勝てばいい。全て、今考えていることは杞憂に終わる。だが、それとは別に気になることがひとつ。


「もう大会は始まってるのか?」


 そういえば、真剣師だけの大会について、概要もなにも知らされていない。まともな大会じゃないことはわかっている。もしやこれがそうか、と肌で感づく。


 しかしこの深読みは、どうも的外れだったらしく、顔をブルブルと横に振るマスターが否定する。


「いや、これは大会じゃない。個人的な賭けチェスだよ。代打ちオッケーのね。向こうもそうなんじゃないかな」


 つまり、この老人の酔狂に自分は駆り出されている、と理解したシシーは飲みかけのアプフェルショーレを一気に飲んだ。


「ますます胡散臭いね。この封筒、開いて中身確認しちゃうかもね」


 ピラピラと指先で封筒を挟んで、遊ぶ。きっと大事なものなのだろう。生殺与奪は握った、というと言い過ぎだが、今は自分次第でどうにでもなる、と軽く脅す。


 しかし、笑みを崩さずマスターは余裕のまま。


「いいよ。キミが勝てばそれは破り捨てていいものだからね。その際は必要なくなる。最初に言ったでしょ、僕を信用する必要はない。僕についてくれば、強くなる。強くなれば、熱い勝負ができる。それだけだ。断るなら、僕はそれでいい」

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