第33話

「負けたら?」


 そんな気は微塵もないが、シシーは聞くだけ聞いてみる。


「その時はその時。なるようになるさ、死ぬわけじゃない」


「勝ったらオレになんのメリットが? 金だけか?」


 三〇〇〇ユーロの七割、二一〇〇ユーロ。充分立派に大金であるが、金なんかで納得しないことは、この老人はわかっているだろう。強い相手と勝負できるのはありがたいが、なんとなくスッキリしない。


「こっち側の追加報酬は決めてない。キミが好きにしたらいい」


 つまり、マスターの発言から、この中身不明の封筒と同格のものを要求していいと。そういうこと。なら気になることは。


「金以外のものを要求していいのか? 中身はなんだ?」


 矢継ぎ早にシシーが問い詰めるが、マスターは一言。


「秘密」


「じゃ、相応かどうかわかんねーじゃねーか」


 右肘をテーブルについて、ずいっとシシーが前に出る。不満が顔から見てとれる。


 気にせずコーヒーをひと口飲み、淡々とマスターは教えを説く。


「大きくふっかけてから、ちょっとだけ妥協すると、相手もまぁいっか、ってなる。まぁ、詐欺みたいなもんだね」


「詐欺ねぇ」


 詐欺くらいで今更あーだこーだ言うような世界ではないとシシーもわかっている。なにせ高額レートの違法賭博をやっている人間達の集まりだ。警察になんぞ駆け込めるわけない。


「ま、勝てばいいわけだ。勝ってから考える」


 チェスに余計な思考は、判断を鈍らせる。相手が強いならなおさら。スイッチの切り替えを意識して、対局が終わるまで、盤面に集中する。相手の降参を聞いて、酒を飲む。そこまでがチェス。


「そういうこと。難しく考えない。負けたら負けた時に考える」


 シシーの背中を後押しするマスターだが、当の本人は一〇〇パーセントのやる気が出てこないのを感じた。理由はひとつ。


「だが、これじゃ負けた時にオレにリスクがなさすぎる。負けたらそうだな、死ぬまで酒代は持ってやる」


 それくらい背負わないと、フェアじゃない。命を賭けているわけではないから、これは許される範囲内だろうと、自分自身に言い聞かせる。


 「ほっ」と、多少驚きつつも、マスターは確認を取る。


「いいの? たぶん強いよ、相手。ビーネちゃんの実力じゃ到底敵わないプレイヤーなんてゴロゴロいる、って思った方がいい」


 低く、自分の力量を把握しなさい、と弟子に悟らせようとする。負け続きなのだから、多少はメンタルに影響があってもいいものだが、真剣勝負となると一気にボルテージが上がるようだ。さっきまでの弱気は吹き飛ぶ。


 が、シシーは逆に問いかける。


「ならなんでオレにやらせる? あんたの封筒、渡すことになってもいいのか?」


 結局、なにが入っているのかわからない。価値のあるものだとすれば、なにかの権利書か、委任状のようなものか、その類の悪いことができる紙だろう。なんにせよ、青春時代のラブレターだとか、そんな激甘なものではないことは確か。


 首を捻りながら、弱気な声でマスターは答える。


「うーん、それがねぇ、よくないんだよ。とても困っちゃうね。できれば負けないでもらいたいな」


 と、わざとらしく懇願してくる。妙に演技がかっており、どちらでもよさそうだ。


 それを一瞬でシシーも見抜く。心の中で嘆息した。


(どうせ負けても自分で取り返すつもりなんだろ)


 これ以上話すこともない。切り上げて、早々に店を後にした。

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