第24話
迷いのない目からは、『必ずお前は殺す』というメッセージがついてきている。
「なんでこの先、生きようとする。目の前にチェス盤があって、相手がいる。ならそれに集中しろ。駒を持ったまま爆風で死ね」
(ヒィッッ!!)
ガチガチと歯音をたてながら、老人は震えだす。とんでもないやつに出会ってしまった。あの時、対局など断っておけば、こんなことにはならなかった。
目線を外さないまま、鬼の形相でシシーはコートのポケットからひとつ、カプセルを取り出す。
「……?」
先ほどから老人の脳の容量を超えた出来事が続いているが、またさらに上書きされて意味がわからない。
そして、そのまま眼前でシシーは老人にだけ聞こえる程度の音量で、この状況を説明する。
「ベルリンには、比較的安価で毒薬を売ってくれる人間が多数いる。苦しまずに一瞬で死ぬ毒から、数時間のたうち回って絶命するやつまで様々な種類があるらしい。オレが飲んだものは、ドウモイ酸を使った毒で、数時間以内に市販できないレベルの、この強力な解毒剤カプセルを飲まないと死ぬらしい。そのあと胃洗浄も込みでな」
……今、この少女は何を言った? 毒? 絶命? それを飲んだ? 喋りながら、老人の理解力はとっくに追いついていない。
「今日、負けた瞬間にこの解毒剤は破棄する。あんたが一度だけでもオレを上回れば、その瞬間オレの人生は終わっていた。それがオレの『覚悟』だ」
濁りに濁ったシシーの目が、老人の眼球を飛び越え、その先の脳を撃ち抜く。
(ほ、本気の目だ……く、狂ってる……!)
イスから立ち上がり、老人は後退した。今、目の前にはチェスの『鬼』がいる。時間が経てば死ぬのは自分もじゃないか、と恐怖を覚える。
畳み掛けるように、シシーは老人にプレッシャーを与える。
「さぁ、どうする。早く次の手を指せ。あんたの全部を食って強くなってやる。性格悪く、使えるルールを使い、負けて油断させて、そして勝てると判断したあんたに挑んだ。全部あんたの教え通りだ」
自分はとんでもない怪物を目覚めさせてしまった、老人は全身の力が抜けたように、その場にストンと崩れ落ちた。もはや絞り出すように肺から声を出す。体力うんぬんではなく、この気迫の前にはなにもできない。金に目が眩んだわけではないが、相手を見誤った。真剣師の中でも特にイカれた人間だ。
「……負けだ……一万ユーロは……今はない」
見下ろすように老人を眺めていたシシーだが、相手が戦意を喪失したとわかると、途端に興味を無くしたように解毒のカプセルを口に放り込み、呑下す。リベンジは完璧に完了した、が、終わると同時に悲しくもなった。自分のやりたかったことはこんなことなのか。ため息をひとつ吐く。すると、周りの景色が目に入ってくる。穏やかな休日の、煌めく日常。自分との対比で、戻れないところまで来たと、決意した。深呼吸。
「金はいらん。勝つためだけにここに来た」
チェス盤を片づけ、駒やチェスクロックをひとまとめにした。隠してはいたが、自身も相当に体力は削られている。遅効性の毒が効いてきていたらしい。許されるなら、今ここでビールごと吐き散らかしたい。
二分ほどそのまま、お互いに何も発さず、動かず、ただ周りの音だけが聞こえる。笑い声や、高らかに歌う声。
からからに乾いた口を動かして、憔悴した老人が言葉を発する。
「そんな戦い方で、今後もやっていく気なの?」
そんな、とは、敗戦に命をかけることだろう。勝ち続けるなら問題ないが、チェスで一生そんなことは無理だ。世界チャンピオンだって負けることはある。
吐き捨てるようにシシーは返す。もう老人に対して敵意も殺意も興味もない。
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