第23話
プロのチェスプレイヤーでも、数時間休息なしに続けると、ありえないミスを連発するようになる、という研究結果も出ている。ましてや七〇を超える老体。前頭前皮質の働きが阻害され、一時間でも脳疲労がくる。ドロー狙いであっても、ミスが連発するようであれば、その隙をシシーは見逃さない。もともと受け主体でやってきたチェス。その感覚は敏感だ。
「そうだ。なにもチェックメイトの状況を作るだけが勝ちじゃない。相手が『降参だ』と言えば勝ちなんだ。あんたとの差が一週間で埋まるか。だが、勝ち負けとは別だ。オレが勝つための策は、あんたがぶっ倒れるか降参するか、疲れてミスをするか死ぬかだ」
喋りながらも、ブリッツゆえに手と頭は止められない。体力回復のためにゆっくり指そうとすれば、時間切れで負けになる。相手は七〇を超える老体。どうしたってミスは出る。それが出れば、そこを突く。真剣師だからこそできる勝ち方である。公式戦ではまずない。
しかし、チェスにおいて引き分けが多いとはいえ、最初からドローを狙って対局して、格上相手に毎回できるのかと言われればそんなことはもちろんない。世界チャンピオンに対してグランドマスターが、最初からドローを狙った対局が存在するが、華麗に打ち負かされている。
「こ、これがチェスと言えるのか……!」
震えながら老人は、浅い呼吸を何度も繰り返す。
「チェスだ。オレがチェスだと言えばチェスになる。リボルバーに一発だけ弾丸を入れて、お互いに一発ずつ引き金を引く。これもチェスだと言えばチェスになる。オレとあんただけの戦いだからな。他の人間、常識なんぞ関係ない」
細かいルールを定めておかなかった方が悪い、ということになる。冷静に判断できていれば、前回圧勝していなければ、もしかしたら慎重に決めることができたのかもしれない。
「ぐ……!」
ギリギリと歯を噛み締めながら、血管が浮き出そうなほど憤慨する。負ければ一万ユーロ。たった一度勝つだけでいい。なのになぜ、ここまでドローが狙えるのだ。
「さぁ続けろ。次のオープニングはなんだ? ヴァンクライスオープニングか? クレメンスオープニングか? 全て返してやる」
「……こんなのは、違う……!チェスじゃない……!」
わななきながら声を絞り出した老人に対して、シシーは嘆息し、目を閉じてひとつの例を出した。
「……例えば、今、デュッセルドルフに向けてミサイルが発射されたとする。このままあと五分後には市民が全員死ぬ。あんたはどうする?」
突如、意味不明なことを言い出した少女に対して、老人は呆気にとられる。ミサイル? なにが? 死ぬ? 死ぬの? その場面を想定して率直な感想を伝える。
「どういうこと?」
「いいから質問に応えろ」
「……どこかはわからんが、逃げるだろう、死にたくはない」
やはり想定しても全く、どこか違う国の理不尽な戦争の話をされているような気がするが、ミサイルが来ていて受け止めようとするやつはいないだろう。この子もそうなはずだ。だが。
シシーは鼻先数センチのところまで顔を近づけて言い放つ。
「ダメだ。オレはあんたが降参を宣言するまでは逃がさない。イスに縛り付けて、その言葉を聞くまでここにいてやる。ミサイルも核爆弾も知ったことか。この一局より大事なものがこの世にあるかよ」
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