第15話

「……んなもん持ってねぇよ……!」


 うなだれるシシーに、老人は財布からお札を取り出して樽の上に。上着を着、帰るすれ違い様に一声かける。


「キミの優しさのお返しとして、一〇〇ユーロ置いておく。もう終わったから、好きなだけ飲み食いしていきなさい。そしてもう賭けチェスなんて辞めようね。今日あったことは忘れること」


「ざけんなッ!」


 我を忘れた大声で、店内が一瞬騒然としたが、酔っ払い同士が揉めるのはよくあることなので、周囲の人間達はすぐに元の喧騒に戻る。酔っ払い同士が揉めているというのは事実である。


 大きな声を出したことで、またさらに酔いが回ってシシーはフラフラとする。


「受け取れ、そんでもって再戦だ……!」


 財布からありったけの札束を握りしめて、老人に手渡す。鼻息荒く興奮し、目も先ほどよりも充血している、否、血走っている。正気ではない。握った金額も、もはや適当なのでわからない。


「一旦落ち着こう。ほら、ミネラルウォーター頼むから。飲んで落ち着こう」


 老人が店員に注文を取ろうとすると、「やめろ」と制止する。


「このままでいい。酔いが覚めてどうする。これで勝つから勝ちになるんだろ」


 もはやよくわからないシシーの理論ではあるが、勢いに負けてそのまま老人はイスに座る。そしてチェス盤の準備。やれやれ、とやる気はあまり感じられない。

 

「僕は止めたからね。ここからは自己責任。どっちが白にする?」


「くれてやる。好きにこい」


 完全にシシーは頭に血が上った状態であるが、先のポーリッシュオープニングに関しては対策はできた。もしまた同じ戦法でくるなら返り討ちにしてやる。


「怖いねぇ」


 と、口ではそう言っているが、老人の初手はナイトh3。いわゆる、パリオープニング。


「……ナメてんのか」


 超がつくほどにマイナーなオープニングのひとつである。もはやオープニングと呼んでいいのかもわからないほど。その理由としては、ただ『初手にナイトをh3に置く』。それだけで、一手損といっても差し支えないような手なのである。


 先ほどとは違い、ニヤリ、と悪魔的な笑みを老人は浮かべた。もう隠す必要もない。


「今のキミには効果的だと思うからね。ほら、道を開けてビショップでテイクする? しない?」


「殺す」


 もはや会話にすらならない。シシーは戦術もなにもなく、圧倒的に叩き潰して、そのヘラヘラとした顔を青ざめさせてやるとだけ考えている。パリオープニングなんて手を選んだことを、地獄で後悔させてやる。


「あ、そうだ。言い忘れてたけど」


 チェス盤にめり込みそうなほど、前傾姿勢になるシシーの目の前に、老人は右手を開いて出す。そして、ニカッと笑う。


「あ?」


「僕、再戦は五倍でしか受けないから。大丈夫?」

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