第14話

 初手、白のポーンがb4。d4かe4が九割以上を占めると言われる白の初手から外れた、シシーの意識の外側からの奇襲。


 黒番の初手から、手が止まる。ポーンを掴もうとした指を口元に持っていき、ギリっと親指の爪を噛む。


「ポーリッシュオープニング……! それは……煮詰めてない……!」


「そう思ったから選んだ。指導その一。チェスは性格が悪い方が強い。やってる期間の短さからいって、このオープニングと出会うことはほとんどなかっただろうからね」


 ポーリッシュオープニング。別名ソコルスキーオープニングとも呼ばれる初手で、慣れていない相手となると、世界トップクラスであろうと、一〇手そこそこでリザインされた記録がある。隙を見せた瞬間、ビショップが自陣深くまで潜り込んでくる攻撃的なオープニングだ。


 慣れない手に翻弄され、シシー陣営のg2まで敵ビショップが攻め込んでくる。


(く……こっちのビショップも引き出されている……! ルークまで持っていかれる……!)


 一気にg2ポーンとh1ルークを相手ビショップに掻っ攫われ、おそらくソフトがあれば評価値はプラス四近く相手有利だろう。野試合であれば、ここでリザインしていいところだ。一通り自陣を荒らされて、相手ビショップを制圧した頃には、陣形を崩され、相手ナイトが睨みを効かせてくる。キャスリングでキングを逃がす暇さえない。それと懸念事項がもうひとつ。


(頭が……割れるように痛い……!)


 深く盤面に入り込もうとすると、全身から気怠さを感じる。体がフワフワと浮くような、それでいて体内の水分がグラグラと揺れてバランスが取れないような、集中力の欠乏。


「強さもわからず一気にいくから。実はさっきまでのビールとは違う。あまり強さを感じなかったかもしれないけど、アルコール度数は倍以上だ。口当たりが滑らかで、言われないと気づかなかったでしょ? 指導その二。使えるものはなんでも使う。ビール一杯で勝ちが拾えるなら安い」


「あんた……わざと……!」


 充血した目でシシーは老人を睨みつける。が、トロンとしているので、威力はゼロだ。


「わざとついでに言うと、指導その三。真剣師は賭け金を引き上げるために、わざと負けることがある。その日だけじゃなく、週や月単位でプラスになるよう、怪しまれないようにね」


 そうこう舌戦を繰り広げているうちに、終盤へ。相手の双方からくるナイトがセンターを支配し、開いた穴へクイーンが縦横無尽に攻め込む。キングを守っていたルークが相手ナイトに引き剥がされる。


(ビショップを……いや、移動すると相手ルークが自陣に入り込む道ができてしまう……!考えろ……!なにか手が……!)


「チェック」


 静かに、そして無情に老人のクイーンがh7に移動。したところで、


「……リザイン」


 小さく、シシーが投了して終わった。一方的に相手の攻めを許す、ひどい負け方だ。


 少しぬるくなった勝利の美酒、ビールを一気に飲み干し、老人はゆっくりとチェスを片付け始める。


「うん、こんなものだろうね。指導その五。四だっけ? 勝てる相手にだけ挑みなさい。家に帰ったら、可愛いクマさんの日記帳にでも今日習ったことをメモしておくように」

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