第12話

 対局が始まる。先手の白番は老人。ポーンをe4。シシーはナイトf6。白のポーン突進を許す展開でセンターを支配される形になる。一見、黒番不利に見えるオープニングだが、老人は手が止まる。


「……アレキンディフェンスか、ふむ」


 二〇世紀を代表する世界チャンピオン、アレクサンドル・アレキンが考案した、ポーンの弱体化を目指したオープニングパンチだ。ナイトがf6まできてしまうと、ポーンはe5に進まない限りテイクされてしまう。その結果、ポーンは一気に孤立する。


「色々勉強中でね。あんまやらない指し方もできるようにならないと」


 二〇〇ユーロがかかった対局で練習をする。挑発的な戦法だが、シシーは火種を探している。ならばいつもと同じように指していてはダメだと判断した。脳の使っていない部分を刺激するように、たまには違う散歩道を歩くように、自分自身に変化をつける。


「そういうのは、お金のかからないネットチェスで練習しないと。練習でできないことは実際の対局ではできないよ」


 老人が指導している隙に、アレキンディフェンスからのスカンジナビアンバリエーション。お互いに四手でポーンとナイトをひとつずつテイクし、波乱の幕開け。


「自分を追い込まないと、成長なんかないから。取り返しがつかない方が練習になる」


 自分から勝負に誘っておいてなんだが、退屈だな、とシシーは感じている。だいたいの流れは読める。まるで答えつきの算数問題をやっているような、頑張る気力が削がれる。


 一五手目。キャスリングで逃げた白のキングに対し、シシーはe4とe5にビショップを並べる。チェック。


(……ダブルビショップ。ここはルークを上げてチェックを切ってーー)


「って考えてるだろ。遅い。d8にルーク。エクスチェンジサクリファイスでチェックメイトだ」


 チェックを防ぐための盾として、白のルークを立てると、シシーの陣営最奥から黒のルークが狙いを定める。白ビショップでそれをテイクしても、g8のもうひとつの黒ルークがそれをテイクし、白番はなすすべなし。シシーの勝ちが確定する。


「最後までやる?」


 勝ったというのに、二〇〇ユーロを手にしたというのに、とてもつまらなそうにシシーはチェス盤を見つめる。大半が予定通り。特にこれといって衝撃を受けるようなものはなかった。デュッセルドルフの小旅行も、つまらないもので終わりそうだ。


「……リザインだよ」


 その老人の言葉を聞き、樽に置かれていた二〇〇ユーロをシシーは受け取る。が、「好きなだけ食べてくれ」と一〇〇ユーロ返金した。もうチェスに対して火が消えかかっている自分に気づき、どうでもよくなった。チェスに刺激を求めるのはやめよう。遊びとして、たまにやるくらいがちょうどいい。適当にここいらで稼いで、早めに帰ろう。なにか違うことを始めようか。全然やったことないけど、音楽とかいいかもしれない。遊びでやる程度。せっかくデュッセルドルフまで来た。観光して帰ろう。


「お嬢ちゃんはいつからチェスをやっているの?」


 去り際に老人から声をかけられ、イスから立ち上がったままシシーは返答する。返さなくてもいいが、もらった一〇〇ユーロぶんサービスしよう。


「ルール自体は昔から。だけどオープニングだディフェンスだなんだっていうのは、ここ二、三ヶ月かな」


 老人は深く深呼吸した。まだ始めてその程度で指せる実力を遥かに超えている。


「よくさ、つまらない人生を『無色透明』なんて言い方するだろ? オレに言わせれば逆だ。ずいぶんと汚らしい色で塗りつぶされて、自分色に染めようなんて気がおきない。ゴッホやゴーギャンが塗ってくれてたなら見栄えがいいんだが、ズブの素人が何度も塗り重ねたような濁りだ。じゃあね、長生きしなよ。こっちも適当に人生をこなすよ」


 シシーは踵を返し、出入り口のドアに向かう。今までも大半のことはうまくこなせてきた。スポーツも勉強も友人関係も。チェスはそうじゃないのかと期待していたが、やはり有象無象と一緒だ。どこか寂しそうな背中をしている。


 その背中を見、老人は微笑んだ。

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