第11話

 シシーはさらに顔を近づけて、囁くように提案する。


「なんだったらさ、もっとレートを上げよう。二〇〇からでどう?」


 老人は目を見開き、眼球は周囲を観察する。冷や水を浴びたように酔いが冷めていく。


「……対戦相手の実力もわからんというのに、最近の子供は随分と気前がいいんだねぇ。ビールがたくさん飲めるよ」


 もう勝った気でいるのか、ビールを飲み干す。するとすぐにウェイターが新しいものを持ってきて、樽の上のコースターに追加で書き込んで行く。もういらない、となったらコースターをグラスの上に乗せるのだ。ついでに、キャベツとリンゴのザワークラウトも頼む。


「どうせキミのお金だから、一緒に食べていいんだよ」


 高笑いする老人とは反対に、シシーは顎に手を当てて深く考え込んでいる。勢いよく対局を申し込んだわけだが、なにか煮え切らないことでもあるかのよう。しかし、原因はわかっていた。


「……ひとつ聞きたいんだけど、あんた強い?」


 ため息をつきながら、ぶしつけに問う。


「やっぱり止めるかい?」


 手際よくチェスの準備をしながら、老人は合間にビールをチビチビと飲む。どちらでもいいよ、と優しく諭してくる。言ったことをすぐ取り消すのは子供の特権、とでも言いたげだ。


 しかし、頭を振ってシシーは否定した。


「そうじゃない。ただ、弱い人とは指したくない。賭け事は好きなんだけど、最近、ぬるま湯に浸かっているみたいで燃えないんでね」


 最近、シシーの頭を悩ませているもの、それは『圧倒されるなにか』が足りていないこと。なにかがなにかはわからない。血が燃え上がるような、肌がビリビリと痺れるような感覚が、ここ最近ずっと感じ取れない。


「かつて、オレが初めて賭けチェスに興じたときは、頭がとろけそうなほどの興奮を覚えた。そんな感じでやってもらえる?」


 チェス自体は面白い。駆け引きから知識から対人のコミュニケーションとして、とても優秀だ。だがシシーはそんなものは求めていない。


 プロを目指すか? と訊かれたら、シシーは絶対にナインと答えるだろう。そもそも、チェスに明確にプロというものがあるわけではなく、大会の賞金や関連した収入でまかなえている人を、プロと呼べなくもない、という程度だ。ならなぜそこをシシーが目指さないかというと、『チェスはそこまで人生をかけるものか?』と、思ってしまう自分を知っているから。興奮はしたい、だが頂点を目指して頑張れるほど、ハマっていない。それに、こういったコッソリとやる裏のルールが好き。だった。


「ぬるま湯でいいじゃないの。体にいいよ? 浅瀬でパチャパチャやってれば危険もない。わざわざ自分から深みにハマりにくることもなかろうて」


 人生七〇年。長く生きたぶん、老人の言葉に重みがあるが、シシーには響かない。


「……そうか」

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