第3話
「?」
いきなり話の文脈に合わないことを若者が言い出し、男性はキョトンとした。
気にせず若者は続ける。
「とりあえずあとはイギリス、フランス、スペイン、アルメニアあたりの強豪ヨーロッパで合計五つ。他も色々回って最後はロシアだ」
ただの旅行にしては、些か不穏な空気が漂っている。まるで、その国を蹂躙してやる、とでも言いたげな不遜な表情。周囲の喧騒は依然として続いている中、この若者が纏う空気感は、異様で異質だった。
「……なにがしたい?」
深く深呼吸して、男性は重く尋ねる。ただ会話しているだけでも飲み込まれそうな、若者の内に秘められた『なにか』が息づいている気配がした。まだ完全には目を覚ましていないが、少しずつ漏れているような、危うさを感じている。
話し相手が警戒していることには一切、意に介さず、包み隠さず若者は本音を打ち明ける。
「チェスでさ、ギャンブルがしたいんだよ。賭けの対象が大きければ大きいほどいい。ネットでもチェスやるんだけどさ、息抜き程度にしかならない。相手の圧がない。やるなら対面が一番」
「んで、二〇〇ユーロを賭けて、お小遣い稼ぎか?」
先ほど没収されたお札を思い出し、男性は掘り下げて会話を続ける。決して安くない額ではあるが、目の前の相手は満足していないように思える。
「それもあるけど、賭けるものがあると、人は必死になる。負けていいなんて気持ちがなくなるから、一線を超えられる。石にかじりついてでも勝つっていう、その圧力がいい。ヒリヒリとした勝負がしたいだけ。オッサンもそうだろ?」
それこそが若者の願うもの。それが叶うのなら、結果手にした二〇〇ユーロはただの紙だ。リスクが高ければ高いほど、全身が研ぎ澄まされていくような感覚。
「賭けチェスは言うならば裏のチェス。まだ若い。真っ当に上を目指せ」
チェスは本来、娯楽であるべきもの。しかし、賭け事として捉えた後のチェスに閉塞感を男性は感じていた。ルールや戦術を必死になって覚えていた純粋な頃とは比べ物にならない、チェスに対する背徳の想い。負かされた相手で、なおかつ二〇〇ユーロも巻き上げられた相手ではあるが、自分と同じ道は歩ませないよう、進言をする。
それを、若者はバッサリと切り捨てる。
「言っただろ? 上に行きたいわけじゃない。背筋がゾクゾクするような、剣の鋒みたいな尖った緊張感が欲しい」
今一度、その感覚を反芻し、ゾクゾクと体を震わせる。もう戻れない。
その姿を見、男性は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「……一応、聞いといてやる。名前は?」
震えを止め、若者は視線を男性と合わせる。そして少し笑みを浮かべた。
「ビーネ。本名じゃないけど。オッサンの……名前はいいや。勝った相手は覚えない主義だから」
そう自身で言った途端、目の前の男性に興味がなくなった。もうこの人は自分を熱くさせることはできない。チェスの腕は悪くないんだけど、命がかかってない。それじゃ、つまらない。
「負けたことあんのか」
「当たり前だろ。負けたことないやついるかって」
事実。今までに何度も負けている。かつて、賭け金が足りなくてひどい目にあった。しかしそこは比較的温和なドイツ人。もしイタリアのシチリア島とかだったら、頭に風穴が空いてたかも、と考えると、恐ろしさと同時に興奮もする。
「……尋常じゃない強さだぞ……俺だってここいらじゃ名の通ったーー」
もう一度、片付けられたチェス盤を睨み、男性は肺から声を絞るように出す。また悔しさが滲んできた。ここまでいいようにやられたのはもう何年も記憶にない。
「そういうのいいから。やんないなら帰るわ。じゃあね」
もうこの人はいい。二度と会うこともないだろう。記憶から消してもいい。ミュンヘンはつまらなかった。
「待て」
「ん?」
イスから立ち上がり踵を返すと、男性に呼び止められ、若者は振り返る。侮蔑に似た目で、イスに座ったままの男性を見る。
男性はさらに札束を握りしめていた。
「五〇〇ある。もう一局だ」
札束を握る手が震えている。よほど大事なお金なのだろう。それを見て若者は破顔した。
「お前が負けたら四〇〇でいい。白番もくれてやる。ただし差額分、ひとつ質問させろ」
「さっき質問してたじゃん。なに?」
高待遇で迎えてくれる男性に、若者は再度興味を示す。質問? なんでもいいよ。どうしてこうなったか知りたい?
「お前、何ものだ?」
思ったよりも普通の質問だった。しかし範囲が広すぎて、どう答えていいものか。とりあえず帽子を取る。
「見てわかんない?」
これならわかるだろう。
「ただの女子高生だ」
抑えられていた、艶のある黒髪がさらりと揺れた。
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