第2話
「……リザインだ」
自身の負けを意味する言葉を放つと、財布からお札を抜き取り、若者に素早く手渡す。手渡して、頭を抱える。
同様に若者は素早く受け取り、一度男性に見せてから懐にしまった。
「まいどあり」
「くそっ!」
男性が怒りに任せてテーブルを叩きつける。ジョッキやチェス盤が一瞬宙に浮く。
それとは正反対に、若者はニヤリと笑いながら瓶のミュンへナーデュンケルをひと口飲む。ミュンヘン地方で昔から作られているラガービール。左手の甲で口元を拭うと、男性に顔を近づけて、幾分か小声で提案をする。
「再戦は受け付ける。だが賭け金は倍の四〇〇ユーロだ。それでもよければやるが、どうする?」
再度、右手で頬杖を突き、上目遣いで鋭い眼光を男性に向けた。もう一度やっても勝てると、強気の姿勢。勝負事はマインドゲーム。常に上から押し潰すように場を支配する。
「今はやらん。だが、次は勝つ。ミュンヘンにいる限り、俺はしつこいぞ」
視線を外し、男性は右肘をテーブルに置く。会話をしながらも先の対局の解析をする。悔しさもあるが、この時間がとても贅沢で好きだ。
「なら無理だ。もうすぐ出て行くから」
残ったミュンヘナーデュンケルを一気に飲み干し、若者はチェス盤を片づける。道具は全てこの店の物だ。ヨーロッパでは、チェス盤が無料で使用できるところが多くあり、よく見渡すと、店内でも他にプレーしている客もいる。大半は遊びでやっているだけであり、賭けても飲み代やご飯代といったところだろう。
「なに?」
勝ち逃げするつもりか、とでも言いたげに男性は若者を睨む。自分より才能のある若者は大勢いることはわかっている。自分は最強ではない。しかし、それでも悔しいものは悔しいのだ。
「次はハノーファー。できるだけ色んなとこで、色んな人とチェスを指したい。その次はフランクフルトとかだ」
だからミュンヘンは今日までだ、と若者はイスに深く腰かけた。
「なんのために? レート二八〇〇でも目指すのか?」
「冗談。目指すんだったらロシアにでも武者修行行ってるよ。まぁ、ドイツも強いけどね」
チェスの世界では、FIDEという国際チェス連盟があり、公式戦での勝ち負けでレートが設定されている。これは強さの指標のようなもので、もちろん数字が高ければ高いほど強い。二八〇〇は最高クラスで、世界でも数えるほどしかいない領域だ。
「ならなぜだ? 賭けチェスに足を踏み入れたら、ただ楽しく趣味で、とはもういかんぞ」
声を荒げて、しかし諭すように男性は若者に質問する。賭けチェスは、額によっては違法な賭博と認定されてもおかしくはない。悔しさとは別に、その若さで道を踏み外すな、という説教にも似ていた。
「まずはドイツだ」
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