血より水より深い愛
小林岳斗
第1話 雨の中で
暑さが猛威を振るう、二〇二三年八月。
先日、医療が大きく進歩して、極めて珍しいかつ非現実的な病の治療薬の開発に成功し、一際世間を賑わせた。
ニュースを知った時、とても嬉しい、誇らしいことだと感じた。同時に、正直に言って悔しくもあった。でも、前向きに捉えようと思う。
かつての俺は、人間関係にトラブルがあって、たくさん悩んだ。いや、本当は、もっと前からヘタクソな人付き合いをしていたのだろう。──けれど、そんな自分はもう終わりだ。
一年前の高二の夏、俺は、平凡だった頃からは考えられないほどの数々の体験をして、大きな学びを得た。葛藤に苦しむこともあったが、乗り越えることも出来た。
学校の授業では教えてくれないけれど、学校が無ければ始まることすらなかった。
俺は、俺にそんな勉強のチャンスと素敵な夏をくれた彼女のように強く、前を向いていく。
雨が降り出しそうな雲行きの、二〇二二年六月最終日。
寝坊した俺は、慌てて身支度を済ませると早歩きで学校へ向かった。そうは言っても、走って朝から体力を消耗する必要はない。
俺には、自分を含めて二人しか知らない遅刻しそうな時に使う登校ルート、すなわち近道があるのだ。
もう一人は、俺の少し前を歩く同じクラスの女子。苗字しか知らないが
シンプルな黒い長髪しか印象にないほどには目立たない、寡黙な生徒だが、珍しく今日はそんな彼女を見つめてしまう。
「なんだ? あれ?」
萩野は、ピンクの背景にそれよりも濃いピンクのハートを彩った小ぶりかつラブリーな傘を提げていた。
なぜ、そんな園児から小学校低学年までが対象のような傘を持ち歩いているのか。実は子どもらしい物が好みなのか、他に全然違う理由があるのか。無口な萩野からは考えられない光景に思わず目が離せなくなる。
直後、彼女は左角を曲がって近づいてきた女子二人に「おはよう」と声を掛けられた。それからもやけに明るそうに話す二人は、おそらく、クラスメイトの
二人と対照的な萩野は間もないうちに手を引っ張られるようにして、俺の視界から消えた。
「三人って友達だったのか」
さすがにぼっちではないとは思っていたが、あの子が誰かと仲良くしている場面を新鮮に感じる。それも、相手がどちらかと言えば強気なタイプの二人と知って少し驚いた。
一瞬、萩野がこちらを振り返ったが、まあ俺のことではないだろう。
近道とはいえのんびりと歩いた俺は、遅刻のギリ二分前に、自分が所属する二年四組の教室へ入った。
「おはよ、
「んだよ〜、遅刻するか期待してたのに」
「おはよ。期待すんなって」
男子達とたわいもないやり取りをしながら席に着き、右隣の男子とも挨拶を交わす。
俺は、学校で話せる男子が比較的多い方だと思う。しかし、それは、友達が多いというより、浅く広い付き合いをしているから。昼飯や下校を共にする特定のメンツはいない。基本、バラバラで、一人の日もある。分け隔てなく接することがモットーだが、その為、誰と仲良しかと問われたら答えるまでに時間を要する。
女子においては話す相手は少ない。友達がいないのは勿論、恋愛経験なんて以てのほかだ。俺も一般の男子ではあるので女性のこと自体は「可愛いな」って思うしお恥ずかしいことに時にはいやらしい想像をしないこともないけど、今の所は異性を好きになった記憶もない。
思えば昔からそんな人付き合いをしている気がするが、これといった困り事はなかった。深く関わらないお陰でいじめや喧嘩に遭うこともないので、平和な学校生活を送れて、特に不満を感じないのだ。
そんなありきたりな日常は、退屈な授業もいよいよ昼休みまで迫ってきた頃に現れた生徒指導の先生によって打ち砕かれ、さっき降り出した雨とともに流れていった。
真面目そうな女性教員は、片手にある奇妙な
「この傘が、二年トイレ前の手洗い場に放置されていましたが、心当たりのある生徒はいませんか? 順番に二年生の教室を回って呼び掛けていて、ここが最後です」
それは、専用のポリ袋に収まった女児向けのピンクの傘で、全体に泥が付着して汚れている。
「何この恥ずかしい傘(笑)」
「しかも、きったねー」
「手を洗う時に邪魔だった」
クラスから罵る声が飛び交う。無理もない。かわいい子ぶったピンク傘なのに泥まみれ。マイナス同士でギャップが凄まじくて、引かない方がおかしいだろう。どうしたら、こんな正反対のものが組み合わさるのか。
しかも、それは、はっきりと俺に見覚えがある傘でもあった。
持ち主の萩野に目をやると、受け取りに行くなど以てのほか、顔を俯かせ、分かりづらいがよく見ると体を小さく震わせている。
心当たりのある俺は挙手をして立ち上がる。
「すみません。それ、俺のです」
瞬間、教室が驚きと笑いの声で包まれた。予想通りの反応だ。
勿論、俺のではなく萩野の傘だが、取りに行けない萩野を見兼ねて放課後まで預かるつもりで嘘を吐いた。
教壇で生徒指導員からそれを受け取ると後で職員室に来るよう無感情の小声で告げられ、少し背筋が冷える。
席に戻る途中、クラスの奴らが色々と言ってくる。
「マジでこれ、お前のなの?(笑)」
「は? 俺、ピンクとかハート大好きだし」
「やっば! 笑うしかないわ〜」
狙い通り、萩野を助けるついでに教室の空気を盛り上げたので、この一瞬でクラスと更に一体になれた気がする。きっと、彼女も自分が疑われる可能性が弱まって少しホッとしたことだろう。学校で中立の立場に在る自分だからこそ出来る行動だ。
なんだか、良いことをした気分で達成感がある。
授業後、指示された通りに職員室へ行くと、生徒指導員から怪訝な顔で質問攻めからのお説教を受けたので「傘を洗っていたら授業に遅刻しそうになって放置した」と最も違和感のない嘘を作り、とにかく謝っておいた。
職員室を出ると、例の傘(以降、『
「なんでこんなに汚れるんだよ……!」
しかし、どうやらそんなに甘くはなかった。
昼飯の時間を確保しようと急ぐも、パンを半分齧った所で休み時間は終わった。泥が傘の中までびっしりと付いていたのだ。それは、まるで、意図的にそうしたかのような。
おい萩野め……。こんなことなら無理に助けなくてもよかったんだぞ。
ホームルームが終わると、部活や委員会に出席、速やかに帰宅、しばらく教室でくつろぐなど、各々が自分の放課後を過ごし始める。雨は休むことなく降り続ける。
傘を返す為、萩野と二人きりになれるタイミングを見計らって先に俺が教室を出てから声を掛ける──予定でいたが、萩野が予想以上に早く出たので、その直後に俺も出て、
そうしている内に昇降口まで来ると、萩野は当たり前のように外履きに替えて屋外を歩き出した。まるで雨など降っていない天気の中、下校するように。
「おい、嘘だろ?」
待て待て。小雨なんかじゃない、れっきとした雨だぞ? パッと見、体力があるとは思えないし絶対に風邪を引くぞ??
確かに、萩野の傘を勝手に自分の物だと嘘は吐いた。それでも、ここは、俺の所へ来るか、俺が行くまで待つものではないのか。
俺は急いで外履きに替え、近くの掃除用ロッカーから一時的に隠した真っピンク傘を取り出すと、自分の黒い傘を広げて萩野を追いかける。
「待って……! この傘、使って?」
萩野の頭上に黒い傘をかけながら言うと、彼女がこちらに体を振り向かせる。
この時、俺は、萩野の姿を初めてしっかりと目にした。
ストレートに伸びた黒い長髪と白い肌、平均的な背丈にしては少し線の細い体付きは冷やかな印象を受け、教室で見かける彼女のキャラに当てはまるように思う。しかし、よく見ると、余白の少ない顔には澄んだ大きな瞳が彩られ、彼女のどこかから仄かに甘い香りを感じる。この年頃の女子は良い匂いがすると聞いたことはあるが、本当だったのか。
半袖の混じり気のない白のトップスに襟と同じ紺のスカーフをリボンの形に結び、こちらも紺色で合わせたプリーツスカートのセーラー服を着こなしている。夏仕様で、涼しさを演出している。
萩野は、清楚で愛らしい美少女といえた。
そんな萩野は、小さめの手で俺の袖をくいっと引っ張りながら口を開く。
「……の、傘はどうするの?」
風鈴を感じさせる、繊細で清らかな音が鳴った。
可愛らしい容姿と声ではあるが、表情は、この梅雨のように曇りがかっていた。
今の聞き方は、つまりは俺の名前が出てこないのだろう。
「
真っピンク傘を持った手を萩野の前で掲げて伝える。
すると、萩野は僅かに間を空けて、
「──恥ずかしくないの?」
「じゃあ、どうして持ってきたの?」
質問に質問で返す彼女に「質問」という名のツッコミを入れざるを得なかった。
俺は萩野の返答を待たず、半ば強引に黒の傘を持たせる。女子の萩野には少し大きすぎるが、黒い生地は彼女の物静かな容姿と性格によく似合う。
「綺麗になってる……」
さっきまで汚れていた傘に目をやって、ふと気づいたように萩野が呟く。
この傘をチョイスした理由が気になったが、特に答える気配が無いので謎のままにしておく。
「ついでだから、チャチャッと洗い流しといたけど。どうして、手洗い場なんかに放置したんだ?」
「あ…………、洗っていたら、時間が来ちゃって……授業の」
「えぇー……」
辿々しい口調も気になるが、それ以上に、まさか自分が生徒指導員にその場しのぎで言った嘘とほぼ同じ回答になるとは思わず、しばらく言葉に詰まる。
「それで、昼まで置きっぱなしって……天然だな」
「天然……?」
萩野は自覚がなさそうに
時間がなくてももっと別の場所に移動すればいいし、次の休み時間に再開すれば洗い終えることだって出来る。そもそも、登校時に持ち歩いただけであんな汚れ方にはそうそうならない。
突っ込み所が多すぎて、呆れるまではいかなくとも、一瞬、ため息が零れた。
「とにかく、あの状態で放置されると、不衛生だし手を洗いたい人が困るから、次回は気をつけなよ?」
「……ごめんなさい」
彼女は僅かに頭を俯かせて言った。俺は真っピンク傘を頭上に開く。
「ちっちゃ!」
「この傘、気に入ったんだね」
「おお、勘違いするな? 俺だって、好きで交換するんじゃないからな?」
「違うの?」
「違うわ」
"特殊な趣味を持つ男"って間に受けないでくれ。
「今、クラスの連中は、コレが俺の傘だと思い込んでいるから、その嘘を突き通すためにしばらく交換するんだよ。萩野の傘だってこと、知られたくないんだろ?」
「あの時、嘘を吐いたのって、そういうこと?」
「まあね。真っピンク傘欲しさに嘘を吐いたりなんかしないよ」
「ありがとう。……まっぴんくあんぶれら?」
「忘れて」
すると、突然、萩野は額に手を当てて眉を顰めた。
まさか、自分の傘を勝手に命名されたことに気づいて呆れたか……? 恐る恐る訊ねる。
「──どうしたの?」
「ちょっと、頭が痛くなって」
「えっ、大丈夫? 少し座れる場所を探す?」
「大したことはないから平気。たぶん、天気の関係かも」
「そっか。うん。それならよかった」
頭痛が軽くて、あと、心の中で傘にあだ名を付けたことがバレたんじゃなくて、よかった。
雨の日に頭痛になりやすい人がいるとは話に聞くから、きっと萩野もその体質なのだろう。
そんな時、萩野がある提案を持ち出した。
「梅雨の間、私達の登下校は、二人しか通らない"あのルート"にしない? 私の傘を差しても他の生徒に見られる確率は格段に下がるし」
「俺のこと、気づいていたのか」
「たまに、後ろから勢いよく走ってくる姿が印象強くて」
「恥ずいな」
普段は普通に歩いても早歩きでも何とかなる遅刻防止ルートだが、稀に酷い寝坊をやらかした時にはダッシュで向かっているのだ。
「ま、いいや。よし、乗った!」
こうして、傘を交換した俺と萩野は、梅雨限定で、俺達しか使わない通学路(以降、『
ということは、流れで決めてしまったけれど、しばらくは女子と二人だけで行き帰り??
基本、男子と学校で連む程度で、女子と二人で会話する機会すらほとんどない俺にとって、それは人生初の体験だ。
それも、目立ちすぎる傘を持った、クラスで目立たない女子と。
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