第2話 忌み子
イアスとしての記憶。それは幼児にしてもかなり不確かなものだった。正確ではないが、一番最初の記憶は誰かの叫びだった。生きるのを拒絶するような暗く悲痛な叫びが上がり、そして直ぐに静かになった。それと同時に容赦なく自分の周囲から温もりが失われていった。あれは、明らかな喪失だった。
おそらく、命の。
幼すぎてイアスには分かっていなかったが、今の自分ならば理解出来る。ハーレムの女達の何気ない発言からも、己の生い立ちがどういったものであるか、察することが出来たからだ。
例え、女達の憐れみと優しさ故に隠されていたとしても。
「忌み子だと…その様な者が我のハーレムを穢したと申すか!」
ぬらりと光る剣の先が突き付けられ、俺は仕方なく顔を上げた。命の危機が迫る中、怯えも震えもしない俺を、皇帝は訝しげに睥睨する。
「下女の見習いのような事をやっておりました。陛下のハーレムを穢すなどとんでもない事です」
普段、皇帝がハーレムへ渡る時は、俺は下女の服のようなものを着て、ハーレムの片隅に隠れていた。万々一にも見付かることのないように、ガクガク震えながら女達に庇われて過ごしていた訳だ。
幸いにも、俺の容姿は黒髪黒眼であり、金色のハーレムに於いては異物も異物だが、皇帝の金髪美女好き嗜好からは外れている。突発事態で下女として視界に入っても、手を出される心配のない筈だった。
筈だったのだが…
「やはり、お前のその顔は…似ておる。あの女…あの女に…」
剣を下げぬまま、皇帝はブツブツと言葉を零している。それを見上げながら、俺は黙って皇帝を観察していた。
この男、イアスの記憶が正しければ確か三十代だったはずだ。シアーカ帝国の十番目の王子として生まれ、十代の頃から苛烈で傲慢、残虐性の高い性格をしていて、二十歳で先代皇帝の亡き後を継いだらしい。まぁ、予想通り、普通の継ぎ方ではなく、秘密裏に手に掛けたと専らの噂だった。しかし、先代皇帝崩御のふれと同時に異母兄弟を全て始末した為に、コイツがスンナリ皇帝の椅子に座った。こんなの計画的じゃなきゃ出来ない相談だ。
日本の歴史で云うところの豊臣秀吉の中国大返しのようなもの。余りに準備万端過ぎると「お前、事前に計画してたろ!」と突っ込まれ疑われるやつ…
「陛下!この子を、イアスを憐れと思し召すなら、どうかどうか、っ!」
皇帝の意識が逸れた間に、ダーシャが前に出て俺を庇おうとしたが、その淀んだ暗い視線に怯む。
無理もない。先ほどまでの激昂した態度の方がまだ理解出来るってものだ。切っ先を突きつけ俺を睥睨しながら、こちらの存在を透過したように視線を合わせずブツブツ呟く様は、異様さが際立つ。
「ダーシャ…、貴様は此奴を産んだ女を知っているな…」
「陛下…そ、それは……」
「言え!言わぬなら、此奴と共に貴様も斬って捨てる!」
皇帝の叫びに似た宣言に、ダーシャは震えながらも平伏した。そこには恐れよりも躊躇いが大きいのは、ダーシャが尚も俺を庇おうとしているからだろう。俺は、実の子でもない幼児を身を呈して守ろうとするダーシャに、ウッカリ泣きそうになる。
誇り高く健気な上に金髪豊満美女とか、最高かよ…
「ダーシャの唇を穢す必要は御座いません。僕の母は奴隷出身であったらしく、正確な名は最後まで持っておりませんでした。ですが、ハーレムの女達からはニールと呼ばれておりました」
ダーシャの代わりに俺が自ら口火を切った。するとダーシャはハッとしたように此方を見る。おそらく、俺自身が母親の存在や名について正確に知っているとは思ってもいなかったのだろう。
勿論、ダーシャは俺に対し慎重に隠していたし、一言も漏らさなかったが、ハーレムには大雑把な女達もいる。幼児には理解出来ないと考えているのか、女同士の話の中でポロッと零していたりするのだ。確かに、幼児の俺自身はよく分かっていなかった。しかし、記憶にはしっかりと残っていた。
子供というのは、案外よく見聞きしているものである。直ぐには分からなくとも、何れ分かるようになる。幼児だからといって、油断大敵なのだ。
「……ニール、ふっ、ハハハ、そうかそうか…やはりあの女!あの女ぁ!然り!然り!死してなお、我を裏切るか!あの女ぁ?!」
ダーシャへ意識が逸れている間に皇帝に変化が起きていた。どうやら、俺の実母に心当たりがあったらしく、テンションが異常に上がっている。いや、これはテンション上げ上げと表現していいのか?
予想以上に実父はヤバイやつだったらしい。
「あの女!忌み子を産んでいたとはなぁ!」
そこには妄執に取り付かれているらしき男の姿があった。
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