◇3「祭りと海」


 七月から八月。その間、私自身に変化があった。悪い変化だ。私は、段々と学校を休みがちになっていた。インターネットを夜遅くまでして、翌朝起きるのが億劫になる。学校に行っても楽しいことがない。毎日学校に行くまでの足取りがどんどん重くなっていく。それで私は時々学校をずる休みするようになった。自堕落に一直線な生活だった。

 お母さんはそれに怒る日はあっても、真っ向から止めることは無かった。お父さんが「好きにさせろ」という方針を建てていて、それに従っていたからだ。今思えば、それに甘え過ぎてたところはあったように思う。八月にもなると、私は半分引きこもりになっていた(このとき、私の儀式は第一段階を越える)。

 みんなが学校に行っていて、私だけが部屋に居る……その時間、私は自分が宇宙を漂っているような浮遊感に囚われた。部屋で過ぎてく一秒ごとに、みんなが生きてる世界から切り離されていく。そして、その感覚を不快に感じたまま、段々と慣れてしまっていく……それはとても恐ろしい慣れだった。だが、同時にその変化に安心するような、気持ちの悪い感覚もあった。

 学校に行けなかった日、私は決まって海を見に行った。現実との接点をギリギリ保つために。私はか弱かったが、それでも自分が堕ちていく現実に僅かな抵抗の意志もあった。

 海に向かうのは日が完全に沈んでからだった。昼間は海水浴の客がちらほらいても、夜には人気がすっかりなくなる。海は高校と真逆の方向にあって、万が一にもクラスメイトと会う心配も無かった。青く深い夜の色を写した海。テトラポッドの上で一定のリズムで繰り返す潮騒の音を聞く。そうしていると、「この海になりたい」という言葉が私の中で強くなっていった。いつまでも綺麗で、何者にも侵されない、この透き通った海になりたい。学校を休んだ罪悪感、上手くいかない気持ちがすべて、美化された希死念慮に還元されていった。

 波打ち際に座って、何時間も海を見ている日もあった。逆になんだか気が乗らなくて、すぐに帰る日もあった。そういう日は帰りにコンビニでアイスを買って、両親の分も冷凍庫に入れておいた。両親に苦労をかけてるだろうということだけ、私には気がかりだった。


【二度と曲が作れないまま私は死んでいくのだろうか】〈Mitsuki.U [2015.8.1 7:27]〉


 八月に入って、私はユウさんとの交流の機会も段々と減らしていった。

 その時期、ユウさんは精神状態がやや不安定な感じだった。「曲が作れない」と、ツイッターでよくぼやいていた。実際に少女終末症候群を発表してから、ユウさんは曲を一曲も投稿していなかった。以前はもう少しコンスタントに投稿していたため、ユウさんは曲が作れないことに焦りを感じていたようだった。


(少女終末症候群を発表する以前のユウさんの曲について、今の私は語り得ない。それは私の記憶の中だけに留められ、記録としてはどこにも残っていない)。


 ユウさんが曲を作れなくなった時期は、私と交流を始めた時期とも重なった。もしかしたら私がユウさんに話しかけて、時間を奪ってることがユウさんが曲が作れない原因かもしれないと私は気に病んだ。それで、私はユウさんに話しかけるのを躊躇するようになった。

 ユウさんの方でも、どこか私を避けているような風にも感じられた。もう私が猫のお尻の画像をツイッターに上げても、ユウさんはいいねをしてくれなくなっていた。


【私は追憶の中で生きていく。この洞の街でそう決めたはずだった。誰かがそれを壊している。街の内側に怪獣が居る】〈Mitsuki.U [2015.8.3 5:01]〉

【過去を諦めらめきれずにやり直したいと思う。それが人の自然な在り方じゃないのだろうか。追憶はそれに抗うための機構だろうか。受け入れてしまうための機構だろうか】〈Mitsuki.U [2015.8.6 1:11]〉


 ユウさんのツイートには、その時期よく追憶という言葉が出てきた。前者のツイートで言われてる「誰か」が、私は自分のことなんじゃないかと思った。曲を作れない原因が自分だと責められてるように感じられて、胸が痛かった。後者のツイートは、意味がよく分からなかった。


 学校を休みがちになって、意外にも交流が増えた人物もいた。奏子かなこだ。

 奏子は隣のクラスからでも、私が休みがちなのを察してくれたようで、前より頻繁に連絡をくれるようになった。時々、休みの日には家に遊びに来るようにもなった。「昨日も休んだの?」「うん。気分悪くて」「無理しないでね」奏子はいつでも優しかった。いつぶりかに奏子とちゃんと話して、私は奏子とのかつての関係を思い出すようになっていた。

 中学校の頃……私と奏子は仲良しだった。ほとんど親友同士と言っても良かった。私たちには、一つの思い出があった。それは、奏子がまだギリギリべちょべちょに陰気だった頃の、夏の体育祭で出来た思い出だった。体育祭は私たちのような陰気で運動も苦手な少女にとって、人生ゲームの赤い悪い事が起こるマスみたいな行事だった。中学三年生のその年、クラスでは「ポスター係」なるものを選ぶ必要があった。両手を広げたぐらいの大きなポスターに絵を描く、みんながやりたがらない係だ。その頃、私と奏子は「目が妙にデカくて顔が全部左向きの女の子」をノートに描いては、見せ合って休み時間を潰すタイプの少女だった。なので、そのポスターは私たちに任された。正確には押し付けられた。

 私たちは、「うっしーが人物担当ね。私が人以外を描くから」「かったりー」などの会話をして、作業に取り掛かった。油性の絵の具でベタベタになりながら、二人で毎日放課後にまで残って大きなポスターを完成させた。その作業は実際死ぬほどだるかったが、初めてみると意外と楽しくもあった。ポスターが完成する。クラス全員の「左向き」の顔と、「絆」みたいなありがちなスローガンが青空に描かれた、本当に無意味なポスターだった。だけど、それはクラスのみんなから、意外なほど評判が良かった。男子の「竹本」と「樋口」と「山口」の顔の描き分けが出来てない話で、ひとしきり笑い声が上がった。そのクラスみんなで笑いあった時間は、私の短い人生の中で、一瞬の栄華の時のようだった。その時間の中でだけ、私たちが世界の中心になったように感じられた。

 私はある日、部屋に遊びに来た奏子にその話をした。

「あー、そんなこともあったね」

 奏子はそう言って笑った。それは、懐かしむような笑いだった。

 私はその笑顔に、なにか違和感のようなものを感じ取った。私の中にある思い出と、奏子の中にある思い出は、何か違うものなんじゃないかと、訝しむような気持ちが湧き上がった。

 私は、奏子と自分が、その文化祭の思い出を介して繋がっているように感じていた。だけど、それはもしかして、奏子にとって別にどうでもいい記憶だったんじゃないか。どうでもいい記憶になってしまったんじゃないか。知らない他人の記憶みたいに……そりゃあそうだ。今こうやって、奏子は前までと全然違う人間になった。沢山の人に囲まれて、豊かな人間関係の中で、健全な人格を育んでいる。オシャレで快活で誰からも好かれる人間になってる。気分が良いですか? 私にはあなたが前よりずっと楽しく生きてるみたいに見えるよ。あなたが何も考えず生きてる虫みたいに見えるよ。私は絶えず苦しいよ。毎日あなたのことが嫌いになっていくのに。あなたはそれに気付いていないんでしょ。私は、そのようなことを、実際に奏子に言った。


 言ってしまった。


 ────奏子が傷ついたような、泣き出しそうな顔をする。奏子は、震える唇で私に言う。

 うっしーさ、二人になると昔はこうだったって話しかしないよね。

 私はいま頑張って生きてるよ。でもうっしーはそうやって、過去の私しか見てくれない。それって全然いいことじゃないと思う。私、いまのうっしーのことちょっと嫌だよ。私とも誰ともまっすぐ向き合ってないのに、分かったようなことばっかり言うから。


「そうやって他人のこと分かった気になるの、悪い癖だよ」


 それだけ言って、奏子は帰って行った。その日、私は完全な独りきりになった。私にはただ、全てを後悔することしか出来そうになかった。


【昔の事ばかり思い出す。それの何が悪い】〈Mitsuki.U [2015.8.16 23:59]〉


 奇しくもその晩のユウさんのツイートは、私の気持ちと重なった。だから私はそれをスクショして保存していた(儀式は滞りなく進行している。次の段階が始まる)。


 奏子にも見放されて、私はいよいよ学校に行かなくなった。それからの時間の進みは早かった。

 目が覚めて、夕方の時がある。朝の時も夜の時もある。ぐちゃぐちゃの生活は、時間の波を漂う果てのない航海のようだった。陽がくれた頃に起きて、窓の外が夜の青い色になっている。その青色をじっと見つめていると、ここがまるで海の底ように感じられることがあった。本当の海には行かなくなった。私にはもう、外に出ることさえ苦しくて出来なくなっていたからだ。

 部屋の中では似たような時間が繰り返されていく。お母さんがご飯を作って部屋に持ってきてくれる。学校に行くように言ってくる。それにむしゃくしゃして、たまに怒鳴りつけてしまう。お母さんが部屋から出て行くと、子供みたいにみっともなく泣く。沈んでいく気持ちを他人にぶつけて、また傷ついて。私は絶望のスパイラルに陥っていた。


【もう無理】〈しおちゃん[2015.8.27 17:10]〉

【やっぱ死にたい】〈しおちゃん[2015.8.27 17:12]〉

 

 ツイッターでもこんなツイートばかりして、ユウさんによく叱られた。死ぬなんて言うなと、いつも諭された。私はそれにもやっぱり反発した。「止めないでよ」と意固地になって言った。実際に死ぬことは無くても、そんなやりとりを何度も繰り返した。そのうち段々とユウさんが私を止めることも無くなっていった。ユウさんは私とみるみる疎遠になっていった。こんなにも簡単に人の心の距離は離れていくんだなと知った。


【やはり私は、あの子に近付くべきじゃなかったのかもしれない】

〈Mitsuki.U [2015.9.1 :59]〉


 ツイートを見たとき、これは絶対に、私のことだと思った。だからスクショをした。悲しくて嫌な気分だった。この日以降、私があの人のツイートをスクショすることも無くなった。


 九月の初め。夏がほとんど終わりつつある頃。私の町では毎年お祭りが開催された。その年の豊穣を祈るタイプの、よくある祭りだ。

 九月十三日。日曜日。その日、私は夕方に目が覚めた。外では太鼓や笛の音がしていて、その音で初めて外でお祭りをしていることに気が付いた。

 お祭りには苦い思い出があった。小学校の間まで、私の住んでた地域では祭りの出し物に強制参加するルールがあった。笛、太鼓に小太鼓、神輿や獅子舞踊り。どれか一つを練習して、祭り本番で披露する決まりがあった。私はカンタンで楽そうだからと小太鼓にした。結果を先に言うと、全然カンタンでも楽でもなかった。

 私はその頃から致命的に音楽のセンスが無かった。小太鼓のいくつかある曲のうち、六年生になっても一曲しか覚えられなかった。普通の子は四曲も五曲も叩けるようになるのに、私だけが同じ曲しか叩けなかった。もしかしたらこの経験がコンプレックスになって、後に音楽が苦手になったところもあったかもしれない。学校が終わって、祭りの練習が始まると、私は公民館の隅の方でいつまで経っても一つの曲を叩き続けた。トン、トン、カカカ、と単調なリズムで。

 本番の日もやることは変わらない。その曲を叩く時間が一日中続くだけ。体力的にも精神的にもキツイ時間が続く。同じことを何度も繰り返す。何の意味のないリズムを。苦しいだけの時間を。

 外からの太鼓の音を聞いて、それを思い出した。頭の中であの太鼓のリズムが流れ出す。トン、トン、カカカ。私は窓の外を見つめている。窓の外は、真っ黒い闇の色をしていた。今のこの人生は、あの小太鼓を叩いてた時間と何も変わらないような気がした。

 そのとき、家のインターホンが鳴った。お母さんが玄関に出る音がする。話し声がして、誰かが玄関から家に入って来る。二階の私の部屋に向かって、足音が上がって来る。

「うっしー」

 それは奏子の声だった。前に私が酷いことを言って別れてから、一月ぶりくらいに聞く声だった。優しくて、少し無理してるような明るい声色だった。

「久しぶり。たこ焼き買ってきたよ。一緒に食べよ」

 私はドアを見つめる。ドアの向こうに居る奏子を見つめる。窓の外から太鼓の音が聞こえる。そのとき私はなぜか、ドアの向こうに居るのが、小学生の頃の小さかった奏子のように錯覚した。

 太鼓の練習は、地区が同じだから奏子も一緒に参加していた。私は練習が辛くなったら、すぐ逃げ出していた。こっそり逃げても大人にはバレなかった。だけど、一緒に練習していた奏子だけはいつも気付いて、追いかけて来た。私はそれを思い出す。そのとき、奏子はどう思っていただろう。私はどう思っていただろう。

「入って良い?」

 返事が出来なかった。私は焦っていた。私が自分の手で跳ねのけた奏子が、また私のもとに戻ってきてくれた。それは嬉しかった。だけど、それと同じくらいもう奏子に会いたくなかった。奏子に会えば、私はまた自分の現実と向き合わなければいけない。奏子に酷いことを言ってしまった現実、私を置いて時間が進んで行ってる現実、私がいつかこの部屋を出て、またあの心が擦り切れる日々に戻らなきゃいけない現実……。私は弱かった。弱くて卑怯者だった。

 そのとき、私は世界のことも自分の事も、全部が嫌になるような真っ黒い感覚に飲み込まれた。奏子は私の返事を待たずにドアノブを回す。ドアにカギはかかってなかった。

 丁度、そのとき扉の対角線上の窓……私の背後で花火が上がった。私は振り返る。窓は、花火の青い光で染まって見えた。まるで陽の中で煌めくあの夏の海のようだと思った。


 ──太鼓の練習から逃げた私を、奏子が追いかけてくる。私はそれが怖かった。どこまでも私を見捨ててくれないのが。いつか奏子が私に失望してしまう……私を追いかけて来なくなるその日が。その予感された未来が。

 

 扉がゆっくりと開く。私は窓を開ける。窓の向こうには、夜の闇が広がっていた。私はその真っ暗闇に向かって、飛び込んだ。奏子が叫ぶ。私は落ちていく。落ちるために。死ぬために。私が、あの、夏の海になるために。

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