5


 ジョンの母親が入れ替わったのはつい数ヶ月まえのことである。


 腹を痛めて息子のジョンを産んだ美しい母親は病室で息子だけに看取られて逝った。醜い父親は彼女には興味がなかった。故に、いやに香水のにおいをぷんぷんとさせた、派手で若い女を母親と呼べと命じられるまでそう時間は掛からなかった。其の若い女は不信心で、そしてジョンを愛さなかった。

 

 機械ネズミは言った――神は心の中の不滅をお赦しになったのだと。ジョンは目を伏せ、小さく声を零した。

 

「じゃあ、ぼくが生きている限り、ママはずっといきているのかしら。」

 

 窓の外はしんしんと雪が降っていた。大人のひとでも膝辺りまで届くほどに降り積もった雪は、次第に足跡を付けなくなった。道行くひとたちが、立ち往生するのを見越して家の中へ立て籠もったのだ。


 お陰で外は真の銀世界となり、音の吸い込まれる静かな其の世界は自分たちが独りきりになったような錯覚を覚えさせた。但し、遠くのメイン・ストリートの車は喧しさを忘れることが無く、その音が心地よい孤独気分から人びとを現実に引きずり戻した。


 ジョンが此の古物店へ身を寄せて、間もなく一週間が経とうとしている。機械ネズミは女こどもに優しくするという紳士の信条を確かに心得ており、ジョンを無理やりに家へ戻そうとはしなかった。何があったのかについても厳しく問いただそうともしなかった。


 其の当の機械ネズミは小さな手で小さな布切れを持って、アンティークものの鏡を磨いていた。いつの時代のもので、誰がつくり誰が使っていたのかもわからない装飾の凝った鏡を、ちまちまと磨くその姿は実に滑稽である。其の愉快な機械ネズミの様子がジョンの鬱気分を和らげ、そして身の上話をしたくなるような気分にさせた。


 ジョンはぽつり、と呟いた。

「いつかはね……帰らなくちゃいけないことはわかっているんだ。」

 

 機械ネズミは布切れを左右に動かすのを止め、ジョンの方へ振り返った。耳をひくひくとさせ、ジョンの言葉に耳を欹てているのが見て取れる。ジョンは床に転がった古書の紙を弄びながら、ぽつり、ぽつりと小さく言葉を落とした。

 

「でも、あのひとたちはぼくを怒鳴りつけて……ひどく打つんだ。ご飯を抜かれることもある。……あんなひとたちに囲まれると、僕の心はどんどん醜くなって――ママのところへ行けなくなってしまうような気がするんだ。それはとても……恐ろしいことなんだ。」

 

「……ようやく話してくれたね、少年。辛かったろう。」


 穏やかな機械ネズミの声音にジョンの胸の奥がぎゅうと締め付けられた。ジョンは青白い顔をして唇をわななかせ、喉の奥で閊えた声を押し出した。

 

「ぼくはどうすればいいの?あのカフェのおばさんが言っていたみたいに、ぼくがだから、パパやあの女のひとはぼくをいじめるの?」

 

 嗚咽が漏れるのを、ジョンは一心に堪えた。愛していた優しい母親は唯一の味方でもあったのだ。父親は酒癖の悪く、苛立つとひとを拳で殴りつけるところがあった。


 母親のいない今、標的はジョンひとりきりになった。若い女は父親と一緒になって、ジョンを虐げた。マリファナ煙草をすぱすぱ吹かせ、きいきい甲高い声でジョンを罵り、そしてゲラゲラと嗤った。

 

 涙を堪え、唇を強く噛みしめる幼子の姿を見て、イーサンは心を痛めた。頼れる者を失い、死を望んで生きる幼い少年は、自ら「本当の死」へ踏み出そうとしている。赤の他人である自分に出来ることは少ないが――其れでも幼い彼の助けになりたかった。

 

 機械ネズミは言った。

「より良い方法を探そうではないか。君はまだ小さい。私たち大人を頼りなさい。」

 

「ネズミなのに大人って。変なの!」

 

 ごもっともなジョンの言葉に、機械ネズミは機械音声で「ふふふ」と笑った。 

 

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