第5話 趣味の世界
その奥さんは、それからも。鶴岡の運転するバスに乗っていた。いつも同じ時間に乗り込んできて、同じ場所でおりる。奥さんに会釈をすると、ニコリと微笑んで、会釈をしてくれるが、会話をしようという感じではなかった。
鶴岡が勤務中だということで遠慮しているのだろうが、一度会話をした相手に対しての雰囲気とは違う。まるで会話をしたということを忘れているかのようだった。
彼女が記憶喪失だということであったが、実際には普通の記憶喪失とは違うのかも知れない。
確かに事故によるショックで、それ以前の記憶を失ってしまったという話だったが、症状はそれだけにとどまらず、記憶するという機能自体に、障害を及ぼしているのかも知れない。
しかし、医者がそのことに気づかなないわけhない。個人のプライバシーへの守秘義務を果たしているということであろうか。となると、彼女は記憶喪失というだけではなく、健忘症も患っているとすれば、身体的な悩みは大きいのかも知れない。
以前、奥さんが、
「内に秘めたる悩みを解決できれば、記憶が戻るかも知れない」
などという分析をしてみたことがあったが、問題はそんなことではないようだ。となると、今の奥さんには、誰か信頼できるサポートをする人がついていてもよさそうなのだが、見る限りはついていない。それもおかしな気がした。
「となると、今の奥さんが、健忘症のふりをしているということなのか?」
と思ったが、何が目的なのだろう?
以前から、この奥さんは、鶴岡に対して、いつも凝視してきて、嫌でも気にしないわけにはいかず、ずっと意識していたが、それが何の偶然か、記憶喪失ということで、同じ病院に通っているということが分かった。
話としては、出来すぎている気がするのだが、そうなると、最初に鶴岡をじっと見つめていたのは、
「鶴岡に、意識させることで、何かの暗示を与えるのが目的だったのだろうか?」
とも考えた。
鶴岡は、学生時代はミステリーが好きで、よく読んでいた。特に戦前戦後にまたがるくらいの、いわゆる探偵小説と呼ばれていた時代の話である。
トリックや謎解き、優秀な探偵が登場し、活躍するようなものを本格派推理小説と呼び、当時の世相を反映したような、猟奇的なテーマを主題にしたものを、変格派推理小説と呼んだ。
当時は、作家によって、本格派と変格派とを分けようとする風潮もあったが、実際には、本格派も書くし、変格派も書くという作家もいれば、初期は変格派を中心に、それ以降は本格派に転身するという作家も結構いたりしたので、作家単位で、本格派、変格派を分かるのは難しいだろう。
ただ、作家を紹介する際に、分かりやすくするために、どちらかを代表して呼ぶようなこともあるが、作家本人が、自分の考えている作風と、紹介する人との意志が一致しておらず、紹介者の説明がそのまま世論に広まるということもあるだろう。
作家は不本意ながら、それを受け入れる人もいれば、
「私は、変格派だと言われているが、本当は本格派だと思っている」
と、反論する作家もいたりする。
さすがにそういう時は、作家の言い分を尊重するのだろうが、結局は最終的に決めるのは、本人でもなければ、紹介者でもない。読者なのではないだろうか。
読者が、どちらの意見が多いかで、実際には決まってくる。ただ、それでも作家はいうだろう。
編集者に言ったのと同じ言葉を繰り返すとこになるのだと思うのだ。
精神的な病いやが、犯罪に結びついてくるのは、いかにも変格派推理小説のジャンルではないか。
変質者による猟奇殺人。ただ、本格派推理小説にも、精神的な病いが影響しないとどうして言える? 変質者ほど、犯罪に対してストイックに頭の歯車がうまく作用して、精神的に正常だと言われる人たちでは思いもよらない犯行を思いつくのだ。それがトリックであったり、完全犯罪への筋書きだったりすると、その謎を解くのは、本格推理小説だといえるのではないだろうか。
ただ、最近は、いや、もうずっと前からなのだろうが、本格推理小説を構成するトリックが、ほとんど出尽くしたと言ってもよくなってきた。
しかも、現在では、科学の発展により、科学捜査が主流になってきたことで、昔からあったトリックのほとんどは成立しなくなっている。
トリックの中でよく使われる、被害者を特定できなくする目的で行われる、
「死体損壊トリック」
なども、いくら指紋や、特徴のある部分を損壊させたとしても、DNA鑑定を使うことで、被害者の身元を特定することができるようになっている。
また、社会事情の変化に伴ってという意味で、犯人の無実を証明するための、
「アリバイトリック」
というのも、なかなか通用しなくなっていった。
最近では、いたるところに防犯カメラが設置してあったり、車の中には、ボイスレコーダーや、走行カメラなどが設置されたことで、犯行を犯しても、その証拠として映像に残る可能性が昔に比べて、各段に増えた。
世の中というものは、それほど目を開かせていないと、どこでトラブルに巻き込まれたり、犯罪が発生するか分からないということで、カメラが一種の抑止力になるのではないかということなのであろうが、犯罪が本当にそれで減っているのか、一般人には分からない。
そういう意味で、犯罪が行われる場面での抑止力なるものは、確実に増えている。少なくとも、推理小説という分野では、難しいものになっていることだろう。
しかし、それはトリックを使用するうえでのミステリー小説であり、謎解きというのは、必ずしもトリックを必要としない。
トリックと言っても、まだまだ他に種類もあり、一つのトリックだけでは薄いものも、いくつかを組み合わせること、あるいは、犯罪の流れをミスリードすることなどにより、ミステリアスにすることで、犯行をごまかすこともできる。
推理小説というものは、特に海外では、本格推理小説の中でも、トリックと駆使する作品よりも、謎解きを重視するようなストーリー性の高いものが多いということである。そういう意味で、戦線戦後くらいの作品というのは、今から読むと結構新鮮であり、読みごたえがある。
それはきっと、まったく違った時代背景によって、なかなか知らない時代の社会風俗を想像することが楽しいと思えるのではないだろうか。
そもsも、小説というのは、想像することでその内容が膨らんでくるものである。異世界ファンタジーが流行った時代があったが、あれと同じで、背景などすべて想像することで、人それぞれでまったく違う世界が構成されるというのも、実に楽しいのではないだろうか。
鶴岡は、学生時代に、自分もミステリー小説を書いてみたことがあった。トリックなどはなかなか思いつかないので、謎を適当にちりばめる形のものを書いたことがあったが、それを友達に見せた時、
「なかなか面白いじゃないか?」
と言われて、よく出版社系の小説新人賞に、応募してみたりしたものだが、一次審査にすら通ったこともなかったのだ。
文学賞に限らずコンクールというものは、審査に関しては、その内容は一切非公開で、問い合わせにお応じないというのが常識だった。
応募する方としては、自分の作品のどこが悪いのかまったく分からない。しかも、落選したのだって、自分のレベルがどのあたりなのか、一次審査で残るのは、二割くらいしかないと言われているような場合に、一次審査で落選したのが、
「あと少し頑張れば、一次審査を突破できる」
という状態なのか、それとも、
「箸にも棒にもかからない小説で、最初から応募すること自体が無謀なレベルだ」
ということなのか、まったく分からない。
しかも、どの部分が悪いのかすら分からないので、これからさらに頑張っていっていいものなのかどうかが、疑問で仕方がない。
文学賞の一般応募というのは、基本的には、一次審査、二次審査。そして最終審査というのが、主流だと言われていて、応募要項の中で書かれている、プロの作家による審査というのは、最終審査でしかないのだ。
しかも、一次審査というのは、その作品を見るのは、
「下読みのプロ」
と呼ばれる、アルバイトのような連中だというではないか。
つまり、一次審査というものは、
「小説として、文章作法に無理がないか、誤字脱字などのあら捜しなどが基準」
ということで、小説の内容など二の次だというのだ。
逆に、素人が書いた作品だといえ、素人のアルバイトにその内容を判定されるのは、理不尽でいかない。そんな実情を知ってしまうと、小説新人賞に応募するということでも、頭の中で冷めてしまうのではないだろうか。
さらに、新人賞を取ったとしても、プロの作家として生き残っていけるという保証はない。
むしろ、受賞作よりも次回作に期待されてしまい、受賞作よりもいい作品でなければ、そこで終わってしまうというのが、作家の運命だ。
人によっては、新人賞を獲得することだけを夢見て書いてきたので、
「この作品で燃え尽きた」
と思っている人もいるだろう。
そんな人に、さらなる作品を期待しても土台無理なので会って、まず、ここが、プロとして生き残れるかどうかの最初の難関だと言ってもいい。
当時でも、そんな感じだったので、今の時代は、文学新人賞は、山ほどある。毎日のように、いろいろな出版社から、いろいろな作家が本を出版している。一日に何十冊と新たしく出てくるのだから、当然、本屋というのは、販売エリアが限られているのだから、おけるスペースも限られてくる。
本当に売れる作家の小説は何冊も平積みにしてあり、ポップも飾られ、宣伝効果も十分だが、そこまでないプロ作家の作品は、一冊か二冊だけ棚のどこかに押し込められるだけで、その作家のファンでもなければ、誰にも取られることもなく棚に残っていくだけだ。
まだ残っているならそれでも、売れる可能性はゼロではないので、何とかなるかも知れない。
しかし、、売れなければほとんどが返品、それが運命だ。
今の本屋は本当にシビアで、昭和、平成と、テレビ化など何度もされた有名作家の作品でも、ほとんど棚にないのが現実だ。あれだけ本屋に所せましと置かれていた有名作家の本を、今は本屋で見ることはできず、注文したとしても、
「その本は、廃版となりました」
と言われて、もう読むこともできない。
もし、読めるとすれば、図書館か、古本屋に並んでいるかも知れないという程度で、本を自分の家の本棚に並べることが、読書家のステータスのように感じていた人間には、どうしようもないことなのだろう。
四十五歳になった鶴岡には、学生時代から読書が趣味だったこともあって、自分でも小説を書いていたこともあり、そのあたりの出版業界の話も分かっているつもりだ。
特に、今から十数年くらい前にあった、
「出版界の革命」
と言われた、いわゆる、
「自費出版ブーム」
と言われるものがあったのを、覚えている人も多いかも知れない。
かつて、昭和の終わりから、平成初期にかけて、それまであったバブル掲載というものが崩壊した時代があったのだが、そのことで、世間は一変してしまった。
それまで企業は、新規事業を拡げれば広げるほど、儲かるという仕組みの世の中だった。今でいう、
「ブラック企業」
など当たり前のように存在していて、
「二十四時間戦えますか?」
という言葉があったくらい、時代は、イケイケ状態だったのだ。
しかし、バブルが崩壊してしまうと、世の中というのは、それまでの常識が通用しなくなった。
新規事業に手を出したら、その分、負債が広がり、それまで銀行はいくらでも融資をしてくれていたのに、今度は銀行がその融資金を回収することができなくなり、一番危ないのが、銀行になってしまった。
「銀行は絶対に潰れない」
という神話が昔はあったのに、バブルが弾けてしまうと、銀行の資金が焦げ付いてしまったことで、倒産するところが出てきた。
零細企業などはひとたまりもなく潰れていく。銀行も負債を抱えたまま潰れてしまう。
そうなってしまうと、そこから先は、どうしようもなくなってしまい、会社が生き残るためには、
「大手企業同士の合併」
「企業の経費削減によるリストラ」
などが叫ばれるようになってくる。
リストラというと、その代表例が、人員削減である。
つまり、
「肩たたき」
などという言葉にあるように、肩を叩かれると、上司に呼ばれ、依願退職を勧告される。
つまりは、
「今なら退職金もまともに出せるので、退職願を書いてくれ」
ということである。
もし拒めば、出世は一生望めないという窓際に追いやられてしまうだろう。
だが、ここも考えようで、そんな会社にいつまでもしがみついていて、会社が最後倒産となれば、退職金も貰えるかどうか分からない。
「今なら退職金はまともに出る」
という言葉は、いいかえれば、
「時間が経つにつれて、会社経営が危なくなるので、退職金はまともに出せない」
と言っているのと同じである。
そうなると、
「このまま至って、会社と心中することになるじゃないか」
ということになるので、依願退職もたくさんいることだろう。
要するに、
「会社に残っても地獄、辞めても地獄」
ということなのだ。
誰もが一寸先は闇。それが、あの時代だった。
人員削減と同時並行で進められることとして、経費削減がある。
当然拡大事業も縮小しなければんらず、そのためリストラで退職者を募っているわけで、そうなると、次の削減は、産業手当であろう。
企業の経費で一番カットできるのは、人件費であり、まずは人件費の大規模な縮小。その次には、細かいところでの経費の節減。つまりは、使用していない電器を消すであったり、光熱費の節減。社員には定時退社を義務付けるようにし、アルバイトやパートを雇うことで、単純作業は彼らにやらせる。
それが経費節減に繋がるのだ。
定時に退社することで、それまで残業ばかりをしていた会社員は、定時以降の時間を持て余すようになってくる。
その時出てきたのが、
「サブカルチャーの充実」
という考えである。
会社を一歩出てからどうやって持て余した時間を埋めるかということが、会社員にとっては大きな問題であった。
中には、
「スポーツジムに通って、身体を鍛える」
あるいは、
「何かの趣味に没頭する」
というような人が増えてきたのだった。
そのための、いろいろな業種が出てきたのも事実であり、カルチャースクールのようなものが流行り出した。
学生時代には小説を書くことを趣味にしていたが、なかなか小説を書こうという人はそこまではいないのか、カルチャースクールには、俳句や短歌などのようなものはあっても、小説執筆講座というのは、なかなかなかった。
まったくないわけではなかったが、それでも、絵画教室や、彫刻などの方が圧倒的に多くて、入会する人も多かった。
絵を描くようになった鶴岡は、さすがにカルチャースクールにまで手を出すことはなかったが、小説を書いていた時、その頃に出現した、
「自費出版関係」
に、興味を持ったのだ。
「結構、おもしろいかも知れない」
と思ったのは、
「本を出しませんか?」
という広告を、雑誌や新聞に煽っていて、誰でも応募できるというものだった。
いわゆる、以前の、
「持ち込み原稿」
のようなものであり、当時の持ち込み原稿に対しての、冷遇された扱いから比べれば、かなりのいい処遇だったのだ。
基本的に、
「持ち込み小説」
と呼ばれるものは、持ち込み原稿を出版社に持ち込んで、そこで出版社の人間、編集長などに手渡しをして、読んでもらえるようにお願いするという、いわゆる、
「直談判」
であるが、これは、素人が小説家になるための方法の、大きく分けて二つの方法の一つだった。
もう一つは言わずと知れた、
「出版社系の新人賞へ応募して、入賞すること」
であり、もう一つがこの、直談判であった。
しかし、この直談判は、まずこれで小説家になれるなどということはありえない。よほどのコネがあるか、本人が有名人であるかでもない限りは、まず間違いなく、
「はい、受け取りました」
と、笑顔でいっておいて、来客者が帰ったとたん、原稿は無惨にもゴミ箱行きだ。
まだ会ってくれるだけましなのかも知れない。ただ、変に断ると、読者も減るという懸念でもあるのが、会うことくらいはするようだ。
だが、結局はそれだけのこと。会っている間にも、
「早く帰ってくれないか」
と思っていることだろう。
早く帰ってくれなければ、自分にも仕事の段取りがあると思っているからで、編集者とすれば、押し売りをあしらうかのような感覚であろう。
大体、毎日のように持ち込み原稿を持ってくる人がいるが、ただでさえ、本は毎日発刊され、そのほとんどは売れずに返品される。プロの作品でもそうなのだから、無名の何ら売れる根拠のない作家の作品を読むひまなどあるはずもない。それが当たり前だ。
それなのに、持ち込みが後を絶えない。本当に押し売りもいいところであろう。編集者からすれば、
「そんな素人の小説家ごっこに付き合っている暇はない」
というものだ。
いくら夢を追って頑張っているとはいえ、現実的にはありえない。もし万が一、本と出しても、その一作で終わりであれば、何のために出したのか分からないと思う作家もいるだろう。
一作品でも本にすることができれば、まずほとんどの作家は、
「これで、俺もプロの小説家だ」
などと、自惚れてしまうのも無理はないだろう。
どうせ、それ以上は出せないのだから、
「一作品だけでもいいから世に出したい」
と考えている人であれば、夢がかなったのだからそれでいいかも知れない。
ただ、そんな人でも余計な夢をさらに追わないとも限らない。余計な夢をなまじっか見せられると、欲が出てくる。人間。欲には勝てないものだ。盲目にもなるだろう。そうなると、抑えきれない妄想や欲をどうすればいいのか、本人以外にどうすることもできないに違いない。
人によっては、仕事を辞めてまで、作家に専念しようと思う人もいるはずだ。そうなってしまうと、退路すらない状況で、誰を恨めばいいというのか。
そんなリスクを出版社も負いたくはないだろう。
とにかく、持ち込み原稿などは、天地がひっくり返っても、まず出版される見込みはないと思った方がいい。それでも、せっせと執筆して持ち込んでいる人の中には。
「持ち込むところまでが、作品の完成」
と思っている人もいるかも知れない。
最初から自己満足だと思っている人であれば、それならそれでいいのではないだろうか?
そこで登場したのが、
「自費出版系の出版社の台頭」
というわけである。
彼らの宣伝文句は、
「あなたの作品を本にしませんか?」
というものであった。
あくまでも、作品を本にするまでが目的で、その人が作家になれるかどうかというのは、問題ではない。そのあたりを勘違いしている人もいたかも知れないが、基本的には皆分かっていることだろう。
本を出したいと思うのは、作家になる人の最初の登竜門なので、まずはそこからがスタートラインであった。
その頃の章せつぃ執筆人口は、今まででピークを迎えていた。実際にどれだけの人がいるのかも知らないし、実際にまわりに、
「私、小説を書いています」
などという人は実際にはいなかったので、疑問であったが、文学新人賞に応募する人が数百人なのに対し、自費出版社系の出版社が応募したコンクールには、一万作品近い作品の応募があったという、(それも、出版社が公表しているだけなので、どこまで本当なのか疑わしいが)
ただ、確かに小説を書いている人はたくさんいるようで、出版する人もそれなりにいるようだ。
小説を書いて、原稿を自費出版社に送ると、まず応募作品の作者に対して、担当がつくようだ。
その人が小説を読んで、批評を書いて、送り返す。その批評というのも、便箋のような神に三枚くらいの批評をしてくれる。それも、いいことばかりではなく、悪いところも批評してくれるので、今までの持ち込み原稿のように、ただ捨てられるというわけではないというだけでも好印象が持てるのだ。
しかも、悪いことまで書いてくれるというのは、それだけしっかり読んでくれているということなので、嬉しい限りである。
送り返されたものには、見積もりが添えられている。
そもそも、自費出版系の会社の本を出す基本には三つのカテゴリーがある。
一つは、
「この人の作品は、優秀で、商業路線に載せても、十分に採算が取れるので、出版社が全額費用を負担する」
という、
「企画出版」
と呼ばれるもの。
もう一つは、
「この人の作品は優秀であるが、商業路線に載せて、採算が取れるか微妙なので、出版社がすべてを負うわけにはいかず、作者と費用面で折半して、本を発行する」
という、
「協力(共同)出版」
と言われる形のものがあるのだ。
そして最後は、
「この作品は、個人の趣味として、本屋に柳津させずに、記念としての本を出すだけで、その代わり、破格の金額を提示する」
という、従来からの、
「自費出版」
という形に落ち着くものである。
この中で、ほぼすべてと言っていいくらいが、協力出版への誘いである。まず、企画出版はありえないし、自費出版するくらいなら、最初から自費出版にしているdろう。
そうなると、その費用だが、筆者の負担は、数百万円になるのが普通だ。
一般のサラリーマンには簡単に出せる値段ではない。それでも、本を出している人が結構いるということは、皆お金があるのか、それとも、本屋に自分の本を並べるということをステータスとして考えているのか、正直。数百万をポンと出せる人がいるのが信じられないくらいだ。
中には借金をしてでもお金を作った人もいるだろう。
しかし、どうしてそこまでするのかということが分からない。
しょせんは、趣味の域を超えないもので、協力出版でも、本を並べさえすれば、自分がプロの作家にでもなった気がするというのだろうか。
鶴岡の知り合いで、これは後から聞いた話なのだが、彼も小説を自費出版系の会社に送り続けたという。そして、協力出版ばかりを言われて、しかも。見積もりに不審点があるので指摘すると、
「それは、本屋に並べる営業費も含めての値段です」
というではないか。
「じゃあ、自分はそんなお金はないから、企画出版してもらえるまで原稿を送り続けます」
というと、何度目かに送った時、担当という編集者から電話がかかってきて、
「今までは私の権限で、あなたの作品を編集会議に掛けて、推奨することで、協力出版という形にしてきたんですよ。これがあなたを推薦するのは最後になります。だから、今協力出版でも何でも本にしないと、これ以降はもう、本にすることはできませんよ」
というではないか。
それを聞いた友人は、
「それでも、企画出版を目指して送り続けます」
と、半分怒りを込めていったらしいのだが、相手はキレてしまって。
「もう、あなたが本を出せる可能性はないんですよ。企画出版なんて夢のまた夢。一般の人に企画出版などありえないんです。企画出版を進めるとすれば、それは、芸能人のような有名人か。犯罪者のように、曲がりなりにも名前が売れている人でないとありえません」
と言われたという。
それを聞いて、さすがに友人もキレたという。
「じゃあ、いいよ、他の出版社に原稿を送るから」
と言って電話を切ったという。
いくら編集者の人間も、苛立ったとはいえ、いっていいことと悪いことがあるだろう。
どんなに有名で信頼できそうな出版社であっても、このセリフを聞くと、さすがに冷めてしまうだろう。
電話では、相手に対して、
「他の出版社に原稿を送る」
とは言ったが、冷静になって考えると、どの出版社も似たり寄ったりだと言ってもいいのではないか。
実際に原稿を送っても、同じように協力出版を持ちかけられるだけだが、今回は分かっているだけに、却って。
「こっちが利用してやろう」
と思ったのだ。
一応原稿を送ると、小説の内容を批評して送り返してくれる。
ただで、添削をしてくれているようなものだと思うと、だいぶ助かるではないか。
当然、出版に関してのことはスルーである、
「誰がお金なんか出すものか」
という気概を持っていた。
最初の出版社への恨みを、別の出版社で晴らすというもの、翻意ではないが、これもしょうがないと思っている。
すると、そのうちに、自費出版業界に暗雲が立ち込めてきた。
自費出版系の会社が、トレンドとなり、
「新しい業界の礎」
とでもいって、もてはやされ始めてから、二、三年もすれば、雲行きが怪しくなってきた。
すでに、十社以上の似たような出版社があったが、そのうちの一つ、大手と言ってもいいような出版社が、裁判沙汰になっていたのだ。
それらの出版社が、協力出版で本を出す場合の約束事に、
「一定期間、全国の有名書店に置く」
ということが謳われていたのだ。
実際に、自分の本が出版されるという日になった時、筆者だったら当然、自分の本が有名書店にならんているのを見に行くのは当然であろう。
しかし、実際に行ってみると、本屋には並んでいない。しかも、その出版社が発行している本のコーナーすらないではないか。
考えてみれば、毎日、プロの作家でも、十冊以上の新刊が出るのだから、素人のしかも、無名の出版社の本が並ぶわけもないのだ。常識で考えれば分かりそうなものだが、きっと盲目になっていたのだろう。
しかも、自費出版系の出版というのは、最近の流行りであり、出す人も山ほどいるのだから、本屋もそのブームに乗るという甘い考えを持った人も少なくないだろう。
出版社とすれば、筆者にお金を出させて、本を作ってしまいさえすれば、そこで終わりなのだろう。実際に営業しているかどうかなども分かったものではない。たぶん、作ったら作りっぱなしなのだろう。
だが、そうなると、問題は本を作った後の在庫である。
一人に千部として、毎日十冊を作れば、一万冊が毎日発刊されることになる。これが一年ともなれば……。
それが在庫となるわけだから、在庫を抱えるための倉庫も必要で、倉庫代も筆者からもらうしかないだろう。
この会社の経費の一番は、たぶん、宣伝費ではないだろうか。会員を募って、本を出すという人を増やさない限り、収入の方法はないわけで、まずは宣伝費、そして次には人件費である。
一人の作家に担当をつけて、その人が作品を読んで批評し、見積もりを作って送り返す。さらに、コンクールなどでは、下読みをする人も兼ねるとなると、一定の人数はいるだろう。
そのための人件費である。
そして次は在庫を持つための倉庫代。これもバカにはならないに違いない。
つまりは、完全な自転車操業なのだ。どれかが詰まってしまうと、たちまちに咲きゆかなくなってしまい、一気に倒産に向かって進む。その引き金を引いたのが、本を出した人によって、契約違反で訴えられたことである。
一人が訴えると、二人、三人と増えてくる。そうなると、信用はがた落ちである。
この間までは、あれだけこの業界を、
「新しい風が吹いてきた」
などともてはやしていた連中も、今度は掌を返したように、
「何か胡散臭いと思っていたんですよ」
などと言ってくると、本を出したいという人がどんどん減ってくる。つまり友人のような冷めた考えの人が増えてきて。会員が増えても、本を出したいという人がまったく増えなければ、どんどん経費を垂れ流すだけになってしまうのだ。
「店を開けているだけで、それだけで赤字だ」
という状態と一緒である。
そもそも零細企業の自転車操業なので、そうなるとひとたまりもない。
他の出版社も多かれ少なかれ、ほとんど同じことをしているのだから、訴える人も出てくれば、本を出す人も激変する。そうなると、連鎖倒産が相次いで、倒産していくことになるのだ。
ちなみに業界のウワサでは、
「生き残った会社のどこかが、裏で糸を引いていて、最後は自分たちだけが生き残り、会員を独占するのが目的だった」
ということだが、その目的のために払った代償は、ひどいものだっただろう。
そんな時代が、今から十年くらい前に終わったのだが、それ以降は、ネットの発展によって、
「書籍界は、紙媒体によるおのではなく、電子書籍に力を入れていく」
というような状態になっていった。
本を出すという目的が失われたこともあって、結局は自費出版系の会社も、いずれはなくなる運命にあったのかも知れないが、そこに至る前に、詐欺まがいの悪徳商法として時代を作ったという意味で、よくも悪くも、小説執筆人口が、前に比べて減ったのかどうなのか疑問であった。
電子書籍になってから、その友達は小説を書くのをやめたということであったが、
「小説を書いている時期は、結構楽しかったな」
と思っているようだ。
今は他の趣味に走っていて、鶴岡も、小説を書くことはやめていないが、絵画に走ったのと同じ気持ちではないだろうか。
鶴岡にとっての小説は、別にプロになりたいとかいう欲があったわけではない。
「あわやくば、本を死ぬまでに一冊くらい出せたらいいな」
というもので、それは、別にいわゆる、
「自費出版」
でもいいというものであった。
それだけに、最初から冷静に自費出版業界を見ていたので、協力出版などには最初から乗っかるきはなかった。あくまでも、企画主パンを目指すというだけで、ただ、
「利用してやろう」
というくらいに思っていたのだ。
最初から、やつらが詐欺集団であるということも分かっていたのだろう。それを口にすると、批判されるだろうからしかなっただけで、後から思えば、
「騙される方も悪い」
と言いたいくらいであった。
やはり、プロになろうなんて欲は、持たない方がいい。簡単にプロになれるくらいなら、プロというもののステータスは、その程度でしかないということだからである。
そんなものに、お金をかけるなど、ナンセンスで、鶴岡にとっては、最初から手の届かない値段であったことで、
「騙されてはいけない」
という防御本能が働いたのだろう。
「詐欺って、こういうものなんだろうな」
と、鶴岡は思っていたのだった。
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