第4話 記憶喪失の定義
鶴岡の最終バスが通り過ぎた、例の住宅街の麓の交差点から少し上がったところでのことだった。
坂を上っていくところのバス通りの左側には、川が流れていて、歩道とガードレールがあるのだが、歩道を乗り越えて、ガードレールも突き破って、その先の川に、車が転落するという、悲惨な事故が起こったのだ。
車は大破して、川の下に衝突し、まるでアコーディオンのように、車体が波打ったかのようにグシャグシャに壊れていた。
だが、奇跡というには不思議なことに、運転手はギリギリのところで放り出されてしまったのか、車と運命を共にすることはなかった。
「シートベルトをしていなかったのが、功を奏したのか?」
と言われたが、その時意識を失ったまま、病院に運ばれたが、命には別状ないということで、意識の回復を待った。
しかし、なかなか彼女が正気を取り戻すまでには時間がかかり、気が付いた時には、事故から三日が経っていた。
だが、彼女は記憶を失っているようだった。自分が誰であるか、どういう人間であるかということや、自分の知り合いに関しては覚えているのだが、事故の瞬間から後の記憶がまったくなかったのだ。
正確にいえば、事故が起こる前からであり、その日の最初から記憶がなかったと言ってもいい。
どうして、あの場所にいたのか、ということだけではなく、その日の朝からの行動が完全に抜け落ちているのだ。
これは、部分的な記憶喪失と言えるだろうが、鶴岡の場合と違って、明らかに記憶を失うだけのきっかけはあったのだ。
事故を起こしてしまった。あるいは、事故に巻き込まれたのか、とにかく自分の身に起こった不幸な事故によって、衝撃を受けたことで、自分の意識がまったく狂ってしまったのだと言ってもいいだろう。
とにかく医者としては、
「気長に様子を見ていくしかありませんな」
というしかなかったのだ。
鶴岡は最初知らなかったのだが、その事故を起こした人というのは、女性だった。自分も定期的に寄る神経内科の病院に、彼女も通っていたのだ。お互いに、部分的な記憶喪失なのだから、精神内科に通っているとしても、それは別におかしなことではない。
ただ、その女性を見た時、思わず、
「あれ?」
と声を掛けてしまった。
相手の女性は、一瞬ビックリして鶴岡の方を見たが、その表情は、何にビックリしたのか分からないくらい、目の焦点が合っておらず、いかにも、
「記憶喪失」
の様相を呈していたに違いない。
だが、鶴岡の方はそうもいかなかった。明らかに知っている人であり、その変わりように、ビックリしないわけにはいかなかった。
これでもかというほど、目を見開いて相手を見つめたが、彼女はひるむことなく、こちらを見つめていた。
お互いに目が会ってしまうと、今度はそこから視線を逸らす頃ができなくなった。瞬きもできないほど見つめていると、彼女の顔が次第に小さく感じられてきて、その顔の後ろに見える、誰かに見られているような気がしてきた。
――まさか、もう一人の自分ではあるましし――
と、急に夢を思い出した。
忘れていたはずの夢だったのに、思い出すと、
「あの時の夢だ」
と、分かってしまうところが怖い。
やはり完全に忘れていたわけではなく、記憶の奥に封印されていただけで、何かのきっかけで、その封印が解かれるということではないだろうか。
相手も必死にこっちを見ていて、目の焦点が合っていないように感じたが、目の焦点が合っていないわけではなく、鶴岡の後ろを凝視しているのではないだろうか。
それを思うと、彼女が本当に記憶を失っているのか、疑問を感じた。
しかし、彼女の記憶喪失を疑うということは、そのまま自分の記憶喪失も疑うということであり、そう思うと、次第に忘れていた夢の内容が、記憶から引っ張り出され、そのまま意識として認識されるようになると、夢の内容が意識として感じられるようになっていった。
鶴岡が見ている視線の先に、光が差し込んでいて、後光が差しているかのようだった。本来であれば、顔がハッキリと見えるなどありえないはずなのに、奥さんの顔がハッキリと分かるのだった。
すると、奥さんが、今度は眩しそうにこちらを見ている、鶴岡の後ろには光るものを感じているわけではなかったのに、どういうことだろう?
奥さんは、鶴岡に向かって、会釈をした。その時の奥さんの表情は、初めて見る余裕のある顔だった。
その時には、その奥さんが事故を起こしてしまって、記憶喪失であるということは知っていた。バスの運転手仲間の中に、そういう世間の三面記事に詳しい人がいて、その人の話を聞けたからだ。
鶴岡は、その奥さんの特徴を聞いて、すぐに自分をいつも見つめている奥さんであることに気づいたのだった。
その奥さんというのは、最近、引っ越してきたということで、友達もおらず、いつもバスに乗っては、寂しそうな顔をしているということだった。
確かに、鶴岡の運転するバスに乗ってくる時も、いつも寂しそうな顔をしていた。しかし、鶴岡と目が合った時だけ、これでもかというほどの熱い視線で、金縛りに遭うような感覚は、夢で見たもう一人の自分を思わせた。
部分的記憶喪失だと言われてそれを意識した時、想像したのが、もう一人の自分であり、そこから生まれた発想が、
「ジキルとハイド」
だった。
ジキル博士が表に出ている時はハイド氏は隠れている。逆の時も同じであるのだが、すると、本当の自分は、ジキルなのかハイドなのか、それとも、どちらも本当の自分なのか、はたまた、どちらも違うのか?
それ以外に想像はできないはずなのだが、別もあるような気がした。その発想は、すぐに思いつかなければ、二度と思いつけることはないだろう。人生の中で一度だけ感じることができるタイミングがあって、その時にうまく交わることができれば、思いつけるのだろう。それを一度感じると、忘れることはなく、記憶に封印されるのではないか?
まさかとは思うが、この記憶喪失というのは、そのタイミングがうまく嵌って、自分の中に生まれた発想が、他を寄せ付けないように、意識を記憶に封印しようとしたのではないだろうか?
それはジキルとハイドの話に限ったことではない。いくつも似たような発想は転がっている。だから、人間が記憶を喪失するということは、タイミングとの紙一重の可能性が作り上げる芸術なのではないかと感じるのだった。
ジキル博士が自分の中にもう一人の自分がいることを知っていたのだろうか? 知っていたとして、もう一人の自分が、今表に出ている自分とはまったく違った人間であるということを分かっていて、薬を作ったのだとすれば、すでにドッペルゲンガーという発想があったのだとすれば、ジキルとハイドの作者は、ドッペルゲンガーに真っ向から挑戦する形の話を作ろうとしたのだろうか。
ドッペりゲンガーも、ジキルとハイドの話も、究極、どちらも、
「もう一人の自分の存在」
を証明しようとした内容である。
ただし、ドッペルゲンガーの、
「もう一人の自分」
という発想は、今表に出ている自分そのもののもう一人の自分であって、見分けがつかないと言われるほどであろう。
しかし、ジキルとハイド氏は、まったく別の人間だと思われていて、実は同じ人間だったというのが、一つのオチで、その中での葛藤をいかに描くかという物語なのだ。
だから、最初から別人には見えるが、同じ人間だということがバレても、小説としては別にネタバレになっているわけではないだろう。
ただ、それは、読者にだけはバレてもいいもので、小説の中では、途中までは流れの中でバレてはいけないということになる。そこが、ドッペルゲンガーとの違いだと言ってもいいだろう。
ドッペルゲンガーは誰が見ても、同じ人間。それは分かっているので、様子が違っても、別の人間だと思われることはない。
「何か、今日は精神的に落ち込んでいるのかな?」
というくらいのものであって、別人だと誰も感じることはないはずである。
「ジキルとハイド」
の話は、もう一人の自分というよりも、
「二重人格」
という発想が、もう一人の自分という存在の前提になっていることで、できあがっている話なので、ドッペルゲンガーと比較するという方が稀な発想なのかも知れない。
二重人格というのは、比較的、誰もが自分に感じていることなので、ただ、裏表があるというだけで、
「自分は二重人格だ」
と思い込んでいる人は多いかも知れない。
だが、二重人格が表裏のある人間だということと同じだと思っている人は、当然のごとく多いのかも知れないが、ひょっとすると、自分の裏に潜む性格だけを広いあげて、それを、
「二重人格だ」
と言っているとして、本当にその裏がその人に備わっていると言い切れるのだろうか?
あるいは逆に、二重人格だと思っていたが、実際にはいくつもの面を持っていて、
「多重人格」
と言えるほど、たくさんの面を持っているのかも知れない。
という両面から考えると、二重人格という言葉だけでは語りつくせないものがあるだろう。
そう言う意味で、たくさんありそうなことを、二つに限って考えがちになりそうな言葉を考えると、
「二枚舌」
というのもそうかも知れない。
「二枚舌」
と言われる人のほとんどが、本当に二枚だけなのか? と思える人も結構いるだろう。
特に歴史などで見てみると、
「二枚舌外交」
と言われるものがあるが、自分の都合のいいように、まわりの国を洗脳するという意味で、国境を接している国のすべてに、いいようにいう外交であれば、数個の国家に対して、いいようにいうことで自分の保身を守ろうとするだろう。
二枚舌という意味で、思いつくのは、イソップ物語に出ていた、
「卑怯なコウモリ」
という話が二枚舌という発想と結びつくのではないだろうか。
卑怯なコウモリとは、鳥と獣が戦争をしていたのだが、そこに一匹のコウモリがやってきて、獣に向かっては、
「自分は獣だ」
といい、鳥に向かっては、
「自分は羽根が生えているから、鳥だ」
と言って、都合のいい言い方をして逃げ回っているという話である。
鳥と獣の戦争が終わると、コウモリのことが話題になり、お互いに対して都合のいいことを言って、うまく立ち回っていたことが分かってしまい、誰からも相手にされず、人知れず暗闇の中で生きなければいけなくなったという逸話である。
つまり、これこそ二枚舌であり、二枚舌を使ってうまく立ち回ろうとしても、お互いにウソがばれてしまうと、最後には一人寂しく暮らさなければいけなくなるという話であった。
似たような話は人間世界には山ほどあるだろう。歴史を紐解けば、卑怯なコウモリのような生き方をして、うまく世間で生き残った人も結構いたりする。戦国大名の、真田昌幸などその代表例ではないだろうか。
信州の小大名である真田家は、まわりを、徳川、上杉、北条という大大名に挟まれていて、どこかにつかなければ生き残っていけないところを、主君をその時々で変えて、生き残るというやり方をしてきた。
それが適わない場合は、自分の城である上田城に立てこもって、相手をおびき寄せる形で籠城戦に持ち込み、少ない兵力で打ち勝つというやり方をしてきた。
徳川相手に、大きな戦を二度も仕掛けて、そのどちらも奇襲で打ち勝つという離れ業だったのである。
二重人格において、ジキルとハイドほどの正反対の性格を持ち合わせていて、それぞれが活動している時、片方は眠っているなどという発想は、普通の人間には、考えにくいことであろう。どうしても、小説などの世界の中で、
「サイボーグのようなロボットが、性格を持ったら?」
というところから始まって、ストーリーにすることで生まれてくる発想なのであろう。
じゃあ、実際の人間に二重人格というのはないのだろうか?
そんなことはない。ただ、二重人格というのは、片方が起きている時は片方は寝ているというような発想ではない。もしそうだとすれば、決して、自分のもう一つの性格を計り知ることはできないだろう。
「他人から指摘されるかも知れない」
という発想があるかも知れないが、
前述の、
「人間というのは、一つのことだけであれば我慢することができるが、二つ重なってしまうと、そうは我慢できるものではない」
という発想に、こちら側から結び付いてくることもあるだろう。
そうなる場合には、発想が限られていて、ある種の決まった方向からしか生まれてこない発想であろう。
それだけ二重人格という発想は人間誰にでも感じるところではあるが、それを自分で理解するには、かなりの労力がいるのかも知れない。
奥さんの記憶喪失は、
「何かのきっかけがあれば、簡単に治るものなのかも知れない」
と、医者から言われたようである。
しかし、鶴岡の場合は、
「それほど難しいわけではない記憶喪失であるが、根が深いようで、そこに、トラウマのようなものが潜んでいて、自分の意識が記憶を凌駕しようとしない限り、記憶を取り戻すことはできないだろう」
と言われていた。
つまり、二人とも何かのショックで記憶を失ったのは間違いないが、奥さんの場合は、心の中にある悩みを解決できれば、記憶も自然と戻ってくるというものであるが、鶴岡の場合は、記憶喪失に関係のあるような悩みが存在するわけではないので、何か突発的なことであろうと医者はいう。そういう場合というのは、まずは原因を突き止めることが必要なのだが、本当にその原因を突き止めていいものかどうか。躊躇するのではないかというのだ。その原因を解消することが本当に鶴岡のためになるのかどうか分からないうえで、安易に記憶を取り戻そうとするのは、
「命を落とす覚悟もないのに、戦場にカメラマンなどで踏み込もうという人間と同じではないか?」
という。
場合によって、慈善をひけらかそうとすると、偽善としてしか人の目には映らず、そんなつもりもないのに、考えが甘いと言われてしまうことだってあるだろう。
「危険な目に遭っても、自分の意志で危険なところに赴いたのだから、もし、捕まって捕虜となってしまっても、政府は助けてはくれないという覚悟を持っていなければいけない」
ということをどれだけ覚悟しているかであろう。
記憶を失ったのは、そんな覚悟を失ってしまい、その感情が自分への背徳心から、記憶を失わせたのかも知れない。
鶴岡は、その奥さんのことが気になって、思わず声を掛けてしまった。
「私も同じ記憶喪失なんですよ」
と、その時は、お互いの記憶喪失がどのようなものか分かっていなかったので、
「記憶喪失」
という一言で、一絡げにしてしまったが、実際には、一つという発想ではないのだろう。
それを聞いた奥さんは、一瞬寂しそうな顔をした。自分に何か落ち度でもありそうな表情だったが、そんな表情をされることで、今度は鶴岡の方が、ショックに感じ、
「悪いのは自分ではないか?」
と感じたのだ。
お互いに、
「記憶がないということは、ここまで被害妄想にさせることなのだろうか?」
と感じさせられた。
そういう意味でお互いに、何も知らないということ、しかも、それが自分のことであれば、これほど不安に感じるということはないと感じる二違いないということであった。
自分たちにとって記憶喪失は、
「相手のことを思いやり、旧友することで、生きていけるという証を手に入れることであり、記憶を取り戻すことができるとすれば、この相手と一緒にいることだ」
と言えるのではないだろうか?
とにかく、記憶喪失においての一番の障害は、孤独感である。
「記憶を取り戻すことで、今新たにできた記憶を、また失うのであれば、過去の記憶など取り戻す必要はない」
という感情を持つことが、記憶を取り戻すために最低必要な、本人の勇気が、
「記憶というのは、一度失ってしまうと、それを取り戻した場合は、記憶を失ったその瞬間に戻ってしまう」
という思いが根強いことが記憶を取り戻すための障害になっているのではないかと思われたのだ。
しかし、過去の記憶には、とても大切な人や大切な事実を残してきているのかも知れない。それが本当の自分であり、記憶を失っている自分が本当の自分ではないと気付けば、おのずと記憶も戻ってくるものだと思えば、記憶を取り戻すための法則めいたものを医者は分かっているのではないだろうか?
ただ医者はそのことを提唱することはない。ひょっとすると、
「記憶を失う前が本当の自分で、記憶を失った後は本当の自分ではないと、一体誰が決めたんだ?」
というのが、理由である。
取り戻すことで、決して幸せになれるとは限らない。むしろ、記憶を失ってまで、何かを守ろうという強い意志がなければ、記憶など、そう簡単に失うはずはないのではないだろうか?
そういう意味で、鶴岡は最近、
「記憶を取り戻す必要なんかあるのかな?」
と感じ始めていた。
「もし、取り戻さなければいけない記憶だというのであれば、いずれ自然と思い出すという考えは間違っているのでしょうかね?」
と先生に聞いたことがあったが、
「間違いではないですが、自然に思い出すということは、正しいのでしょうが、我々医者は、それを正しいと言ってしまってはいけない宿命があります。医者というのは、患者のために、最善を尽くすというのが定義になっているので、目の前にある疾患は、取り除く努力をするというのが、我々の医者としての使命なんです。何が正しいか、間違っているかという結論づいていないものであれば、最優先は、疾患を取り除くことなんですよ。我々にとって一番招いてはいけないことは、手遅れになることなんです」
というのだった。
「なんだか、それだと自己満足なんじゃあ」
と思わず口に出てしまったが、
「そうです。これは私たち医者のジレンマなんです」
ということだった。
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