第3話 一つが限界
そのドラマは、何度もタイムスリップさせる話で、過去に行って、何かアクションを起こすと、すぐに現代に戻ってきた。しかし、そこには、カーボーイハットをかぶったカウボーイのような連中が走ってきたのだが、その光景は、本当の現代ではないようだった。
過去に戻ることでタイムパラドックスを描いているのだろうが、まだ子供だった鶴岡には、意味が分からなかった。
「同じ現在でも、別の場所に戻ってきた」
としか感じなかったのだが、それは主人公が感じているのと同じ感覚だった。
それだけに、子供の方が実は新鮮に見ることができる作品であって、理屈としてはよく分からなかったが、ススキの穂が広がっている高原という光景には、何かしらの思い入れがあるという思いが、ずっと残ったのだった。
そして、その時にテレビで見た光景と同じような光景を鈴蘭高原で見たのだ。
「あの時の撮影は、ここで行われたのではないだろうか?」
というほどに感じられた。
もちろん、違っているだろう。全国放送なので、こんなに東京から遠いところまでわざわざロケに来るとは思えない。
地元でも、
「スズランが綺麗に咲いている場所」
ということで有名ではあるが、その裏でススキの穂が綺麗だというのは、実際にここに来たことのある人が、口伝えで伝わっているだけで、別に観光ガイドブックに載っているということもなく、地元でも、それほどススキの穂に注目してはいないようだった。
「ススキの穂は、勝手に生えているだけだ」
という感覚で、確かに、どこの高原に行っても、似たり寄ったりの光景なのではないかと思えたのだ。
ただ、規模の大きさは別であり、たぶん、鈴蘭高原のススキの穂の平原は、結構広いであろう。
それでも、そこまで全国的に有名でないのは、レジャー化されていないからであろう。
実際に東京から近いわけではないが、ススキの穂が生えているところを牧場のようにして、観光に一役買っているところもあったりする。
近くにはペンションがあったりして、避暑地としても利用されるところは、観光ブックに乗っていることだろう。
隣の県には、高原として有名なところがあり。そこにはススキの穂はないのだが、牧場になっていて、馬がたくさんいる。乗馬体験などもさせてくれて、写真撮影用に、カウボーイの衣装も貸してくれるようだ。
牧場には宿泊施設も隣接されていた。まるでスキー場のホテルを模したコテージのような作りの宿である。冬は暖炉が使えて、宿の中は実に暖かかった。
鶴岡が子供の頃に親に連れて行ってもらった時は冬だった。
近くのスキー場の客が多いので、結構賑やかだったが、鶴岡たちはスキーをするわけではなかった。
父親とすれば、一日だけの休暇ということでやってきたのだが、息子や母親は面白くもなかった。
そんな高原での一日を鶴岡少年は、
「別に楽しい思い出なんかない」
と思っていた。
別に遊ぶところも何もなく、子供にはただただ退屈なだけの場所だった。
それは母親としても同じ思いであり、その頃から、父親のことが、
「少し分からない人」
と思うようになったようだ。
子供が小学生にもなっているのに、いまさらのように気付くなど、ありえないのではないか?
と思われたが、夫婦というのは、本当に難しいと感じたのが、その時が最初で、結局親が離婚するようになるのだが、四十五歳になっても、結婚する気にならないのは、離婚した親を見ているからだろうか?
そういえば、離婚した時の父親の年齢が、今の鶴岡くらいの年齢ではなかったか?
そう思うと、ますます結婚などしたくないと思えてならなかった。
「俺は、絵を描き続けられればそれでいいんだ」
と思っていた。
別にコンクールに応募などをして、プロになろうなどと思っているわけではない。今はネットにアップしたり、たまに、ネットの後部の応募したりしていた程度だったが。最近になって、素人でも、安く自分で個展が開けるギャラリーがあることを知って、時々、作品を展示しているのだった。
この年になってから、自分が想像していたよりも、絵画人口が多いことに驚いていたが、ネット以外のリアル画廊で、自分の作品を出品でき、個展が開けるとは思ってもいなかったので、最近では、個展を開くための作品を、コツコツと描いていたのだ。
今度、個展を開こうと思っているところは、喫茶店とギャラリーを併設しているところなので、絵画に興味がなくても、喫茶店を目的にしてくる客が、ひょっとすると見てくれるかも知れない。
プロだったら、しっかりと見てほしいと思うのだが、素人の趣味でしかないので、別にチラ見でも見てくれるだけ嬉しいと思っている。
喫茶店側にもギャラリー側にも雑記帳があるので、そこに誰でもいいから書いてくれると嬉しい。名前を書くだけでも見てくれたということなので嬉しいと思う。
自分が絵に興味もなく、ただ喫茶店に来ただけの客だったら、決して絵を見ることも雑記帳に名前を記すこともないだろう。だから、名前を書いてくれているということは、少なからず絵に興味があり、その目で自分の作品を見てくれたということなので、嬉しいと感じてもいいはずだ。
実際に絵に興味があって、自分でも描いているくせに、人の作品はあまり見ようとは思わない。当然、雑記帳にも書こうとも思わないのだが、自分の中でどうしても他人と比較しているという思いがあることを嫌だと思っているからなのかも知れない。
「人が描いた絵を見ようとも思わないくせに、自分の絵を見てほしいというのはおこがましいことだ」
と考えているからなのか、それとも、
「人が描いた絵を見てしまうと、自分の作品に真似てしまうところが嫌だと思うからなのか、それとも、ライバルと感じる相手をどうしても、自分の中で、上に見てしまうという自分の体質が嫌なのか」
どちらにしても、絵を描くというのは、
「楽しくなければ、絵ではない」
と思うのだが、それは誰にでも共通している考えだと思うのだった。
絵を描いていると、嫌なことは忘れられる。最近感じた嫌なことは、時々乗ってくる奥さん風の人がいるのだが、その人が自分に睨みを効かせるのだった。
その奥さんは、ここ半年くらい、よく乗ってくるのだが、あいりが乗ってこない時には、必ず一番前の席に腰かけて、表や前を見るわけではなく、こちらをじっと見ているのだ。
最初は意識していなかったのだが、その席にいつも座っているあいりのことが気になるようになってから、その主婦の存在に気づいた。それまで気にもしなかったので、きっと、鶴岡がその奥さんを気にし始めたことで、奥さんの視線が強くなってきたのではないかと思う。
「あれだけの視線を浴びせられたら、さすがに鈍感な人間でも、気付くというものだよな」
と思った。
要するに、
「一つの視線では気付かなかったかも知れないが、別の意味で意識した視線があったことで、気が付いてしまった」
という感覚である。
そういえば、
「人間というのは、一つのことだけであれば我慢することができるが、二つ重なってしまうと、そうは我慢できるものではない」
という話を聞いたことがあった。
今回の場合は、楽しいことと、嫌なこととが重なってしまったことでの相乗効果によって、その奥さんの視線を感じてしまった。
絵を描いている時でも、
「バランスが大切だ」
と考えるが、そのバランスというものには、遠近感も含まれる。
どこから描けばいいかという最初の筆の落としどころも、バランスの一つである。そういう意味で、バスの運転の際に、楽しいことと、嫌なことが重なってしまった相乗効果を、バランスと考えるのは、おかしな発想であろうか。
自分が絵を描いている時に思い出すのは、嫌だと思っている奥さんの視線である。
――本当に嫌だと思っているのだろうか?
と考えてしまうのだった。
奥さんの視線を感じていると、どうもその先にあいりがいるような気がしてくる。あいりは別に鶴岡に対して熱い視線を送っているわけではないが、その視線には癒しを感じる。
奥さんの視線も、最初は何か気持ち悪いものを感じていたが、よく見てみると、そんなに嫌いなタイプの女性ではなかった。
そもそも、今まで女性に好かれることがなかった鶴岡なので、女性から熱い視線を浴びるなどなかったのだ。
それだけに、どうしていいのか分からずに、戸惑ってしまう。
ただ、彼女の視線を身体で感じているうちに、その視線が本当に自分に向けられているものなのかどうか、疑問に思えてきた。視線を浴びていて、熱くなってくるのは、背中だったからだ。
――俺を見ているわけではなく、俺の後ろに誰かがいて、それを見つめているようではないか――
と、感じると、今度は、背筋がゾクッとしてきた。
まるで怪談話のようで、以前に読んだ怪談話を思い出していた。
鶴岡は怖がりなくせに、ホラーや、怪談話が好きだった。
「怪談百夜話」
などという小説を読んだりして、夜一人でトイレに行くのが怖くなったなどという、それこそ怪談話を読んで、本末転倒な笑い話になったなどというオチだったりする。
そんな話の中で、怖かった記憶のある話に、自分が見つめている相手が、実は自分だったという話を読んだことがあった。
今回、あの奥さんに見つめられているのを後で思い出してみると、その怪談話が思い出されて仕方がなかった。
そう思うと、自分が見つめている相手を通り抜けて、自分が本当に見ているのは、その奥さんの向こうに見える誰かではないかと思ったのだ。その誰かというのは、奥さんの背中をじっと見つめている自分だということに気づくと、自分も奥さんに見つめられていることで、自分の後ろに、もう一人の奥さんが控えていて、後ろを振り向こうかと思ってみたが、金縛りにあってしまって。振り向くことはできなかったのだ。
その事情が分かると、目の前にいるはずの奥さんの姿がスーッと消えていく。奥さんの後ろに見えていた。もう一人の自分の姿を見ることもできなくなっていたのだ。
今までで見た夢で一番怖かったのは、
「もう一人の自分が出てくる夢」
だったのだ。
怖い夢の最後は、もう一人の自分の出現で必ず終わる。逆にいえば、もう一人の自分が現れなければ、怖い夢を見続けなければいけないということだ。
実際に、もう一人の自分が出てこないと終われないという意識があるにも関わらず、もう一人の自分の出現を怖がっている自分がいる。
もう一人の自分が現れたとしても、それによって、自分がショックを受けなければ。夢から覚めることはできない。
つまり、夢を見ることをやめるには、ショックを必要とするということで、それは、怖くない夢でも同じだった。
だが、怖くない夢というのは、目が覚めた瞬間に、夢を見たことは覚えていても、その内容はまったく記憶にない。記憶の奥に封印されてしまっているのだろうが、意識としては、
「怖くない夢を見たんだ」
というだけのことであった。
どれだけ長い夢であっても、一瞬にして記憶の奥に封印されるのだから、目が覚める瞬間には、ギュッと凝縮した形になっているのだろう。
「夢というのは、そんなに長い夢だという意識が残っていたとしても、目が覚める数秒で見るものだ」
と言われている。
それは、やはり、意識から記憶に置き換えて、封印しようとした時に、圧縮しなければ夢という記憶の奥に封印はできないのだろう。
それは、領域の大きさということではなく、凝縮してしまうことで、消化しているような感覚になるのだと感じるのだった。
奥さんを意識して、奥さんの後ろにもう一人の自分を感じた時、これが怖い夢であるという意識が確証に変わった。
自分の後ろに奥さんがいて、奥さんの視線に挟まれていると感じた時、金縛りにあってしまい、きっと、自分を見つめている正面の奥さんも、金縛りにあっているような気がした。
この感覚は鏡を見ているようで、普通であれば左右対称に写っていて、上下はそのまま写っている。この奥さんと自分、そして、それぞれのもう一人の感覚は。鏡の上下に値するような感覚ではないかと思うのだった。
あれは、以前呑みに行った時に、訊いた話だった。鶴岡は、普段からあまり人と話をする方ではないか、馴染みの居酒屋があり。その店によく行って、マスターと話をよくしていた。
居酒屋にいると、酒が進むからなのか、皆饒舌になるようで、話を聞いていると、普段は言えないような、きわどく微妙な話も、口をついて出てくることも多かった。
「俺、最近、よく女に振り回されるんだよね」
という話が聞こえてきた。
「どういうことなんだい?」
と一緒に呑んでいる人が言った。
「この間まで付き合っていた女性が結構わがままでさ、いろいろと注文が多いんだよ。一年以上も付き合っていたので、そろそろ結婚の話もしてみようかと思っていたところ、彼女の方から、自分が欲しい指輪の話をしてきたんだよね。男としては、サプライズでプロポーズとしたいと思うじゃない。だから、敢えて指輪とかの話をしてこなかったんだけど、相手から言われると、急に冷めた気分になってきてね」
と男は言った。
「でも、彼女の方とすれば、それだけ待ち焦がれていたということなんじゃないのかい?」
と言われて、
「それは分かるんだけどね。でもさ、子供の頃の経験の中で、例えば自分の部屋の掃除や、学校の宿題とか、これからしようと思っているところを、先に親から、まるでこちらがやる気が最初からないかのように言われたら、ムカッとするだろう? 今からしようと思っていたのにってね。それと同じことで、先に相手に言われてしまうと、完全に冷めてしまって、絶対にやらないぞと思うことが、えてしてあったりするんじゃないかな?」
と、その男は言った。
「うんうん、確かにその通りだ。君もその時、怒りを覚えたのかな?」
と言われ、
「うん、そうなんだ。先に言われてしまったことで、腹も立ったんだけど、さすがに自分で大人だと思っているので、そこは、何とか堪えたんだけど、でも、よくよく考えると、彼女の態度というのは、高飛車だったんだよね? こっちが順序立てて考えているのは、気持ちを高めて行こうとするのも、その目的だったのに、そんなデリケートな気持ちを踏みにじるかのような、無神経な発想に、さらに腹が立ったんだよ。人間というのは、一つのことには耐えられるんだけど、二つ以上のことになると、耐えられなくなる。耐えられないどころか、さらに怒りが倍増したりするんじゃないかって思うんだ」
と、いう話をした。
「人間というのは、一つのことだけであれば我慢することができるが、二つ重なってしまうと、そうは我慢できるものではない」
という話を聞いたような気がしたのは、その時の会話からだったのかも知れない。
「でもさあ、この場合は、二つ以上のことと言えるのだろうか?」
と、聞き手の男性が言った。
「確かに、自分が考えていたことを先にされてしまったという意識が最初に来てしまったので、違うことのように感じたけど、考えてみれば、同じことの派生でしかないんだよね。それを派生の方から先に考えてしまったというだけのことで、もし、これが、最初に、俺が結婚に踏み切れないということを責めているかのように、指輪でこちらを促すような態度を取っていると感じたとすれば、自分がしようと思ったことを先にされたという感情は浮かばなかったかも知れないな。だとすれば俺も彼女のことを許せたかも知れない。いや、許せたというよりも、許せないような感情にはならなかったんじゃないだろうか?」
と、最初に言い出した人間は、言った。
その後の話としては、結局彼は、彼女とは別れたという。本人は今になってそれを後悔しているようだったが、それは、別れたことへの後悔というよりも、その呑み屋で、聞き手に話をしてしまったことで、自分は相手を見誤ってしまったのではないかということを後悔しているという。そして、許せない感情を持つだけの怒りでもなかったものを、自分から怒りにしてしまったことへの後悔なのだという。
世の中には、そんな感情もあるようで、それをただの勘違いとして片づけていいものなのか、考えさせられるところであった。
鶴岡は、最近バスを運転していて、急にその時の話を思い出すことがあった。そのことが自分に何か、過去を思い出させるきっかけになるのではないかと思うのだった。
鶴岡には、一部の記憶が喪失しているという障害があった。
もちろん、バスを運転するという仕事上の適正に、何ら支障のあることではなかったのだが、自分の中で気になっているのは、
「もし、俺が運転している時、急に目の前に、忘れていた過去がよみがえってきた時、記憶を喪失した部分以外で、これまで新たな記憶として培ってきたものが、本当に残っているのだろうか?」
という思いが頭にあったからだ。
もし、新たな記憶が急に消えてしまうと、パニックを起こしてしまい、運転中であれば、意識を失ってしまいかねないとも感じたのだ。
大げさではあるが、ありえないことではない。運転中は、慣れていれば慣れているほど、無意識に集中力を最大限に発揮しているはずだ。
しかし、その集中力をちょっとしたことで途切れさせてしまわないとも限らないことを意識していた。
つまり、そのちょっとしたことが衝撃となり、無意識を意識的に感じてしまうと、
「今は運転中なので、余計に気を引き締めなければならない」
という感情があらわになり、それがプレッシャーになっていくのを、自ら感じるのではないだろうか。
幸いなことに、今まで運転中に急に何かを思い出したり、意識が朦朧としたことはなかったが、いつ何時あるか分からないという危惧も少なからず持っていた。
その危惧の中に、
「人間というのは、一つのことだけであれば我慢することができるが、二つ重なってしまうと、そうは我慢できるものではない」
という感覚が一つあることは分かっている。
最近では、部分的な記憶喪失でありながら、意識が朦朧としている時間が長いような気がしてならなかった。
これは、
「自分の中にもう一人の自分がいて、その自分が勝手に暗躍Sいているのではないか?」
という発想であった。
まるで、、
「ジキル博士とハイド氏」
の話のようではないか。
あの話はジキル博士の開発した薬を使って、一人の中にいるもう一人を覚醒させるというような話であった。
鶴岡が自分の中に、もう一人の自分の存在を感じ、その自分が表に現れているのを感じると、ジキルとハイドの話のように、
「一つの人格が表に出ている時は、もう一つの人格は隠れていて、逆もありうるのではないか?」
ということを考えると、部分的記憶喪失という発想も分からなくもない。
以前読んだホラーの話の中に、少しニュアンスは違うが、ジキルとハイドの話を考えた時に浮かんでくる発想があったのだ。
「自分の前に、もう一人の自分がいる」
という発想で、主人公には恋人がいるのだが、その恋人のところに行く時に、いつも、別々の花をプレゼントとして持っていくのだが、彼女の部屋に入って花をプレゼントすると、すでに、同じ花が彼女の部屋の花瓶に飾られているのだ。
「また、来たんだね?」
というと、彼女は悲しそうな眼をして、
「ええ」
というのだ。
主人公は、花瓶に生けてある花をわしづかみにして、引き抜くと、乱暴にゴミ箱にその花を捨てた。忌々しいと言わんばかりのその姿に、彼女は何も言えない。
主人公は急に優しくなって、自分が持ってきた花を花瓶に生けると、余裕を持った顔をして、そのまま彼女を抱くのだった。
彼女は逆らうことができない。抱きしめてくる相手を受け入れるしかないのだ。
「ねえ、あなたが本当のあなたなの?」
と、抱きしめられながら、彼女は聞くと、
「ああ、そうだよ。決まっているじゃないか?」
と、余裕を見せていうのだが、一番その言葉を信用できないのは、他ならぬ主人公本人だった。
最初の花を持ってきたのは、もう一人の自分。まったく外見では判断できないくらいに似ていて、認めたくはないが、もう一人の自分だった。
だが、それはいわゆるドッペルゲンガーというものではないか?
ドッペルゲンガーというのは、見たら死ぬという伝説がある。自分も死んでしまうんだろうか?
その男がドッペルゲンガーだと思ったのは、
「前に来た俺は、何か話をするのかい?」
と聞くと、
「いいえ、口をきいたことが一度もないのよ。ただ、あなたが現れるまで、五分しかないので、すぐに帰っていくのよね」
と言われて、
――ドッペルゲンガーは、言葉を発しない――
ということだったので、その相手がドッペルゲンガーであることに間違いないと思ったのだ。
だが、自分がドッペルゲンガーであるという考えもないわけではない。言葉を話しているから、ドッペルゲンガーではないという確信を持っていたが、果たしてそうなのか、疑問に感じていた。
だが、これをドッペルゲンガーという発想ではないもので考えた時、思いついたのが、
「ジキルとハイド」
の話だった。
だが、こちらの方が考え方としては難しい気がした。一人の人間の人格の違いによって、身体をうまく使い分けるという考え方が果たして、何かの力を介さずにできるのだろうか?
ドッペルゲンガーのように、都市伝説であれば、また発想が違うのだが、小説のネタになりそうなことであれば、そこに人の力を介するという考え方になるのではないか。ただ、そこに、部分的な記憶喪失という発想、さらに、
「人間というのは、一つのことだけであれば我慢することができるが、二つ重なってしまうと、そうは我慢できるものではない」
という発想が絡んでくるので、段階的に発想が発展していくことに、自分がどこを着地点として考えればいいのか、考えがなかなかまとまらないのだった。
そんなことを考えている時、鶴岡の近くで事故が起こった。ただの事故なのか、それとも事件が背景にあるのか、その時は、まだ誰にも分からなかったのだ。
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