第3話 シンナーの臭い
今年の夏は、例年に負けず劣らず暑かった。
日が暮れても、まだ三十度以上の気温があり、日中は、平気で猛暑日を記録している。そんな時は風が吹いてきても、生暖かく、
「風が気持ちいい」
などということはなく、
「まるで、熱いお湯に浸かっている時に、湯をかきまぜた時のようだ」
と言えるくらいであった。
体温よりも低い時は、風が吹いてくると、涼しいと感じるものだが、気温が体温よりも高くなると、吹いてくる風は、風呂場でかき混ぜた時のように、ただの熱風になってしまい、これでは風がない方がましだったのだ。
「熱中症には、くれぐれもご注意ください」
としつこいくらいに、天気予報では言っているが、実際に寝中傷になったことのない人にはピンとこなかった。
確かにうだるような暑さには閉口し、直射日光が髪の毛に当たり、頭がどれほど熱を帯びているのかを考えると、頭がボーっとするのも、無理もないことだと言えるのであった。
「そういえば、昔は日射病って言っていたような気がするな」
と、上司が言っていたことがあった。
「日射病ですか?」
と、あまり聞きなれない言葉に、敏子は聞きなおした。
「ああ、そうなんだよ。私たちの子供の頃はまだ昭和だったので、その頃は日射病には気を付けてと言われていて、逆に熱中症などという言葉は聴かなくなりましたね」
と言っていた。
調べてみると、
「熱中症とは、暑熱環境下においての人間の身体適応の障害によって起こる状態の総称である」
と書かれていた。
つまり、日射病は熱中症の一種ということになる。
日射病は、直射日光照射が原因で起こる熱中症の一種と考えればいいのではないだろうか?
それを思うと、日射病も熱中症も、表現上の違いということだけであり、大した違いはないということなのであろう。
いつ頃から表現が変わってきたのかは定かではないが、上司の話としては、猛暑日などと言われるようになったころからではないかという話であった。
「ということは、昔は猛暑日などというのもなかったわけですか?」
と聞くと、
「ああ、そうだよ。猛暑日というのは、三十五度以上でしょう? 昔は夏の暑さと言っても、行って三十三度がいいところだったよ。それ以上なんて、ほぼ考えられなかったからね。だって、昭和の頃はクーラーがどこにでもあるなんて信じられなかったんだからね。通勤電車でさえ、扇風機に、窓を開けていただけさ。今だったら、風が今度は暑くて耐えられないだろう? それを思うと、暑さの違いがどのようなものだったかということは容易に想像がつくというものさ」
と言っていた。
なるほど、夏の暑さがどれほどのものだったのかということは、なかなか想像がつかないが、クーラーのなかった時代であれば、三十三度でも、耐えがたかったに違いないだろう。
そんな夏の暑さを今ではクーラーがあれば何とかなっている。
だが、実際には、表で炎天下に仕事を余儀なくされる人もいる。しかも、ここ数年のパンデミックによって、マスク着用がほぼ強制になっている。
「暑さに伝染病」
完全にダブルパンチだと言えるであろう。
一時間に十五分くらいの休憩を入れることを、エコモプライズでは、義務化するようにした。それを守るのが上司の役目で、守られていないということが分かれば、上司は責任問題だった。
もっとも、これはエコモプライズだけではなく、多くの会社で、時間の差こそあれ、実行されていることであろう。
「快適な職場環境」
これも、今のコンプライアンスを重視する会社のあり方であったり、政府が推進しようとしている、
「働き方改革」
であったりする。
もっとも、この働き方改革という考え方も、そもそも、政府が経済復興のために行っていることであり、例えば休日を増やしたり、祝祭日の移動させても構わない休みを、月曜日に持っていくなどという考えがあった。
ちないに祝日の中で、
「成人の日」
などのように、途中に、
「の」
という言葉が入っている祝日は、移動させても構わないことになっている。
それを利用しての、
「ハッピーマンデー」
などという言葉はまさにそのための言葉であった。
なぜ、政府が、
「働き方改革」
を推進するかというと、別に従業員に楽をさせるためではない。
休みを集中させることで、バカンスに出かける人が増えると、お金をたくさん使ってくれるという考えである。
お金をたくさん使うということは、それだけ経済が回るということで、不況回復に一躍買うことになる。
つまり、従業員のためなどではなく、経済を復興させることができると、
「あの首相は、経済復興を成し遂げた総理大臣」
ということで、自分の成果になるだろう。
それを狙っているのだ。
確かに経済が復興すれば、首相の手柄だと言えるだろうが、まるで国民を騙すようなやり方が果たして、
「国のトップの政治家」
がやることであろうか?
それを考えると、
「これほど姑息な首相もいない」
と感じ、次第に疑心暗鬼がこみあげてくる。
平時であれば、何も知らなくてもよかったのだろうが、パンデミックなどの全国的な混乱に陥ると、完全に有事ということになり、政治手法が試されるのだろうが、実際に行った政府の対応は最低で、
「こんな政府の元、自分たちはしたがってきたのか」
ということで、政府に対して、不満しかないのだった。
まあ、もっとも、その首相は、病気を理由に雲隠れして、新しい首相になったのだが、これが輪をかけたやる気のない首相で、
「やる気はあるが、限りなく真っ黒に近いグレーの男がいいか、とにかくやる気がないトップとしての破棄のない男がいいかという、国民にとっては、究極の選択に近いのが、現在の日本の状況だった。
特に総務などの仕事をしていると、確かに営業などはいろいろなところから深い情報が入ってくるだろうか、ある程度範囲としては狭いものだ。
総務の場合の情報は。
「広く浅い」
という情報で、総務としてはちょうどいいだろう。
深い情報を知りたければ、営業部やサポート部にそれとなく聞いてみるということもできるからだ。それだけの話ができるほどの根回しはできてるつもりだった。
山岸という男が以前いた会社は、結構大手の商社だった。本人曰く、
「商社マンとしての成績は悪くはなかったと思うのですが、急に中華料理屋をやってみたくなったんです。それまで、中華料理が好きというわけでもなかったんですが、ある時、同僚と餃子を食べて、その餃子の味が忘れられなくなったんです。しばらく、餃子の美味しい中華料理屋を探し歩くのが趣味のようになったんですが、そのうちに、自分で作ってみたくなったんですね。子供の頃から、自分が好きなものは、自分で作るというのが、モットーのようになったので、その時の気持ちを大人になって、急に思い出したんだと思います。だから、会社を辞める時は、そんなに迷いませんでした。勢いだったと言ってもいいかも知れないですね」
と、いうことだったが、敏子が気になったのは、
「それで、店を始めたけど、運悪く、パンデミックに引っかかってしまった。経営が立ち行かなくなって、早々と店を諦めたということですが、後悔はなかったですか?」
と聞かれて、
「それは、店を始めたことですか? それとも店を閉めたこと?」
と、山岸が答えたが、少し考えてから、
「そのどちらもですね」
と敏子が聞くので、今度はさらに敏子の数倍考えた山岸は、
「いいえ、どちらも後悔はなかったですね。どちらかが後悔していれば、どちらも後悔することになったでしょう。どちらかだけというのは、考えられないと私は思っています」
と、答えた。
「潔いという感じですね」
と聞かれたので、
「私が総務に向いている性格だと白鳥さんが感じたのは、きっと私が後悔していないということを分かったうえで、総務配属を決めたんだって思いました。でも、どちらかが後悔していれば、もう片方も後悔するだろうという考えは、たぶん普通の人にはないと思うんですよ。私はそれを潔いとは思わない気がするので、私が後悔することがあると言ったとしても、白鳥さんは、それを本気で聴かないような気がするんですよ」
と、山岸は言った。
「ものは考え方だと思うのですが。山岸さんと話をしていると、絶えず何かを計算しているような気がするんです。だから、片方が後悔すれば、もう片方も後悔するだろうと思い込んでいると感じたんです。つまり山岸さんは私のことを、きっと、後悔などしたことのない人ではないかと私が感じていると思っているんでしょうね」
という分析を披露した。
「なかなかの洞察力ですね。きっとそうなんじゃないかと思います。でも、後悔したことがないわけではないと思うんですけどね」
と山岸がいうと、
「でも、あなたが後悔する時というのは、必ず悔しさを伴っているのではないかと思うので、後悔から悔しさを伴うという感覚があなたを見ていて想像できないんです。だから、あなたが後悔をしたとは思っていないと感じたんですよ」
というのが、敏子の考え方だった。
その考え方は、間違っていないような気がした。
それは、敏子であっても、山岸であっても同じことだ。
「今の話は、白鳥さんにも当てはまるのではないかと思ったんですが?」
と聞くと、
「私は確かにそうなんですよ。でも、私はそういう意味の後悔をしたことは何度もあります。逆に後悔とは悔しさを伴うものだと信じてきたんですが、違うんでしょうかね?」
と、敏子は答えた。
「でも、後悔をしたくないという思いがあるから、失敗をしないという気持ちにもなれる。でも、失敗を恐れることで、却って予期していない方向に向かってしまっているということも結構あるもので、後悔が先か、悔しさが先かという問題にもなりそうな気がします。後悔するから、悔しいのか、それとも悔しいから後悔するのか、それこそ、ニワトリが先か、タマゴが先かという禅問答を地で行っているようなものではないかと思うんですよ」
と、山岸はいう。
二人は結構気が合うのか、よく呑みに行ったりすることが多かった。今の話も、ある日呑みに行った時の会話で、敏子の中で気になって、記憶に残っている会話だった。
元々山岸がいた商社というのは、以前エコモプライズも取引をしていた会社だったが、ある日突然に、取引を切られたのであった。
地域の本部がこの近くにあったので、支社という形で。それなりの事務所を構えていた。この界隈で地元大手でもない限り、大きなビルのワンフロアを事務所にできるところなどなかなかないと思われていたので、かなりの売り上げがあった。
普通の会社であれば、炊事場に一つか、応接セットの近くに一つくらいの多くても二つがいいところであろうが、この商社は四か所にも置いてくれていた。
しかも、水の供給量が一つでも多く、他の会社の五倍くらいの消耗だったのだ。これは本当に大口であっただけに、切られてしまった時は、さすがに会社でもショックが大きかった。
しかし、考えてみれば、それも当たり前といえば当たり前のことで、これだけの消耗品は、会社の経費節減ということでは、最初にやり玉に挙がってしかるべきであろう。
そう思うと案の定、その商社は、今までのビルから引っ越して、かなり手狭な事務所へと移転した。
しかも、それぞれの部署が別のビルにしか入れないということで、分散してしまったことでの経費も節減しなければならなくなっていた。
それでも、前の一極集中のビルよりもマシなようで、いきなりの契約解除は、やむ負えないほどの経費節減を迫られてのことだったようだ。
それだけ、今までが経費の無駄遣いとしていたということで、経費を垂れ流していることが分かってくると、大改革をするしかないということになったようだ。
エコモプライズだけでなく、今までの主要取引先であった会社であっても、容赦はしなかったようだ。
今までは、営業を掛けるなら、ここほど楽なところはないと皆いっていたのだが、急に掌を返したように、条件も厳しくなってきた。そもそも、厳しい条件での契約でなければいけないものまでズブズブだっただけで、本来なら、今の状態が本当なのだ。
お互いの営業も、ナアナアで楽をしてきただけに、今後の付き合い方も難しくなった。今までは口約束だけで、お互いにいいところで着地していたが、そうもいかなくなった。
どちらからか、約款のようなものを作らなければいけないようで、取引会社の方が、他の取引先とのノウハウを元に作成し、商談を重ねることで、形にしていった。
約款を示すことのできない会社とは、取引をしないという条件で、業者の再選出が行われ、かなり取引会社の規模も縮小することになったことで、販売先も同じように、規模を縮小することになる。
どこを残すかなどという問題が残ったが、こちらも、結句スムーズに選出できた。
やはり、約款を示せないようなところは、相手から取引を断絶すると言ってきた。想像していた通りだったのかも知れない。
全体的に営業規模を縮小してくるのは、
「取引先の選別により、無駄をなくすことで、贅肉太りしないような経営をすることで、不況になっても、負けない体力をつけることが先決だ」
ということであった。
そんな商社に勤めていた山岸は、自分がいた頃に、エコモプライズの存在を知っていた。
「いつもサポートの人が、消耗品を持ってくるのを見ていると、他の業者と少し違っているのを感じたんです」
と、山岸は言った。
「どういうことですか?」
と聞くので、
「他の業者の人たちと比べて、動きに無駄がなかったんですよ。それで、何が違うのかと探ってみると、他の会社は、営業と補充を兼ねているんですよね。だから、商談と一緒に補充もできるので、内情をよく分かった営業が打てるんでしょうけど、どうして、数を裁かなければいけないというノルマがあるので、補充が荒くなってしまったり、手際よくしているつもりであっても、そこに無駄ばかりが存在するので、思ったよりも時間がかかってしまう。でも、時間がかかる分、進んでいないので焦りが伴う。テキパキと動いているつもりでも、先に進んでいないのは、悪循環が引き起こしているんでしょうね。しかも、その悪循環ということを分かっていないのが、大きな問題なんでしょうね。でも、エコモさんは、そんなことはなかった。サポートのプロなので、サポートだけに専念できるので、身体にしみついた動きだけをしていればいい。テキパキしているのに、無駄がない分、実際には丁寧なんですよね。まわりには、丁寧さしか伝わらないから、会社に対してのイメージは最高なんですよ」
と山岸が言った。
「うちの会社にいいイメージを持ってくれていたので、この会社に入りたいと思ってくれたんですか?」
と敏子が聞くと、
「ええ、まさにその通りです」
と山岸は答えたのだ。
「パートのような非正規雇用ですが、よかったんですか?」
と、聞くと、
「ええ、今のところは満足しています。でも、そのうちに正社員になりたいと思うかも知れませんね」
と、敏子を見つめながらいうと、
「ええ、そうかも知れません。でも、今はこれでいいのです」
というので、
「じゃあ、正社員になりたいと思った時は言ってください。私の裁量で決めますからね」
という敏子に対して、ニッコリと笑って、会釈をした山岸だった。
「ところで、この会社のような浄水器を扱っている会社というのは、他にも結構あるんですか?」
と、山岸に聞かれた敏子は、
「結構あるとは思いますが。このあたりには、そんなにはないかも知れませんね。どうしてなのか、似たような会社が同じエリアには存在しないような気がするんですよ。特にうちのような浄水器のような会社はね」
という返答を聞いた山岸は、
「どうしてですか?」
と訊ねた。
「浄水器は確かにいろいろな使い道があって便利なんですけど、水道の水を浄化するだけであれば、蛇口に取り付け方の簡単なものもありますから、同業他社は少ないかも知れないけど、似たような業種を数えると、結構なものになりますね」
と敏子は答えた。
「なるほど、同業他社と言えるかどうかというきわどい会社の存在ですね」
「ええ、他の業界では、これも同業他社というかも知れないというところが曖昧と言えば曖昧ですね」
と、答えた。
「話は変わるんですが、白鳥さんは、何かご趣味はお持ちですか?」
と、またしても、大きく話の内容が変わったものだ。
山際と話しをしていると、結構脱線することがある。
「どうしても、決まった時間に話をしようとすると凝縮して話さなければいけなくなるので、結構時間配分と、どこを話のクライマックスとして持っていくかということがテクニックというものなんでしょうね。私の趣味ですか? そうですね。料理を作ることかしらね」
と、敏子は答えたが、それを聞いて唸るように頷いた山岸だったが。きっと、同じようなことを考えていたのだろう。
それが、話を変えた自分への回答に対してなのか、それとも、趣味のことなのか最初は分からなかったが、そのうちに、
「自分一人で楽しむことを趣味と考えるその思いは、敏子さんにもあるようですね」
と答えたので、最初の話を変えたことへの返答にはスルーしたということは、そちらに関しては何ら反対意見はないということであろう。
だが、趣味に関しても少しトンチンカンに見える答えは、却って彼がどこまで同調できたのかということを示しているかのように感じられるくらいだった。
「白鳥さんも、私も同じように一人でする趣味なのは嬉しいですね。でも、私のは、少し子供っぽいんですけどね」
と言って少しもったいぶったので、
「ご趣味は何なんですか?」
と聞くと、
「プラモづくりですね。結構楽しいですよ」
「どんなジャンルをお作りになるんですか?」
と聞くので、
「お城や、建物とかが多いですかね。細かいところを要求されるものが多いです」
と言って笑っていたが、彼が日本古来の古風なものが好きなのだろうと思うと、いかにもと感じるくらいだった。
そんな話をしていると、急に、鼻が詰まったような感覚がしてきた。
――何だろう? この臭い――
と思っていると、
――とても嫌な臭いのくせに、我慢できないというわけではなく、次第に臭いに慣れていく自分が怖いくらいだ――
と感じていた。
そう思うと、急に子供の頃が懐かしくなり、子供の頃を思い出していた。
思い出したそのわけが、この臭いにあり、この臭いが何かということが分かったような気がした。
――そうだ、この臭いは、シンナーの臭いだ――
と感じたのだった。
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