第2話 人事権の掌握
前章において記したように、ここ最近は街中に、アルコールの臭いが充満していて、それが慣れになってしまっていることで、嫌な臭いと感じなくなっていた。
アルコールというのは、独特の臭いがある。しかし、考えてみれば、酒好きの人であれば、アルコールの臭いが嫌いだというのは、どこか矛盾しているのではないだろうか。もし、アルコール臭が嫌だというのであれば、お酒も飲めないということになるだろうからである。
嫌いなのかも知れないが、アルコールの臭いで、
「どこか懐かしさを感じる」
と思うのも無理もないことのように思うが、いかがであろうか。
アルコールの臭いだけではなく、マスクにしても、店によっては、今も予防策を徹底しているところもある。ソーシャルディスタンスを取っている店、検温を実施している店、換気を徹底している店、どれk一つだけを実施しているという店は却って少ない。徹底しているなら、そのすべてに関して徹底していて、ひょっとすると、以前感染者を出したり、クラスターを発生させたりしたことのある店だったのかも知れない。その時の影響が大きくて忘れられないのではないだろうか。
そもそも、今では当たり前のように使っているが、ソーシャルディスタンス、クラスターなどという言葉。さらには、最初に記したパンデミックという言葉でさえ、数年前まではまったく使ったことのない言葉ではなかったか。
かくいう作者も簡単に使っているが、本当に言葉として正しいのか、少し疑問だった。特に、
「パンデミック」
という言葉の使用法がこれでいいのか、それが気になっていたのだ。
最初にパンデミックが起こってから、数年が経っていたのだが、今から思えば、最初に騒がれ出した時がついこの間のように感じるのに、それ以前の世界が、遥か昔のことだったように思える。
それだけ世界の光景が一変してしまったということなのだろう。
そんな世の中にあって、あの世界的なパンデミックは、
「自然界が人類のもたらした試練だ」
と、真剣に考えている女性がいた。
彼女は、名前を白鳥敏子という。
「悪は何であっても許せない」
という勧善懲悪の考え方を、かなり極端に信じ込んでいる人だった。
ただ、それだけにまわりに合わせることができず。次第に一人でいる機会が増えてきて、二十六歳になった最近は、友達と言っても、挨拶をするくらいのものであり、ほぼ、知り合いというのと変わらなくなっていた。
可愛らしい顔立ちをしているので、幼く見られ、甘えん坊に感じられるのだが、実際には冷静で甘えなど逆に許さないというくらいの性格になっていたのだった。
会社では、総務課に勤めていて、寺務的な仕事のように、一人でコツコツとこなすことは彼女にとっての本望でもあった。自他ともに認める、
「天職だ」
と言ってもいいかも知れない。
実際に、誰かと仕事をしているよりも、一人でこなしている方が仕事も早い。彼女の場合は適材適所ということだったのだろう。
総務部においての仕事は、結構いろいろであった。備品管理、社内ネットワークの管理、人事の業務、社内規則の立案など、さまざまである。
もちろん、部内会議や、プロジェクトができれば、プロジェクト内での定例会議などがあるだろうが、基本的に決まったことを進めていくのは、ほとんど一人であった。
ここ数年は、伝染病関係の業務もあり、結構忙しかった。
自粛やテレワーク推進などにより、協力した場合は、国から協力金が貰えるということで、その手続きであったり。リモートワークをするための、ネットワークの設定、さらに、テレワークの際の社員規定であったり、推進に関しての決め事など、結構行うことはたくさんあった。
さらに社員が感染した場合の対応や、自治体に対しての報告、指示伝達なども総務の仕事だ。普段の業務だけではなく、それらのことまでが絡んでくるので、結構大変なことなのだろう。
彼女は、地元の短大を経て、この会社に入ってきた。
入ったこの会社は、エコモプライズという名前で、浄水器を販売、あるいはレンタルしている会社だった。
販売の場合も、レンタルの場合も、相手の会社の消耗品をサポートする仕事も請け負っていた。
つまり、大きく分けると、販売、レンタル関係の営業を行う営業部と、消耗品のサポートを行う、サポート部と、事務経理一般を取り扱う総務部の三部門で構成されている。
社員は、五十名くらいであろうか。それほど大きな会社ではないが、地道に地元でコツコツと営業を行い、幸いなことに、同業他社がいないことで、あまり大きな波もなくやってこれた。
それでも、昨年までのパンデミックによる社会全体の業績不振に巻き込まれる形で、業績を減らしてしまってはいたが、浄水器の機械は、却ってこういう時代だからこそ、重宝されたりしたのだろう。痛手としては、テレワーク促進にての、出社が少なかったり、店舗であれば、自粛による一時的な閉店であったりした影響で、売り上げはかなり落ち込んだが、それでも、出社を余儀なくされている会社では、却って浄水器を使う機会が多いようで、結構使ってもらっている。どうやら、水として使う場合以外にも、コーヒーやスープなどにして飲んでいる人が多いようで、その分、普段よりも、一斗単位で例月よりも多いような気がする。
敏子は、会社では、どちらかというと嫌われていた。総務という部署というのも、まわりから疎まれることが多い。
何かの承認を得る場合も、部署長の承認以外で、総務部の承認を必要とすることが、この会社には往々にしてある。
営業というと、必要経費などがあり、例えば営業に際して、クライアントのために、営業を掛けるうえで必要ないわゆる接待費であったり、接待が深夜まで及んで、終電がなくなった場合のタクシー代や、ビジネスホテルなどへの宿泊費などがその分の経費として認められたりするのだが、最終的な判断は総務に任せられる。
総務は経理も兼ねているので、どこまでが必要経費として認められるかということを判断する必要がある。もちろん、総務部のトップの判断になるのだが、総務部のトップが、部員に実際に相談しているというウワサがあった。
その部員というのが、敏子だというのだ。
実際に、総務部長からよく相談を受けるのは、敏子だった。
彼女の場合は、受けた相談に対して、いかなる理由で、その是非を答えているのかも、しっかり理由をつけて説明してくれるのだという。
敏子の理由説明は、まるで演説のようであり、それだけでも説得力は絶大なものであるのだろうが、
「白鳥さんの考え方を聞いていると、まるで、営業部長から、訊かされているかのようないかにも正論ともいうべき回答を、淡々と話されると、もう異論を唱える余地あないというほどに思えてくる」
というものであった。
一見、ポーカーフェイスな説得に思えるのだが、力の入れどころに、絶妙な技があった。そのおかげで、訊いている方は、説得力が一度も下方を向くということがなく、綺麗に坂を駆け上がっているように見えるのだが、その実、途中で一度気付かれないように下に下がって、その勢いを駆け上がるように、飛び出す勢いがあり、目に見えない力が説得力として彼女の中に君臨していることが、上司の考えが付け入るところがないほどに、相手を洗脳できているようだった。
つまり、意見は敏子からのものであるにも関わらず、説得している相手が、まるで、
「今考えていることは、最初から、自分で考えていたことなんだ」
と思わせるほどに、さりげなく相手の気持ちに入り込んでいるのだ。
この絶妙の、相手に触れるか触れないかという指触りのテクニックが、敏子の能力であり、いつの間にか、敏子という人物と話をしていると、話をしているだけで、何か心地よい癒しに感じられるということが、洗脳に繋がっているのだった。
だが、この洗脳は悪いことではない。別に悪いことをするために、相手の気持ちをコントロールするわけではない。営業の人だってそうではないか。相手の気持ちに入り込んで、いかに相手を気持ちよくさせて商品を販売するかが、営業テクニックと言われるものであろう。そういう意味で、敏子は営業に向いているのかも知れない。
だが、本人は、総務の仕事に固執しているようで、もし営業へ配属と言われると、たぶん、迷わずに退社を選ぶだろうと思っている。
もっとも、彼女を総務が手放すわけもなく、そんな転属など最初からありえないのだが、営業部長としては、彼女のような営業が一人でもいれば、部全体のノルマは、彼女がいるだけで達成できるのではないかと思うだけに、もったいないと感じられた。
「いつも、達成未達成ラインを行ったり来たりしていて、目標達成回数は、半分にも満たないが、未達成の時でもあとひと踏ん張りだと言っているのに、何が悪いのか、最後の力が足りないのだ」
と思っていた。
そんな中で、
「白鳥君がいてくれれば」
と、何度営業部長は思ったことか。
総務部として顔を合わせなければいけないだけに、余計に総務簿に白鳥敏子というだけで、余計に苛立ちが募ってくる。そういう意味で、営業の他の社員も、いつも領収書の件ではチクチクと苛められているだけに、苛立ちの思いはどうしても、顔から出てしまうのだった。
だからと言って、敏子が悪いわけではない。どちらが悪いかと言えば、ほとんど営業部の連中に勝ち目はない。彼女の正論に立ち向かえる人は影響にはいない。そもそもそこが営業部長の頭の痛いところであった。
必要経費を使わなければ、営業を取ってくることはまずできない。営業としてのセンスに欠けているのではないかと、部長は思っていた。
確かに部長の時代の営業とはかなり変わっていることだろう。
部長の時代は、バブルが弾けて、経費節減が一番の問題だった頃で、それまでほとんどの仕事を正社員ですべて賄ってきたのだが、経費の問題から、アルバイトや正社員にでもできるような仕事はその人たちに任せて、営業に専念するようになった。
その代わり、社員はグッと人数を減らされて、リストラという名の下、残っている社員も、さぞや毎日胃が痛い思いをしたことだろう。
「営業不振が続くと、リストラされる」
と、ビクビクしていた。
今では当たり前のようになったリストラという言葉も、バブルが弾けて、経費削減の中の、人件費削減という意味合いのリストラという言葉であった。
しかし本来のリストラという意味は、英語のリストラクチャリングという単語の訳である、「再構築」という意味であった。
本来の意味としては、組織の再構築という意味で使われていたが、日本で使うようになった時は、不採算事業からの撤退であったり、部署の縮小などに伴っての「従業員削減」、つまりは、人件費削減ということを差すようになった。
つまりは、合理化や、解雇という言葉がそのままリストラとして解釈されるようになtってきたのだ。
正社員を整理した後、業務を専門会社に委託するというアウトソーシングなどの考え方や、非正規雇用社員としての、パートは派遣社員などを雇うことで、経費を節減しようという考えである。
この会社も、そこまでひどいリストラ策を取ってきたわけではないが、今のところ酷い落ち込みもないので、社員としては安泰だが、これからの時代、いかにここ数年におけるパンデミックの影響が経済に及ぼす影響は計り知れないと言われてきた。
どこの企業もボロボロで、国家財政も疲弊している。
金をどこに掛けなければいけないのかということも見失ってしまうほど、国家愛誠はひっ迫していて、それを扱う人間もロクなものではない。
「増税増税で国民を締め付けて、かといって、社会福祉へのお金も滞ってしまう。医療費は国民に背負わせることにして、自分たちが積み立ててきた年金も怪しくなってくる。それなのに、政治家はこの期に及んでも、甘い汁を吸うことだけしか考えていない。利権と私欲の塊りが政治家だと断言してもいい時代になってしまった」
と、すでに国民に政府を期待する声などなかった。
もっとも、選挙にいかなかったのが有権者である。
「支持率が下がれば、与党が当然のごとく勝つ」
というのが、世間の通説である。
そこまで分かっていても、選挙にいかないのだ。
もっとも、野党がまったくもってだらしないので、
「あんな野党に国家を任せるくらいなら、どうしようもない今の与党の方がマシだ」
ということになって、与党が勝っても、しょうがないという図式になる。
そのくせ、世の中が悪くなってくると、率先して政府批判をするのが、選挙にもいかない連中だ。したがって、よくも悪くも、表に出てくるのは、何もできない、いや、参加しようともしない連中がただ吠えているだけなのだ。
政府ばかりが悪いわけではないという意見もあるが、まさしくその通りではないかと思えるところが、この国の現実を突きつけられているようで、恐ろしい。
「できることなら、政治家を誰かがリストラしてくれないかな?」
ということを思っている人がいたりするのだろうが、しょせん、後先のことなど考えてもいない人が、そんなことを考えているに違いないと感じていた。
敏子は、そんなリストラという言葉が流行った頃を知らないので、バブルが弾けた頃、そしてリーマンショックという大きな不況は知らない。しかし、今少しずつ忍び寄ってくるパンデミックによる不況の波を感じ始めていたのだ。
パンデミックの最中、自粛や販売に際してのかなりの制限があったために、中小の飲食店や、卸、製造と言った会社で、零細企業と呼ばれるところは直接、まともに商売に支障をきたすことになる。特にたくわえなどなく、自転車操業をしていた会社などは、数か月で先行かなくなる。
そもそも、自転車操業というのは、途中に赤字があっても、すぐに収入で、補えるというものなので、マイナスになった時点で、収入が当てにできなければ、坂道を転がり落ちるというわけだ。
国や自治体から補助金や協力金が出ると言っても、そこから、社員の給料や、仕入れ業者に払うお金。さらには、家賃など、出ていくものは補助金では鼻紙にもならないという程度である。
「じゃあ、営業しなければ」
という人がいるかも知れないが、いくら不況だからといって、従業員に給料を払わないというわけにはいかない。しかも、家賃にしてもそうだ。
もし、完全に休業状態になったとしても、協力金で賄えるはずもないのだ。
何度も自粛要請と、解除を繰り返しているうちに、
「何もせずに、死を待つくらいなら、罰金を払ってでも、店を開ける方がいい」
と思うのも当然だった。
「午後九時以降の営業、及び、終日酒類の提供は禁止」
というのが要請であるが、実際には、午後九時を過ぎても営業を行い、さらには、店を開けている間、酒類の提供は行うのだから、要請も何もあったものではない。
そうなると、自粛もあったものではなく、律義に要請に従っている店が開いていないので、客は当然、開いている店に集合する。
となると、店は密になってしまい、何のための自粛要請なのか分からなくなるだろう。
これは、完全に国のせいである。
国が原因を作ったというわけではなく、精神的に追い詰めたと言った方がいい。
何と言っても、何の根拠もなく、なぜ自粛しないといけないのかということ。そして、今後の展望などを、ハッキリと示してくれれば、納得したうえで、自粛もするというものだが、理由も言わない。保証も中途半端。しかも、お願いと言いながらも、恫喝してくるような状態に、お店側も、ウンザリどころか、
「このままだと国に殺される」
と思ったとしても当然だろう。
だからと言って。要請に従わないのがいいのかどうか、その答えは分からないが、お願いや命令を出すのであれば、それ相応の理由を言わなければ、誰が従うというのだ。
それを考えると、切羽詰まった店側を責めることもできないだろう。
おかげで、実際に自粛を守ったらどうなるかということが目の前に迫った時、冷静企業の店主は、
「このまま、何もしなければ、どんどん借金が重なって行って、どうにもならなくなる」
と判断し、
「今なら、最小限の被害で済む」
と判断した人も、相当数いただろう。
中には、
「どうせ、行政が守ってくれるはずもないんだ」
と、早々に政府の正体を看破したことで、被害を少なくできた事業主もいたことだろう。
しかし中には、一大発起ということで、思い切って開業した人だっていたはずだ。
「俺の人生一度キリ」
という覚悟を持っての事業だったことだろう。
だからこそ、うまくいかなかった時の引き際を最初から考えている人もいて、ズルズルと深みにはまらないことをモットーにしていた人だっているはずだ。
それがいいというわけではない。それぞれの人に事情があるであろうから、しかし、この人は最善の選択をしたと思っている。世の中にパラレルワールドが存在したとしても、他の世界を覗くことは不可能なのだから……。
それを思うと、早々と思い切った人というのは、日頃から準備を進めていた人なのかも知れない。やはり毎日をつれづれなるままに過ごしている人には、その発想はできたとしても、思い切ることはできないだろう。
ただの選択肢の一つということで、見えていても、選択肢は最初からありえない。そう思うと、世の中がいかに世知辛いのかということを、思い知らされた気がした。
敏子は、総務部の中で、人事権を結構持っていた。特に非正規社員の採用に関しては、会社から一任されていると言ってもいいかも知れない。
もちろん、最終面接など、役職者の面接や、何人までなら雇っていいなどという重要部分は一人では決められないが、4実際の採用に際しての面接の段取りであったり、採用後の部署配属を、部署長と詰める役は一任されている。そういう意味で、総務部内での人事権を一人掌握していたと言ってもいいだろう。
そんな敏子が昨年採用した社員が、三名いたのだが、そのうちの二人は、昨年まで飲食店を経営していた、店主経験者であった。
「元々脱サラまでして始めた店だったのですが、さすがに自転車操業が続いていたこともあって、一回目の緊急事態宣言の時に、すでに先行かなくなって。さすがにそれ以降の営業を断念するしか選択肢はなかったです。早々と店を畳んで、何とか被害が一番小さなところで店を閉めることができたので、選択は間違っていなかったと思っています。何といっても、誰も先が予想できませんでしかたらね。退くのも地獄、続けるのも地獄ということで、老舗のお店の店主は、どうしても営業にこだわって、継続させていましたが、国や自治体が迷走を始め、混乱があまりにも惨めな状態になってくるのを見て、マスコミが放送しないその裏で、どれだけ悲惨なことが起こっているのか、分かりますからね。それにしても、マスコミというのは酷いものです。宣言が発令されるたびに、店に意見を聞きに来るくせに、潰れていく店の実態を放送しようとはしないんですからね。それを思うと、やるせなさしかなかったですね」
と言っていた。
敏子は、そんな店主たち三人を最終面接に送り、三人とも、最終面接で採用が決まった。元々、三人くらいを雇い入れたいという話を上層部から聞かされて、初対面から吟味してきたので、最終面接までに三人に絞っておいたというわけだ。
そこまでの権利を与えられているので、最終面接は、ほぼ形だけだったと言ってもいいだろう。
雇い入れた三人は、それぞれの部署に、一人ずつ配属することになっていた。この配属の権利も、敏子が握っていた。
もちろん、上層部が最終面接を経て、
「彼を営業部に」
という話を具体的にしてくれば、その通りにするのだが、それ以外何もなければ、配属人事は敏子の仕事だった。
そのうち総務部には、山岸という男性を配属させた。
山岸という人物は。元々中華料理屋をやっていたという。他の二人は、親から受け継いだ二代目店主たちだったが、山岸だけは、脱サラをしての、起業という一念発起だったのだという。そこに敏子が目を付けたのだ。
今回の最終面接で、上層部からの要望がなかった。上層部としては、今回の採用を、ほぼ、ここ一年くらいで退職した人の補充くらいにしか考えていなかったのだ。
そもそも、今回の採用も、敏子が上層部にお願いしたことからだった。営業部からも、サポート部からも、
「補充があればありがたい」
という話をされていた。
総務部としても、もう一人ほしいというのも事実で、その一人というのが、敏子が自分のサポートをしてくれる従順な人がほしいという思いからだった。
敏子が、山岸を総務部に雇い入れたのは、彼が脱サラからの起業ということで、
「サラリーマン経験がある」
ということが一番の理由だった。
「サラリーマンをしていると、人の使い方などはいいと思うんですが、どうしても職人としての気概のようなものはないので、店を始めた時も、職人気質の人を、従業員として雇うという気持ちが前のめりになってしまい、職人肌の人が、結構自我が強いということは聞いてはいましたが、どれほどのレベルカマでは知らなかったんです。自分で想像していたよりもさらにすごいだけの気質に、私の方が気おくれしてしまい。なかなか店主としてうまくまとめることができなかったのが、反省点でした。やはり脱サラからの起業というのは、結構難しいものがあるんでしょうね」
と山岸はいって笑ってた。
彼の入社がちょうど半年前。そんな反省を口にするということは、その心の裏には、
「新しく入った会社では、店主の時の苦い経験を生かして。今度こそ、人心掌握をうまくやりたい」
という気概をしっかり持っていると思ったことで、総務部に配属させたのだが、その思いは間違っていなかったようだ。
起業する前のサラリーマンの時代も、総務部に所属していたという。
その時は、備品や社内在庫、物流経費などの業務を行っていたという。敏子もそういう雑用的な部分も担ってきたこともあったので、自分がパンクしかかっているのを感じていた。
特にパンデミックの時代にどこまでできるのかということを考えながらやっていて、混乱の中、何とかなったのは、きっと気力だけはしっかりしていたからだろう。
だが、もしまた似たような混乱があった時、再度うまくできるかというと、さすがにきつい気がした。そこで、自分の業務の一部分でも他の人に任せられればいいと思っていたが、総務部の現社員だけでは、皆がほぼ手一杯だった。
そこで、総務部の雑用的なところを一手に引き受けてくれる人材が欲しかったのだ。それも今回の採用を上層部に進言した理由でもあった。
「どの部署も、一名ほど採用してほしいという要望がありましたので、私から進言させていただきました」
と言って、上層部が承認することで、今回の採用が実現したのだが、総務部的には新たな人材を入れたことは正解だと思っていた。
しかし、彼らが入社して半年ほどすると、いろいろ歯車が狂ってくることになったのだった。
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