臭いのらせん階段
森本 晃次
第1話 臭いについて
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ただし、小説自体はフィクションです。ちなみに世界情勢は、令和三年八月時点のものです。それ以降は未来のお話です。またしても、世相、政府がどこかで聴いたようなお話になるかも知れませんが、皆さんのストレス解消にでも役立てていただければいいと思います。当然(あくまでも)フィクションです(笑)
数年前に起こった世界的パンデミックのせいで、すっかり社会はそれまでとは、あるべき姿が一変してしまっていた。それまでの常識が常識ではなくなり、怪しいと思われていたような姿が今では当たり前となっていた。
パンデミック前では、冬のインフルエンザの時期、さらには、春秋の花粉症の時期以外で、マスクをしている人の姿が見られれば、
「あの人、不審者ではないか?」
などと言われていたはずである。
しかも、以前は、当該の時期であっても、全員が全員マスクをしていたわけではない。インフルエンザ患者が近くにいたり、学校などで、着用命令が出されたりしている場合以外を除いては、そこまでたくさんの人がマスクをしているというわけではなかった。
しかし、パンデミックになると、ほぼ全員の人がマスクをしている、店に入る時や、公共個通機関などで、マスク未着用の場合は、入場拒否が起こったりしていた。
感染状況が爆発的になってくれば、当然のことで、次第に、マスクをする日常が、当たり前になってくるのであった。
そんな毎日に慣れてしまうと、マスクをせずに外出しようとすると、
「何かおかしい」
と、自分でも気づくようになり、マスクをしていない人が歩いているのを見ると、いつの間にか、その人を避けているのが分かるのだ。
しかも、マスクをせずに出歩いている人を見ると、蔑んだ目で見てしまう自分がいるのだが、そのことについて、反省などはない。そういう連中は、
「睨まれて当然だ」
と思うし、実際にそうなのだろう。
蔑んだ目で見る人は自分だけではない。相当な人間が見ているはずで、逆に蔑んで見ているわけではない人の、神経を疑ってみたくなる心境になるのも、当然のことではないだろうか。
パンデミックが全世界で流行り出した時は、最初の一年くらいは、何をどうしていいのか分からないという感じで、迷走を繰り返していたように思えるが、二年、三年と経つうちに、各国とも体勢も整って行き、収束しないまでも、落ち着いてくるものであったのだが、日本という国は、そんなことはなかった。
二年。三年と経っても、まだ政府のやり方は最初と同じことを繰り返しているだけで、まさに政府自体が、無能を曝け出している形になっていた。
とはいえ、国民もバカではないので、何が悪いのかということは少しずつ分かってはきていた。
戦犯といえる人間を考えてみると、一番悪いのは、
「感染対策を無視し、自分本位で、感染症に対して、自分は罹っていないので、関係ない」
と思っている、一部の輩であう。
「若年層は、重症化しない」
などという情報だけに惑わされて、自分さえよければいいという馬鹿者どものせいで、市中感染が広がり、広がったがゆえに、飲食業などの営業を制限するという行政の対応に至ってしまい、自分のことを棚にあげて、
「行政が悪い」
などと、平気で言っている連中が、やはり、一番の戦犯ではないのだろうか。
二番目に悪いのは何かというと、
「マスコミ、いや、マスゴミであろう」
と言われている。
彼らは、
「ジャーナリストとして、正しい情報をいかに正確に伝えるか」
ということがモットーであるべきはずなのに、政府から発信される内容、あるいは、世間で起こっている事件などを、興味が湧くように、そして、記事に興味を持たせるということを優先させることで、
「切り取り記事」
というものが多くなってくる。
その切り取り記事において、記事の手法として、
「不安であったり、政府批判というものを、必要以上に煽る」
ということが行われている。
それは、完全な情報操作であり、これは、大日本帝国時代の大東亜戦争戦時下における、軍によっての(あくまでも政府ではない)情報操作と似ているのではないだろうか。
ただ、今のマスコミは外圧によっての情報操作ではなく、日本国憲法で定められている、
「報道の自由」
というものを盾に、行われている情報操作である。
ネットに出ている記事などを見ると、明らかに、そのタイトルを幅広く理解させるような曖昧な形で書かれていて、思わず見てしまうというやり方である。
以前からあったことではあるが、例えば、
「大物俳優夫婦、離婚」
という、タイトルを一面に大々的に書いて、駅の売店などに置かれていると、通勤客はそれを見て、
「えっ?」
と思うことで、思わずその新聞を手に取って買ってしまう。
しかし、実は離婚という文字の後ろに小さく、「か?」と書かれていて、
「大物俳優夫婦、離婚か?」
というのは、正しい記事であった。
断定的な記事だと思わせておいて、人を騙すようなやり方は、誇大表記であり、今では大きな問題になるが、昔は問題ではあったが、
「しょうがないな。あの新聞社ならやりかねない」
という苦笑いで済んでいたのだ。
新聞を買った方も、
「騙された俺たちがやられた感があるだけだ」
と、簡単に諦めていただろう。
今は、タイトルを曖昧にすることで、読者の心理を捉えている。
今の誇大報道の問題は、断定的に描いてしまうことで、読者を欺くのだから、今度は曖昧に書くことで、断定ではないことで、自分たちの正当性を示しているのだろう。
だが、パンデミックの有事の際であっても、自分たちの会社の利益のみを追求し、マスコミという仕事のモットーを崩して。モラル崩壊につなげることでのやつらの罪は決して軽いものではない。
世の中を、政情不安に落とし込んだり、デマではないまでも。ちょっとしたことを、大きく感じるように書いてみたりするのだ。
そのために行われる手法として、
「切り取り報道」
というものがある。
たとえば、ある政治家の記者会見などの記事で、前後の言葉を繋げれば、正しい意味になるものを、インパクトというだけの理由で、肝心な部分を「切り取って」そして繋ぎ合わせるという方法で、読者や視聴者に錯誤を与える。それが煽りになることを、マスゴミは重々分かっているにも関わらず、結局は自分たちのためだけに、それが情報操作ということを分かっていながら、記事にするのだ。
そのため世論は、政府批判を行ったり、政府への不信感をあらわにしてしまう。あからさまな政治介入をしているわけではないが、やっていることはそれ以外にはないだろう。
ここまでの、一部のバカな国民、そしてマスゴミと呼ばれる連中の共通点は、何と言っても、自分たちだけのことしか考えていないということであろう。
そういう意味では第三番目の戦犯m同じことが言えるのだが、一番自分たちだけのことしか考えてはいけない連中である。つまり、それは一番公共性及び、拘束力を持った存在であるということなのだ。
三つ目の戦犯は、時の政府である。
もちろん、上二つに関しては。一番悪いのは、それぞれの連中なのだが、そんな連中をのさばらせたりした原因を作ったのは、政府だからだ。
確かに世界的なパンデミックが起こってしまったのは、自然災害に近いということで、どうにもならないことだったのかも知れない。
しかし、起こってしまったことで、次第に解明されていったり、諸外国での対応などを見て学ぶところが学んでいき、それが蓄積されることで、政府の政策が洗練されてくれば、政府としての責任は果たせていると言えるのだろうが、二年、三年も経っても、まったく最初と変わっていないというところが、腹立たしいのだ。
一番の問題は、国民に対して、緊急事態宣言の発出による、店舗の時短営業、自粛による一時閉店を余儀なくされたとしても、その理由をハッキリと言わないことだ。
マスゴミがしている質問に対して、レコードの針が飛んでいるかのように、どの質問をされても、同じことしか答えないという、まるで、一つの言葉しか喋ることのできない、
「喋るぬいぐるみ」
のようではないか。
そんなバカな連中の多い政府のいうことなのだから、誰がいうことを聞くというのだ。
確かに、自分のことしか考えていない連中がA級であるとしても、それらの人たちが、自分のことしか考えないようになったのは、政府が発信する、国民への言葉であったり、マスゴミによる情報操作なのだから、無理もないとはいえるが、子供じゃないんだから、大人がそんなことも分からないのかというレベルの問題だ。マスクをしないとか、大勢でたむろして、大声で喋りまくるなどと言った。真面目に生きている人たちから見れば、自殺行為に見えるのだが、やつらが自分で病気に罹る分には自業自得なのだろうが、人に移す可能性があり。しかも、感染者が増えてくると、医療がひっ迫し、そんなバカな連中が入院しているので、真面目に暮らしてきた人たちが、治療も受けられず、苦しむという何とも理不尽な世の中になってしまうのだった。
確かに戦犯という意味での順位は今の順番であろう。
しかし、こんな世界を作った原因というのは、順番的には逆なのではないだろうか。それを思うと、世の中に対する思いも若干変わってくるというものである。
どこまで信じていいものなのか分からないが、ある程度パンデミックが落ち着いてくれば、それらのことを検証する時間ができたというのに、人間がおろかなのか、
「喉元過ぎれば熱さ忘れる」
という言葉のように、嵐が過ぎ去れると、まるでなかったことのように、なってしまうのは、人間としての悪い部分なのかも知れない。
ただ、政府やマスゴミと違って、最前線で痛い目にあった人たちは、決して有事のことを忘れないだろう。
「もう、マスクをしなくてもいい」
と言われ出したとしても、一部の人たちは、
「マスクを外すのが怖い」
と思っている人もいるようだ。
「マスクがないと、気持ち悪い」
と、心配だというよりも、マスクをすることが安心に繋がるということが、マスクをする異議だと考えることで、まず句を外せなくなったのだろう。
きっと、まだ数年はマスクを外せない人たちがいるだろう。しかし、パンデミックが収まってくると、今度は、そんなマスクを外せない人たちの行動を逆手にとって。それを利用しようと考える輩が出てくる。
マスクをするというのは、何よりも人相が分からないということで、犯罪に使われることが多いのだ。
全員が全員マスクをしている時は、、犯罪どころではなかったのだろうが。一段落してくると、それまで収まりかけた世の中に、不穏な空気が淀んでくる。
だが、考えてみれば、パンデミックが起こる前は、当たり前のように犯罪が多発していて、小さな事件から大きな事件まで、新聞を賑わしていたではないか。
今から思えば、新聞やニュースになる記事が、まったく起きなかった日など、ありえない。
新聞のページ数に若干の増加現象があったとしても、社会面や総合面の記事がまったくないなどありえないだろう。
一日を取ってみれば、どの地域でも、新聞記事になりそうなことが、いくらでもあるのだ。
世の中、話題性には事欠かないということなのだろう。決して喜ばしいことではないことくらい。普通の理性を持っている人間であれば、分かり切っていることであろう。
さて、そんな世の中を、五年単位で遡ってみると、直近の五年間が、どれほど波乱万丈であったのかが分かるというものだ。
パンデミックが起こる前、そして、パンデミックが起こり、世界的に、世の中の光景が一変して、今までの常識が通用せず、新たな常識が、数々生まれてきた。
それが、有事というものであり、パンデミックというものだろう。
政府も支持率が最低で、デッドラインであったのだが、パンデミックのおかげで、政権交代も恐ろしいという意見と、今の政府ではダメだ。しかし、他に誰もいないという状況に、どのように考えればよかったのだろうか?
そんな世の中において、最近気になるというか、パンデミックの時から執拗な感覚であり、最近では慣れてきたはずなのに、慣れながら意識をしているのは、別に嫌いではないからだろう。
それは臭いであった。
何の臭いかというと、消毒のためのアルコールの臭いである。パンデミックが流行り出した時から、店舗の前、会社の前、自宅の玄関の前と、いたるところに備えられているアルコール消毒の容器、店に入るにも当然のごとく、アルコール消毒が当たり前になった。
そういえば、以前に読んだ小説の中で、神経質で潔癖症の人を表す言葉として、
「人が自分の机やいすに触れたというだけで、いちいちアルコール消毒をしたってくらいの人」
というような表現があったくらい、以前は却って相手に失礼だという感覚だったものが、今では消毒をしないと、白い目で見られる。マスク着用とセットのようなものである。
そんな時のアルコールの臭いであるが、以前は嫌いだった。まるで病院のような臭いだと思っていたのだが、パンデミックになってから、どこにいってもアルコールの臭いがあるので、却ってその臭いがしてこなければ、不安に感じるくらいになっていた。
それだけに、アルコールの臭いが、好きになってきたという人も少なくはないのではないだろうか。
そんな中において、最近起こった事件の中で、臭いが影響しているものがあった。まずは、最初の発端になった事件について話をしなければならないと思う。ここ最近において、世の中にアルコールの臭いが蔓延ってきたということは、伝染病予防という広義の意味で、パンデミック予防が、他の伝染病関係においても、効力を示してきたというのは、ケガの功名だったかも知れない。
少なくとも、パンデミックの間、季節風インフルエンザがほとんど流行らなかった。
例年であれば、予防接種を十月うらいから開始して、年が明けても、予防接種の予約ができるくらいだったが、パンデミックの間は、十月中旬から予約を開始できるようになっても、一週間もして病院に予約を入れようとすると、
「今年のインフルエンザの予防接種の受け付けは終了しました」
と言われるのだ。
パンデミックにインフルエンザ。とりあえず、昔からのインフルエンザの予防だけは確立されているのだから、予防接種を確実に打とうという人がほとんどなのだろう。
「一緒に罹ってしまえば、目も当てられない」
とでもいう感じであったが、幸いなことに、パンデミックの間はインフルが流行することはなかったのだ。
その原因として、
「伝染病予防のマスクやアルコールが功を奏しているのだろう」
と言われているが、その時に流行っている伝染病との関係が明らかになっていないことで、実際には何も言えないのだろうが、
「流行っている伝染病のウイルスが強いおかげで、インフルエンザウイルスが死滅してしまうのではない?」
という考えは成り立つのではないかと思われるが、その確証は得られていない。
少なからずの影響はあると思われるが、確証がないだけに、迂闊なことは言えないのだ。
それを思うと、伝染病が他の伝染病の効力を打ち消すということがあるのだとすれば、
「目には目を、歯には歯を」
という言葉にもあるように、敵対するウイルスが、特効薬として使えるのではないかということで、そっちの筋から重ねられている研究もあるのではないだろうか。
そんな状態で、パンデミックがある程度収束してきても、ウイルスg死滅したわけではない。どういう意味で、アルコール消毒は日常でも行われるようになり、マスクもしている人はしているという状況になってきた。
変異を繰り返し続けてきた悪性のウイルスは、落ち着いてはいるが、いつまた変異して活発になるかも分からない。
しかし、人間というものは、危機が少しでも背を向ければ、ある程度忘れていくものである。
「身に染みていたはずなのに」
と、一度罹った人も治ってしまうと、まるで他人事という感覚であろうか。
それを思うと、恐ろしいという感覚であり、街中に溢れているいろいろな臭いは、ひょっとすると、いろいろな悪臭が混ざり合って、却ってうまいバランスで、無臭になっているだけなのかも知れない。
臭いがまったくないなどという物質はほとんどないと思われること考えると、無臭という状態は、無臭になる可能性がある、実に稀な状況を作り出した、素晴らしいと言えるくらいの偶然なのかも知れない。
そんな中で、臭いのきついものは他に何かあるか?
と言って皆は何を思い出すだろう。
昭和の時代ほど、町工場がいたるところにあるわけではないので、ピンとこないかも知れないが、今でも工業地帯と呼ばれるところは、昔ほどではないまでも、、公害の元になったであろうと言われる、煙突の煙や、下水などという悪臭を放つものは存在していることであろう。
それを思うと、新たに次から次へと発生する新型ウイルスというのも、元々の公害問題からの波及かも知れない。
「どこかの兵器開発が元になったのではないか?」
という話もあったが、根拠としては薄い。
その理由としては、自然環境に配慮した新たな開発への取り組みが行われているにも関わらず、頻繁に発生する芯がTウイルス。これは自然現象と考える方がいいのかも知れない。
ただ、人工的に作られたものであれば、
「開発をやめさせることで何とかなることだが、今の科学力で、自然現象によって生まれるウイルスを発生前に予防することは、ほぼ不可能に近いだろう。発生してしまえば、発生したで、それをいかに解決するかということが問題になるのだろうが、そう考えると、自然現象に比べて、まわりからの圧力で何とかなる場合もあるのではないか?」
と考えられるのではないだろうか。
自然発生のよるものは、基本的に、そのウイルスの全貌を知ることがスタートラインだ。
しかし、このスタートラインに立つだけでもどれだけの労力と頭脳の終結、さらに時間が必要となるかということを考えれば、一つの禍の根を断ち切るということがどういうことなのかを身に染みて誰もが感じることになるのだろう。
考えてみれば、二十一世紀になってからというもの、一国だけに限らず、せめて地域単位で流行した伝染病がいくつあるというのだろう。
そのうちの数個しか日本に影響を及ぼしたものはなかったのだろうが、数個でも多いのではないかと思う。
伝染病にはいろいろな特徴があり、感染力の高いもの、致死率が高いもの。また感染経路によっても、いくつかの種類に分けることができる。
たとえば、血液感染、空気感染、接触感染、飛沫感染などである。
さらに、もう一つ厄介なのは、潜伏期間の問題である。
数時間から数週間のものもあれば、長いものでは、五年から十年というものもある。
それが一番致死率が高い病気というだけに、恐ろしいものである。
やはり何と言っても恐ろしいのが、重症化率と、致死率などの関係であるが、かといって、一日の感染者数を甘く見てはいけない。
政府が途中で、
「感染者数は増えては来ているが、重症率はそうでもない」
などと、寝ぼけたことを言っていたが、気付けば医療はひっ迫し、医療崩壊が起こっているのに、そのことに一番気付いていなかったのが、政府だという、何とも情けないことになっていたことがあったくらいだ。
政府は、方針は口にするが、それについての具体的な指示は国民にはしない。
「国民を縛るわけにはいなかい」
というようなことを言っていたが、そんな甘っちょろいことを言っている場合ではないといことは、小学生にだって分かりそうなものだ。
一番危機感がなく、さらに頭が悪く。さらに判断力のない連中が、政府で政局を握っている連中だということは、これほど恐ろしいこともないのだろう。
もちろん、政府にばかり文句を言っていても始まらないということは分かっているが、最終的には方針を決めるのは政府だ。少なくとも、国民を導いていかなければいけない人たちがこれほど情けなく、しかもトンチンカンだということは、どうしようもないことなのだろうか。
ハッキリ言って、問題になる連中に、問題意識すらないのであれば、情けないで済まされることではない。
もうそうなると、税金泥棒のレベルではない。
「国民は、瓦解する政府の道ずれに、集団で殺されていくようなものである」
と言えるのではないだろうか。
「国民が政府に殺される」
そんなバカげた世界が今の時代に存在するのか?
いや、国民が平和ボケで世界がどうなっているのかを知らないだけである。
「いい加減にしてくれよ」
と、全国民が心の中で言っているのが聞こえてくるくらいである。
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