第5話 ひとときの休息と、昔語り
「お兄ちゃん。出たよぉ」
「ああ、沁みなかったですか? 此処」
「へいきー」
ノーマッド2階。円柱を四分の一にしたような形状のシャワーブースから出てきたミユは、傷ついた頬を指さされて頷いた。身に着けているゆったりとした部屋着とスリッパは、船内で見つけたものだ。アズマを見上げる幼女は重たい頭をふらつかせ、瞼が半分閉じている。緑色のキャップのついた医療用スプレーを手にした男が首をかしげた。
「一応、これもう1回つけときます?」
「んーんー。だいじょぶ」
「そうですか。……今日は色々あり過ぎて、疲れちゃいましたよね。もう、寝た方が良いかも」
「……んー」
曖昧な表情でアズマに頷いたミユが促されるまま個室の前に立ち、スライドしたドアの向こうに広がる自分用のスペースを見渡した後、男を見上げた。
「ここ、ミユだけのお部屋なの?」
「ええ。丁度良いんじゃないですか? 六畳くらいだし」
「このベッドも、ミユがひとりで寝るの?」
「はい」
寝台を指さした幼女に、男が頷く。格納庫に置かれていた時は全体が外装で覆われていたノーマッドだったが、今はその一部が展開していた。横長のガラス窓からは雲海に沈みゆく夕日が見えており、毛布とシーツが茜色に染まっていた。
「あのね」
「はい?」
「お父さんとお母さんは、ミユと一緒に寝てくれたんだよ」
「でしょうね」
アズマが笑顔で頷く。しばらく男を見上げていた幼女は俯き、ベッドに上がってころんと横になる。
「おやすみなさい、ミユさん」
「お兄ちゃん」
沈んだ表情のミユに毛布をかけたアズマが振り返ると、毛布から顔だけ出した幼女が丸々とした頬をほんのりと膨らませていた。
「ミユ、まだ眠くない」
「そうですか。でも、とにかく横になって身体を休めた方がいいですよ」
「楽しいお話してくれる?」
「え? ……うーん」
「あっ」
一度顎に手をやった男が足早に部屋を出ていく。閉じたドアの前で、幼女が顔色を変えた。会話が無くなり、船体下部から発せられる駆動水晶の唸りだけが聞こえる中、空色の視線がせわしなく動いて吐息が震えた。
「ご、ごめんなさい。いっぱい、やさしくしてくれてたのに、ミユ……」
か細い声が、幼女にはいささか広すぎる室内に溶け消える。ベッドから身を乗り出したミユが円らな瞳を潤ませた。
「ごめんなさい。わがまま言ってごめんなさい。戻ってきて……」
「あったあった! ……危ないですよ?」
ドアが開き、フレームに入ったガラス板を手に戻ってきたアズマが、落ちそうになっていたミユをやんわりとベッドへ押し戻す。両目を擦る幼女の前に椅子を引き寄せ、座った男は、フレームの上側を指で押し込んだ。
「船のデータベースに、この世界の記録があったんですよ。で、ちょっと読んでみたら面白かったんです。一緒にどうですか?」
「ミユ、字、読めないの……」
「ああ、勿論口で説明しますから。付き合って貰えます?」
「……うん」
ミユが頷くと同時にディスプレイが発光する。幼女の笑顔を見損ねた男が口を開いた。
「ええっと。ああ、これだ。1000年前、違う世界に住んでいた1人の少年が……男の子が、こっちへ落ちてきたらしいんですよ」
「お空から落っこちちゃったの? こわい……」
「はい。でも、大怪我はしなかったんじゃないかな。というのも、男の子にはすごい力があってですね」
眉根を寄せるミユに笑いかけたアズマが、視線を画面へと戻した。
「人の怪我を治したり、寿命を延ばしたり、有り余る力で悪人をやっつけたり、未来から持ってきたとしか思えない便利な道具を一晩で作ったり、金や宝石や澄んだ水を異世界から呼び寄せたり、殆ど全知全能だったみたいですよ。おかげでこの世界の人たちの暮らしは一気に、物凄く便利になった」
「なんだか、かみさまみたい」
「正に、神様扱いされていたようです。まあそうなりますよね。で、ちょっと面白いと思ったのが」
フレームの右側を幾度か押し込み、表示された文章をスクロールさせながら、男は言葉を続ける。
「男の子は、自分が持つ力のことをチートって呼んでたんですって」
「ちぃと?」
「あれ、この言葉は上手く伝わってないかな? 要は不正行為、イカサマ……えっと、ズルをすることです。大丈夫? 分かりますか?」
毛布を胸元まで下げたミユが、小さく頷いた。
「何で自分の力をそういう風に呼んでたかは分かりません。とにかく、男の子はその力を惜しみなく使って、自分をこの世界で一番偉い人にして、あらゆる権力を握った。まぁ彼の貢献を考えれば、わざわざそうしなくても、一番偉くなってたでしょうけど」
「何でもできるから、何でもやっちゃったんだ。すごいんだねぇ」
空色の目をとろんとさせながら、幼女はくすぐったそうな表情で笑う。男も鼻を鳴らして笑みを浮かべた。
「ホントですよ。それから、男の子は自分の権力を使って、誰にも攻め落とせない空飛ぶ城を造った。その後神王を名乗り、全世界から呼び寄せた美しいお姫様たちと結婚して、幸せに暮らしました」
「めでたし、めでたし?」
「で、終わらないのがこの話の良い所なんです」
空いている方の手で膝を打ったアズマが、微笑するミユを見下ろした。
「無敵の空飛ぶ城に住むようになって100年後、この自称神王は行方不明になったんですよ。殺したって死なないし、死んでも生き返る彼が、急にいなくなった」
「どう、して……」
「理由は書いてなかったです。残念ながら。ただ、その後にお姫様たちが何をしたかは書いてありました。それがまたすごいんですよ。よくまあこんなこと」
枕元から聞こえてきた穏やかで規則正しい吐息に、男は口を噤んだ。幼女の安心しきった寝顔を見下ろしつつ、窓際のパネルに指を押し付け外壁を閉じさせ、部屋を暗くする。首から下を毛布ですっぽり覆わせた後、ディスプレイをオフにした。
「おやすみなさい、ミユさん。それから……ありがとう」
囁いた後、男は足音を立てないよう部屋から立ち去り、船首に突き出したコクピットへ歩いて行った。
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