第2話 2人のこれまで。2人のこれから。
「おぉ、これは、うん」
「おいしいでしょ?」
広間に置かれたテーブル、その対角線上の席に座ったアズマとミユが、半分に割った褐色の物体を齧っていた。最初男は全て幼女に譲ろうとしていたが、何度も食べるよう促されて遂に折れたのだった。ぎこちなく笑う幼女に頷いた後、男はもう一口食べる。
「塩コショウ風味の、パン? でも豆みたいな味も入ってますね」
「ね、おいしいでしょ? はんぶんこして、良かったでしょ」
「はい。美味しいです。これ、3Dプリンタで作ったのかな」
もう一度訊ねたユイに相槌を打ちつつ、アズマは滑らかな板状パンをしげしげと見下ろした。表情を和らげた幼女は、1席分男に近付く。
「ご飯がおいしいから、お兄ちゃんは死んでないよね」
「いや、それは」
「お兄ちゃんも、かみさまにお祈りしたんでしょ?」
「神様って?」
「あのね」
身を乗り出そうとして椅子からずり落ちかけたミユが、アズマをじっと見上げる。
「あのね、雨がぜんぜん降らないせいで、村の畑がカラカラになっちゃったの」
「なるほど」
「それでね、お父さんとお母さんが、もうミユに食べさせるものがないって……いっしょに、いられないって」
ほんの少しの間俯いた幼女が、勢いよく顔を上げた。
「でも教えてくれたの。夜にね、1人で森に入って、かみさまにお祈りしたら、ミユは良い子だから、かみさまがお返事をしてくれるって! おやしきに連れて行ってくれて、ご飯を食べさせてくれて、ふかふかのベッドで眠れるって!」
「それは……すごいですね」
「でしょー! 良い子にしてたからここに来られたんだよ! お兄ちゃんも、お父さんとお母さんに教えてもらったの?」
固い笑顔で頷いていた男は、半分に分けたパンを食べ終えた後、視線を左下に落とす。
「ちょっと似てます。僕には両親と……すごく才能がある弟がいたんですが、その弟が病気になっちゃって」
「えーっ!」
「治すのにすごくお金が要る病気だったんです。それで両親が僕に、お前の内ぞ」
アズマが口ごもり、不安げに自身を見つめるミユに笑いかけ、溜息をついた。
「お前に、ぴったりの……その、出稼ぎ先があるから、行ってきてくれないかって頼まれたんですよ。で、その時丁度仕事も無かったから、此処に来たんです」
「お兄ちゃん、えらいんだ!」
「そんなことないですよ。ミユさんには敵わない……だって、何歳ですか?」
「おいくつって?」
「年齢です。ええと、おいくつ?」
幼女は男の問いに首を捻った。
「うーん。あ、7つ! お父さんが言ってた! お前はもうななつになったから、1人でも大丈夫だって」
「そうか……まあ、僕は28ですから。家族の為に頑張るのは偉くもなんともないです」
「そうなの? 分かんないけど、おしごと早く見つかるといいね」
「ああそんなに慌てなくて良いんですよ。この……仕事をするって決まった時に、お金が入りましたからね」
「そうなんだ。良かったぁ」
「ええ。良かったです……本当に」
無邪気な笑みに応えたアズマ。男の顔を見つつ、ミユが口を開く。
「じゃあ、パンを食べ終わった後、このおやしきのこと教えてあげるね」
「こっちだよ。ついてきて」
端に埃が積もった廊下を小股で歩くミユは、何度も何度も後ろを振り返る。サイズが自動調節される服を着ている所為で着膨れしてしまっている幼女の、一生懸命よちよち歩く様を見たアズマは思わず笑みを零した。部屋の1つに入ったミユが、顔を半分出して左手を大きく振る。
「この四角い所がお手洗いだよ。勝手に流れるの。チリ紙は棚に入ってるよ。それからね、水浴びはあっちの透明な壁の中でするの。あったかいお水がしゅわしゅわ出てきてね、気持ち良いんだよ。真ん中のは上手く出ない時があるから、となりのを使ってね」
「……シャワーもトイレも現実と殆ど変わってない。やっぱり夢じゃないかな、これ」
得意げに施設を紹介して回る幼女の後姿を見つつ呟いたアズマは、小走りで自分の傍に戻ってきたミユに笑顔を浮かべた。
「ありがとう、ミユさんは親切ですね」
「ううん……あのね、アズマお兄ちゃん。おしごとを始める前に、ミユのこと1つだけ手伝ってくれる?」
「良いですよ。何ですか?」
即答され顔を輝かせた幼女は、男の手を握った。
「ついてきて」
「はい。……ねえ、ミユさん。この場所、窓がないですよね? さっきから1つも見てないんですが」
「うん。でも消えない灯りがついてるから、こわくないよ?」
「それはそうなんですが……あと、ドアの上の模様?って」
「あ、ここ。見て」
「はい」
明滅する白い光の下、幼女に手を引かれながら男は別の部屋に入った。壁際に置かれた机と、そこに小さく積まれた銀色の包みとボトルを指さすミユが表情を曇らせる。
「ここにご飯とお水があるんだけど、もう10個しかないの」
「そうですか……」
「あ、ミユ、そんなに取ってないよ! 起きてから寝るまで1つずつしか食べてないし、まだ5個しか食べてないもん」
「なるほど……」
ミユの釈明を、アズマは上の空で聞いていた。男の視線は、反対側の壁にかかった透明な板と、そこに流れる光る記号の羅列、そしてその真横に描かれた図形に注がれている。眉尻を下げた幼女が、アズマの服の裾を握る。
「畑もないから、お野菜もとれなくって。だからミユと一緒に、他のご飯とお水を探して……どうしたの? お兄ちゃん」
「これは模様じゃない。さっきのも違う。字だ」
「あっ」
アズマが視線の先へ歩を向け、不安げな表情のミユがつんのめった。数行に渡ってガラス板上を流れる字を、男の指がなぞる。
「妙な感じだな。文字だと思って見てると、本当に読めてくる……当避難所……空間断裂……75時間……」
「お兄ちゃん?」
幼女が呼びかけたその時、部屋が大きく揺れた。重苦しい軋み音にミユが悲鳴を上げ、アズマの左脚にしがみつく。
「ミユさん」
「な、何!?」
「この、展望室に行きましょう」
図形の一部を指した男が、笑みひとつなく言った。
「待って……待って!」
照明が落ちかけた薄暗い廊下を大股で歩くアズマ。その後ろを、パンの包みと水のボトルを両手一杯に抱えたミユが危なっかしい足取りで追う。
「お兄ちゃ、あっ!」
ボトルを1つ落とし、それに躓いた幼女が埃だらけの床で転び、持っていた物をぶちまける。遠ざかっていくアズマに空色の瞳を潤ませたミユが、ぎゅっと目を閉じた。
「おねがい……おいてかないで」
「っ! すみません!」
幼女の涙声に肩を跳ねさせた男が慌てて駆け戻り、抱き起こした後、散らばったものを拾い上げた。
「怪我しませんでした? 荷物、持ちますから」
「平気。ミユが持つ。でも、もうちょっとゆっくり歩いて。いっしょに行こう?」
「いや、僕が持ちますよ。気付けなくてごめんなさい」
「良いの。ミユが持つから、だから、いっしょに……」
目に涙を浮かべたミユに繰り返し言われ、頷いたアズマはパンの包みとボトルを1つずつ幼女に渡した後、残りを右腕で抱える。そして手を繋いだ。ぐすぐすと鼻を鳴らしていたミユの呼吸が落ち着き、小さな手に力が籠もる。
「行きましょう、ミユさん」
「うん……でも急にどうしたの? アズマお兄ちゃん。やっぱり、すぐおしごとしなきゃいけなくなったの?」
「そうじゃないんです。ひょっとすると、これは夢じゃないんじゃないかって思って。全然終わる気配がないし、音も触った感覚も味も全部、すごくリアルだから」
「夢じゃないよ? ミユがいるもの」
「……行きましょう」
きょとんとする涙目の幼女から視線を外し、男は階段を上がり始めた。昇っていくごとに照明は暗くなり、最上階のドアの向こうから漏れる風の唸りが強まっていく。何度目かの揺れに、扉の前に散らばっていた瓦礫が階段に落ちてきた。ミユが小さな肩を窄める。
「何だか、こわいね」
「もし、これが夢じゃないなら」
そう言いながら、アズマは両開きのドアを押し広げた。刹那、焼け付く風が階段に吹き込む。2人のスーツに取り付けられたファンが勢いよく回り始め、首から上が不可視の膜で覆われた。
「う、あっ! わあぁ」
声を掠れさせたミユが尻もちを突き、頭上を仰いだ。そこに天井はなく、空が広がっていた。渦を巻く分厚い雲を纏った、真紅の輝きを放つ巨大な空洞が広がる異形の空が、2人を睨み下ろしている。
「……もし、これが夢じゃないなら」
天井はおろか壁まで失われ、朽ちた座席と操作卓が点在する荒れ果てた展望室に立つアズマが、ミユと同様強張った表情で空に開いた輝く空洞を見上げる。
「この場所は、あと3日でアレに飲み込まれます」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます