下流層にて

 傷の男が目指す先は、下流区画と呼ばれる地区であった


 下流区画というのは俗称で、裕福とは縁のない者たちが居住している区画である。そこはエイスの城下街にある大通りから遠く離れていて、城壁にも近い場所でもあった。そのため不便で、風通しも日当たりも悪い。


 中央区画と変わらないところがあるとすれば、古い石造りの建物をそのまま利用していることか。しかし手入れが行きとどくことはない。ところどころ崩れていて、目立つほころびには木の板などで補修してあった。


 とはいえ、その光景自体はめずらしいものではない。

 どこの国にでもある、一般層以下の街の姿だ。

 ただ、エイスの城下街は壮麗なものとして諸国に広く知られている。栄光の裏にひそむ、見た目の差、貧富の差は、ひどく滑稽といえた。

 

 しばらく歩いていくと、傷の男の前に大きな建物が見えてきた。古びた二階建ての建屋だ。周囲の建物にくらべ、多少は外壁が手入れされている。

 一階はすべての木窓と木戸が閉ざされていた。木戸には小さな看板が雑に打ち付けられていて、「ラングシーブ」と刻まれている。


 ラングシーブとは、各地の調査などを仕事にしている者がつどうギルドの名であった。いわゆる冒険者ギルドであるが、ここには世の若者が夢見るような仕事など、ほぼない。陰湿で、地味で、面倒な仕事ばかりが集まる、一般未満の冒険者ギルド。それが傷の男の所属するラングシーブであった。


 傷の男は木戸に手をかけ、押す。

 ギイと鈍い音。木戸の開いた分だけ、屋内に陽の光が差しこんだ。


 建屋の中には、いくつかテーブルと椅子が並んでいた。

 奥には書類だの資料だのが雑に積まれたカウンターがある。

 カウンターには受付の男が控えていて、入ってきた傷の男を見るや鬱陶しそうにした。さらには外から飛びこんでくる光がうっとうしいと言わんばかりに目を背け、欠伸をしている。


 手前のテーブルには同業者が一人、いや二人いた。そのうちの一人は知り合いで、身体の大きな男であった。暇そうに宙を見て、呆けている。

 ラングシーブの所属員は、仕事の請負と報酬の受け取り以外でギルドを使うことなど滅多にない。客との交渉事から完了の報告までは、各々が外で行うからである。一見活気がなさそうに見えるのは、仕事が多い証拠。ここにいないラングシーブの面々は、今日も夢のない仕事に明け暮れているようだ。


 傷の男はテーブルに座っている知り合いの大男に近寄る。すると大男が気付いて、傷の男にニカリと笑いかけてきた。



「待たせただろうか」



 傷の男は手を小さくあげ、大男に声をかける。すると大男が大声で笑い、頭を横に振ってきた。


 あまりに大きい笑い声に、傷の男は上体を後ろに退く。近くにいた同業者の男とカウンターにいる受付の男も、騒音に等しい笑い声に顔をしかめた。それらを見て大男は、さらに大きな声で笑う。ついで短く挨拶してくると、親指をたててギルドの二階を指差した。


 傷の男は大男が指差した先を見て、小さくうなずく。大男がようやく声を静め、ニイと笑顔だけ残した。そうして傷の男の肩をたたくと、一方通行の世間話をしつつ階段をあがりはじめた。傷の男は彼の後を追うようにして、ギイギイときしむ階段をあがっていった。


 二階は吹き抜けになっている。いくつかのテーブルと椅子が並んでいるが、使う者はあまりいない。そのため、はじのほうは埃が雪のように積もっていた。昔はどうか知らないが、今ここで使われているものは開かれている木窓のみ。二階と一階へ必要最低限の光をこぼしてくれている。



「何か、わかったのか?」



 傷の男は無表情に言った。

 大男を見据えながら、埃のつもった椅子にゆっくりと腰かける。



「少しな」



 大男が短く返し、いきおいよく椅子に座った。すると埃が大きく舞い、周囲に広がっていった。窓から差しこむ光が埃を照らし、辺り一面を真っ白にしていく。


 傷の男は口元を手でおおうと、「何をするのだ」と言わんばかりに大男をにらみつけた。

 愉快そうにしている大男の目が、下の階をうかがっている。少しの間を置いて傷の男に視線を戻すと、懐から小さく折りたたまれた紙を取り出した。傷の男にそっと差し出し、片眉を上げてくる。



「すまない、ミッド。ありがとう」



 傷の男は紙を受け取ると、折りたたまれた紙をひらいて中を確認した。

 そこには一行の文字がならんでいた。


  ≪ 黒い騎士 三人 ≫


 書かれた短い言葉をじっと見つめ、傷の男は顔をゆがませた。紙を持つ指に、少しずつ力が入っていく。その様子を見ていた、ミッドと呼ばれた大男から笑顔が消えた。



「ラトス。俺から言えることはあまり無い」



 ミッドが肩を落とし、大きな身体を小さくまるめる。



「ここからは、お前次第だ」


「……ああ。わかっている」



 ラトスと呼ばれた傷の男は、受け取った紙を懐に入れた。顔をゆがませたまま、ゆっくりと椅子にもたれかかる。ギイときしむ音が数度鳴り、二人の間の沈黙をきわだたせた。



 沈黙がつづく中、ラトスは目だけで辺りを見わたす。ミッドとはよく会っていたが、ここへ来るのはひさしぶりのことであった。ずいぶんと長い期間、仕事もしていない。しかし今は、色気のない吹きだまりのようなこの場所が、妙に心を落ち着かせた。



「まだ、色は見えないのか?」



 ミッドが心配そうな表情を浮かべ、ラトスの目線まで上体を低くした。



「色が見えないわけじゃない。薄いだけだ」


「ああ。そう、だったか」


「そうだな。色は、まだ褪せたままだ」



 ラトスは目を細め、テーブルに視線を落とした。

 褪せた茶色のテーブルの上で、白と灰色の塵が吐息に揺れている。光すらも褪せていて、どこか薄暗い。


 半年前から、ラトスは色があまり見えなくなっていた。

 医師には見せていないが、病気ではない。原因となるものがなにか、自分でよく分かっているからだ。とはいえラトスは、この色弱を治そうと思っていなかった。治す手段があるとしても、それを求めようという気にすらなれない。



「あれから、ずいぶん経ったな」


「そうだな。たぶん、経ったのだろうな」


「経ったとも。本当に……」



 そこまで言ったミッドの口が、ぐっと閉じた。ううんと唸りながら、太い腕を組みなおす。ラトスはミッドの様子を見て、わずかに口の端を結んだ。ミッドの呑み込んだ言葉が何であるか、分かっているからだ。




 かつてラトスには、一人の妹がいた。

 それは半年も前のことで、今はもういない。殺されたからである。


 無惨な姿となった妹の身体は、荒らされた家の中にぽつりと落ちていた。

 一見強盗の仕業に見えたが、そうではない。ただの強盗だと思わせているような痕跡がいくつもあった。しかしそれらを追求しようとする力など、ラトスには無かった。冷たくなった妹を抱きかかえ、ひたすらに泣き叫び、うめき、吐きつづけることしかできなかった。


 幾人かの友人やギルドの仲間が駆けつけたが、彼らもまた立ち尽くすしかなかった。床全体に広がった妹の血の只中で、妹の血を滲みつけたラトスの身体が、赤黒く染まっていたからだ。それはあまりに凄惨な光景で、駆けつけていたミッドもまたなにひとつ言葉をかけることができなかった。


 かけがえのない存在を失ってから、半年。

 ラトスの目は、世界が色褪せて見えるようになった。

 無気力になり、身体から生気が失われていくのを、日々感じた。


 ラトスをなんとか生かしつづけたのは、妹の死にかかわる情報を探しつづけてくれたミッドであった。どんなに些細な情報でも、知り得た情報のすべてをラトスへ届けつづけた。妹の無念を晴らすべきと、ラトスの魂が朽ちぬよう支えつづけていたのだった。

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