第6話 吊り橋効果
石松聡子という女性がここまで評判のいい小説を書けるようになるとは思ってもいなかった。気軽な気持ちで進めた文芸サークルへの入部を、今さらながらに後悔しても始まらないが、ここまで嫉妬するようになったのはなぜだろう?
なるべく他人の書いた小説は読まないようにしていた。
「自分の作風がブレるからだ」
と、恰好のいいことを言っていたが、人の作品を自分の作品と比較してしまうことが嫌だったからだ。確かに人の作品を読むと作風がブレるとはよく言われるが、しょせんはお互いに素人、しかも、プロになるわけでもないので、盗作でもない限り、作風が似ているくらい、関係はないだろう。
「ジャンルが被ったというだけのこと」
ということで、何とかごまかせる範囲である。
だが、どうしても自虐的な性格であることから、自分の作品よりもいい作品だと感じることが怖かったのだ。
「認めたくない」
という思いが強くなり、自分の中にある嫉妬心が湧いて出るのを感じたからだ。
この場合の嫉妬は、
「自分が恥を描くのが嫌だ」
というよりも、
「自分を恥だと感じる自分が嫌だ」
というものだった。
嫉妬を感じるたびにいつも思う、
「人と比較して何になるというのか?」
とである。
人と比較? そんなのは今に始まったことではない。絶えず人との比較をずっとさせられてきた。
小学生の頃の運動会、テスト、中学、高校での受験。
「別に人との比較ではなく、あくまでも自分との闘いだ」
と言われるが、いくら自分が頑張っても、レベルの高いところに放り込まれれば、少々頑張って記録を挙げても、全体的に高いのだから、同じ点数でも、順位は天と地ほどのさがあったりする。
受験などは、点数で決まるわけではなく、定員があって、上からの順位でその中に入らなければいけないのだ。しかも、合格ライン未満の次点であっても、不合格に変わりはない。最下位であっても、同じことなのだ。
だから、受験などでは順位は一切公表されないのだろう。だが、考えてみれば、合格したとしても、どの順位で合格したか分からない。
もちろん、主席から何位かまでは、授業料免除などという特待生制度のある学校は、その順位までは公表するかも知れないが、それに漏れた人間は、
「皆、平等場合格者」
となるだろう、
だが、実際には、入学したとしても、最下位でのギリギリ突破かも知れない。入学できたとしても、レベルは最低だったとして、果たして自分よりもハイレベルな連中の中で、自分が行きぬいていけるだろうか?
もちろん、乳歯の成績だけで、レベルを判断することはできないだろうが、少なくとも教師は生徒のレベルを知る意味で、順位を見ているだろう。
「あの生徒はギリギリ入学してきた生徒だ」
と思うと、特待生などと比較にならないほどに見えるかも知れない。
何かあっても、
「あの生徒であれば、やりかねない」
というレッテルを貼られているのかも知れない。
そう思うと、遅かれ早かれ授業についていけなくなり、ぐれてしまうこともある、そうなると、大学受験どころか、卒業まで学校にいられるかという問題にまで発展してしまうだろう。
これでは、不合格だった方がよかったかも知れない、そもそも志望校を考えた時、当確ギリギリのラインを冒険して狙うより、無難路線の方が、後々無難だったりする。なぜなら、受験というのは、合格すればそこで終わりではないからだ。あくまでも、そこがスタートライン、レベルの問題だけではなく、燃え尽き症候群になってしまう可能性だってあるからだ。
幸か不幸か、そんな最悪なことにはならず、普通に大学を受験し、何とか現役で合格した。大学に入ってしまえば、さらに次の学校ということもなく、しかも、高校までの授業とはまったく違う勉強が待っていたので、ある意味、入学した時の順位などは、ほとんど関係ないと言ってもいいだろう。
高校までと違って、
「よくも、ここまで個性的な連中が集まったものだ」
と思うほどで、高校時代には、
「自分のまわりに、暗い人たちしかいない」
という風に見ていたのが、まるでウソのようだ、
高校時代の鬱積した毎日が爆発したのかも知れない。
考えてみれば、笠原も高校時代までの自分と比較にならないほどに明るいではないか。もっともそれは、まわりの影響が大きいからだと思っているが、果たしてみんなも同じことを思っているのだろうか?
皆が皆、まわりの影響だと思っていたとすると、誰も影響を与えた人がいないことになるが、それもおかしな話である。影響を与えられた相手が果たして誰なのかを見極める必要はないが、
「誰かに誰かと決まっているのではないか?」
と考える。
そのきっかけが出会いだとすると、誰か友達になった人の中で、
「この人とは必然的に友達になったんだ」
という、運命を感じることができる人がいたことになるが、それが誰なのか、気付く人もいれば、気付かずに卒業する人もいるだろう。
しかし、最終的には分かるというもので、大学を卒業してから気付いたとしても、在学中とさほど変わらない効果を本人には与えるのではないかと思った。
それでも在学中であれば、相手の気持ちを聞くことができるが、卒業して会うことがなくなってしまうと、その可能性はなくなってくる。卒業してしまうと、それまでとまったく違った生活が待っているのであって、心構えを再度リセットしないと、やっていけないと思った人がほとんどではないだろうか。
在学中にそこまで看破できる人がいるはずもなく、あれだけ楽しいと思っていた大学生活も、二年生の時の甘い考えのために、三年生以降の楽しみを棒に振ってしまったのも、自業自得とはいえ、
「大学生活があっという間だった」
と感じさせる要因になったのだった。
大学生活において、文芸サークルで過ごしたことが、いずれは大きな転機に向かってのプロローグだttのだろうが、本人はそんなことが学生時代に分かるはずもない。とにかく大学時代というと、
「淡い思い出」
しかなかったような気がした。
なぜなら、大学を卒業してからの人生を決定づけたのが、大学時代における文芸サークルだったので、今の人生をどう思っているかということは、大学時代をどのように記憶しているかということに繋がっているのかも知れない。
「大学時代というと、文芸サークルでの思いが一番なのだが、今の俺はあの頃の気持ちを忘れてしまっているのではないだろうか?」
と感じていた。
しかも、大学時代の想い出は、すぐに思い出せるくせに、かなり昔のことのようで、自分でもビックリしているのだ。あれからどれだけの時間が経っているのかは当然分かっているので、かなり昔に思えるのは当然だ。だが、実際にはsれほど時間が経過したという感じはない。どちらかというと、
「あっという間に過ぎ去った」
という意識で、時空を飛び越えるというワープを感じさせるものであった。
まだまだ素人だった小説の技術。プロットを組み立てることが苦手で、最初の頃は、プロットも作らずに、いきなり書き出していたものだった。
今でもカッチリとしたプロットを作ることはないが、せめて、起承転結の、起承の部分くらいまでは考えてはいた。ほとんど箇条書きの落書きにしか見えないかも知れないが、それで十分だった。
あまりキッチリしたものを書いてしまうと、小説の内容が結論を急いでしまって、小説が書けなかった頃に逆戻りしてしまう気がした。
つまり小説を最後まで書けない人は、ある程度の内容ができあがって書こうとするから、結論を急いでしまって、数行で終わってしまうのではないだろうか?
その思いは、後にならないと分からないことで、それがいつなのかというのも、結構重要だったりする。
それでも、自分よりも目立つ人がいると、
「自分は自分だ」
という思いを持っていたとしても、自分よりも目立つ人がいると、精神的に穏やかでないのは、やはり若さゆえであろうか。
子供の頃の意識が読みがってくるからなのか、若気の至りなのか、どちらにしても、真鍮穏やかではないと言ってもいいだろう。
しかも、
「自分の首を自分で絞めたようなものだ」
という思いがある以上、しなくてもいいという後悔をしてしまうのだから、それも嫉妬に繋がっていったのだろう。
「あの時、小説を書くことを勧めたりしなければよかったんだ」
という思いはあるが、今から思えば、あの時に誘ったのは、
「一緒に小説が書ければいいね」
などという素直な気持ちからではなかった。
もっと下心がありありだったはずで、
「女の子が入ってくれれば、自分のサークル活動も楽しくなるだろう」
という考えからであった、
ただ、彼女が自分が思っていたよりも聡明な女性だったというだけで、彼女に罪はない。罪を作っているとすれば、笠原が勝手に思っているだけで、誰も彼女に罪など感じてなどいないはずだ。
だから、彼女が小説で評判になった時、
「もう、放っておけばいいんだ」
といつものように思えれば、そんなに意識する必要もなかったはずなのに、それどころか、意識という意味で、別の意識を、いや、本来の意識を思い出したと言った方がいいのかも知れない。
この意識があったからこそ、彼女に対して嫉妬したのだ。
その意識とは、
「聡子のことを一目に見た時から意識していたんだ」
という思いである。
それは、女性として意識していたわけで、最初にテキストを見せてもらったあの瞬間から、
「この人は自分にとって、忘れられない人になる」
というくらいの意識があったように感じた。
この時に感じた、
「忘れられない」
という意識が余計な暗示をかけてしまって、それが嫉妬となって表れたのだろう。
この嫉妬というのは、相手が好きな女性として感じた嫉妬ではなく、同じ道を歩んでいて、その人が自分よりもさらに先に進んでしまったことで、彼女に小説の道を教えるというまるで自殺行為のような、自らの首を絞めるという行動を取ってしまったのだろう。
ただ、その時に、その嫉妬というのは、その正体が何であるのか分からなかった。
嫉妬というものを、男性として、好きな女性を見ることでしか感じられないはずだと思い込んでいたことで、最初にy間できた言葉が嫉妬だったというのが、ある意味、不運だったのかも知れない。
自分の中でジレンマがあった。
女性として好きだということが分かっていることと、相手に勧めてしまったという後悔を伴う行動に、ジレンマを感じていたのだろう。そのジレンマの両方に、嫉妬という言葉が絡んでいるのが厄介だったのだ。
しかも、最初からジレンマを起こさせたのが、最初に浮かんだ言葉が嫉妬だったということであろう、
最初から自分の行動に自信を持っているつもりで、こんなことになるなんてと、自分でも信じられないという思いとが、笠原を追い込んでいくのだった。
こうなってしまうと、
「もう、どうなってもいいので、告白してしまおうか?」
という意識が強くなる。
自暴自棄の状態ではあったが、一度後悔してしまったのだから、その後悔がどこから来るのかを見極めて、どうすれば前に進むのか、そのあたりを考えていく必要があったのだ。
今まで、女子に告白したことなどなかった笠原に、そんな大胆なことができるはずがない。自分でそう思うことが、失敗した時の言い訳として、いつも意識の中にあったことが、今回のことを招いたのではないかと思うと、少し自虐にもなるというものだった。
ただ、小説においての嫉妬気分がある中での告白というのは、自分のプライドが許すのか、そのあたりが気になるところであった、しかし、このまま告白しないでいるということは、プライドを傷つけられたまま、何もしなかったということであり、さらに恥の上塗りとなってしまい、プライドを再度持つことができるかどうか、そこが問題だったのだ。
そんな思いを抱いたまま、告白の有無を考えていた。
「このまま告白しないでいると、波風を立てないでいることはできるが、プライドという面において、先に進むことができない。いきなり、断崖絶壁の吊り橋の上に放置され、前に進むことも、後ろに下がることもできないところに放置される感覚に陥ってしまう。もしそうなったら、どうなるだろう? 結局、最後には覚悟を決めて、どちらかに行く選択をしなければならない」
と考えた、
ただ、その時、普段なら考えないような不思議な感覚が頭をよぎった。
これは、当時としては、まだ発表されたばかりの学説で、そのことがまだ認知もされていない時代であったが、何かの本でその学説が発表されたと聞いた時、印象として残っていたことであるが、その考えというのは、
「吊り橋効果」
というものだった。
これは、一般的な感情の経路を、一つではなく、二つあると考えたのだ。つまりは、
「出来事から、その出来事への解釈があって、感情というのが、感情の発生経路だと胃荒れているが、恋愛でいえば、魅力的な人物に出会う。そして魅了される。最後にドキドキするという経路が考えられるだろう。しかし、学説では、出来事から、感情、っしてその感情への解釈という考え方もあるだろうと考えた」
という。
つまり、恋愛で言えば、
「魅力的な人物に会い、ドキドキすることで、これが恋なのではないか?」
と考えるということである。
実際にこの証明として、
「間違った認知に誘導できること可能性があるのではないか」
ということで、
「恋の吊り橋実験」
というものを行ったのだ。
恐怖を煽った方が、恐怖もない人よりも、興味をそそられるという研究結果から、
「恋の吊り橋効果」
というものが立証されたというのである。
この時の発想として、告白すると、どういう感情になるかを考えた時、頭の中に浮かんだのが、吊り橋の光景だったというのは、それだけ、恐怖に対してのイメージが、
「吊り橋というものが一番恐怖を煽るものだ」
という感覚だったのか、前に読んだ本から、吊り橋効果が頭をよぎったせいなのかということである。
吊り橋というものが、自分の中でいきなり想像されたのは、偶然だったのか、それとも、意識の中に最初からインプットされていた意識が吊り橋だったのか、この発想こそが、吊り橋効果を実証するうえでの感覚であるとすると、これを、
「ただの偶然だ」
と考えるのは、乱暴な気がするのだった。
そう思うと、このまま告白をしないということは、自分の中の恋愛感情を否定するということと、吊り橋効果というものの実践から、逃げ出そうとしているのではないかと思うのだった。
とにかく、告白することにかなり傾いてきたのは間違いない。
だが、このままいけば、自殺行為であることは間違いない。
自分にはあまりにも不利な状況が揃っていることが分かっていたからだ。
何よりも、相手は小説の実力として、自分よりもさらに上であることは、彼女にも分かっていることだろう。そして何よりもその感情を一番強く持っているのは、何を隠そう、本人である笠原だった。
「負けるかもしれないと分かっている相手に勝負を挑むことは、最初から分かっているはずだ。それでも挑まなければいけないということは、それだけの覚悟がいる。自虐の感情をそのまま利用するという手もある。だが、そうなると、プライドが果たして許すかどうかの問題が大きい」
と考えてしまう。
この覚悟に必要なものは、
「後悔をしたくない」
という感情が強くないとできないということだ。
「恐怖を煽ることで、後悔をしないという感情を最前線に持ってくることができれば、吊り橋効果を実践できる」
と考えたのだ。
また、告白しない場合をなるべく考えないようにした方がいいのかどうかということを考えてみた。
考えてしまうと、確かにネガティブな発想にしかならない。
「逃げている」
という発想が頭をもたげ、そう感じてしまうと、つり橋の上に放置された時、じっくりと判断するべきなのに、怖さが先に来て、
「どうでもいいや」
という感情が生まれてくることが分かったからだ。
まず、どうでもいいと考えるのは、これこそが、吊り橋効果というもので、
「間違った認知に誘導できること可能性があるのではないか」
ということを証明することになる。
だから、告白をしないという選択をしたとしても、それは可能性がゼロだったから、告白しないわけではなく、限りなくゼロに近いのであるが、告白しないことがゼロではないということを納得しないと、結局、どっちつかずになってしまい、
「告白することが、自分にとっての、言い訳になってしまうのではないか?」
という感情を抱いてしまうことを嫌ったと言ってもいいだろう。
とにかく、いろいろ考えたが、結局告白することにしたのだが、これがまだスタートラインにも立っていないということを分かっていたのだろうか?
「この場合のスタートラインというのが、そもそもどこになるのか?」
ということである。
「告白して、相手から答えを貰うことなのか?」
それとも、
「もし成功すれば、付き合い始める」
というところなのか、
「失敗してしまったら、その時は精神的な乱れが生じるであろうが、精神状態を元に戻して、感情をリセットした時」
なのだろうか、そこが問題だった。
告白するということの目的がどこにあるかによって変わってくるのであろうが、考えてみれば、好きだという感情に変わりはないと思っている。
しかし、付き合うとなると、話は別だった。
何と言っても、相手は自分が嫉妬してしまうような実力の持ち主である。そんな人をそもそも好きになったということが、自分のプライドが許さないという感情に繋がっていたはずだ。
付き合うということは、完全にプライドを捨てて、欲望だけに突っ走ってしまっているということになる。いや、
「達成欲を犠牲にして、恋愛という欲望を手に入れる」
ということであり、この感情が、
「プライドが許さない」
ということになるのであろう。
ただ、自分が玉砕するであろうということは最初から分かっていたような気がしていた。その理由として、
「彼女には、お付き合いをしている彼氏がいる」
という話を聞いたからだった。
一人の話だけなら、信憑性は疑わしいが、利害関係のない複数の人から聞いた話なので、信憑性に関しては、かなりのものがあるだろう。
しかも、一度本人も、
「彼氏がいる」
ということを仄めかしていたのだが、それを自分で認めたくないという思いから、本人が仄めかしているにも関わらず、その時の言葉を、
「限りなくゼロに近い信憑性」
として受け取っていたのだ。
だから、この告白に必要なものは、勇気ではなく、覚悟なのだ。最初からダメと分かっていることに立ち向かい、そのショックをいかに和らげられるかという思い。そして、告白しないと自分が後悔するという思いを覚悟に載せるということであった。
だが、神様は実に悪戯好きであるかということを、この時初めて思い知らされた気がした。
「こんな偶然、神様が与えてくれたチャンスだと思うだろう。普通は」
と考えたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます