第5話 嫉妬の彷彿

 子供の頃から、自分に自信がなかったため、クラスでの運動会の代表や、クラスを代表しての選手などというのには、自ら立候補したことなどなかった。そのくせ、クラスで推薦されたり、自分から立候補して、しっかりと結果を出したことで、皆から賛美を受けているのを見せつけられるのが、嫌だったのだ。

 見せつけられているわけではなく、その子は実際に結果を出したのだから、当然の報いなのである。

 それを、自分から参加もせずに、ただ見ていただけなのに、羨ましがるなどというのは、普通に考えれば、

「お門違い」

 ということになるのだろうが、悔しい思いがどこから来るのかも分からず。人が賞賛を受けたり、表彰されるのを、それこそ、

「指を咥えて見ているだけだった」

 わけで、小学生の頃は、そんな自分が嫌で嫌でたまらなかった。

 中学生になってから、

「これを嫉妬だ」

 と思うようになった。

 なぜなら、思春期を迎えたからではないかと思ったからだ。思春期を迎えると、異性への気持ちが現れてきて、初めて嫉妬というものを味わうことになるのだろうが、笠原少年は、小学生時代に、すでに嫉妬心を味わっていたのだが、それが嫉妬であるということに気づいてもいなかったのだ。

 だが、中学に入り、異性を意識するようになると、友達が女の子と仲良くしているのを見て、

「面白くない」

 と感じるようになる。

 何が面白くないのかというと、その理由までは分からないが、

「俺だって」

 という気持ちが浮かんでくるのだが、

「自分に彼女などできるはずがない」

 と感じ、引き下がるしかないと思うのだった。

 しかし、

「この思い、どこかで味わったことがあるんだが」

 と考えると、最初は分からなかったが、そのうちに、小学生の頃に感じた。賞賛を受けている友達に対しての思いとソックリであることが分かってきた。

 そして、この思いが嫉妬であることが分かると、何が嫌だったのか、そして、どうしてこんな気持ちになったのかということも次第に分かってくるようになる。

 そうなると、さらに自分のことが嫌になるのだった。

「小学生の頃というと、異性に意識がないのは、思春期ん入っていなかったからだ」

 ということで、だから、女性と一緒にいる友達に嫉妬することもなかったのだと覆ったが、小学生の頃の気持ちが嫉妬だったということが分かると、

「嫉妬というのは、思春期を過ぎないと感じないというものではなく、男女関係だけに対して抱くものでもないんだ」

 と感じるようになった。

 それを感じたのは、中学生の時、そう思うと、自分の中で、

「恥と嫉妬を天秤に架けてみる」

 ということをしてみた。

 それまでに恥を掻いたことは何度もあったが、それは、

「恥を掻きたくない」

 という思いが強かったからで、実際に掻こうと思って掻いた恥ではなかった。

 しかし、この時天秤に架けた恥というのは。

「自分から敢えて掻いても仕方がないと思った恥であり、その感覚をいかに自分で納得させるかということが大切だ」

 と思うと、

「恥を掻いても、最後に嫉妬に至るよりもいいような気がする。」

 と感じたのだ。

 そう思って、あれは中学二年生の頃であっただろうか。学校で弁論大会という行事があった。

 演台にクラスの代表が立って、原稿を見ながら演説をするというものであるが。一年生の時、表彰されている生徒が授与されるトロフィーや賞状が羨ましかった。

 嫉妬の目で表彰式を見ていたのである。

「今年は俺だって」

 と思って参加してみた。

 実際に原稿を作成し、先生に見てもらうと、

「なかなかいいなないか?」

 と言われ、

 リハーサルなどでも、無難にこなせたことで、さらに有頂天になってしまった。

 実際の本番でも、自分なりにできたつもりだったし、緊張もしていなかった。

「これは、入賞だってできるかも知れない」

 と感じた、

 いち年生から三年生までクラスが五つあったが、中には同じクラスから数人出ているところもあった。

 出たいという人を、人数オーバーだというのは、実に酷なことだからだ、

 考えてみれば、ほとんどのクラスは、皆誰も出たがらずに、推薦で押し付けられた人が多かったのだから、出たい人を出さないとなると、それこその問題になるだろう。

 結局、二十人程度の参加者となり、自分の出番とまわりを比較しても、

「これなら、入賞も間違いない」

 と思った。

 入賞は、大賞と特別賞、佳作三名の五名であった。

「ベストファイブくらいなら、大丈夫だろう」

 という思いがあったのも事実で、それこそ自惚れだったのだ。

 順位は、上から発表されm入賞者五名の中には入らなかった。

「せめて、七位くらいにまでは入っているだろう」

 と思ったが、それもなし。

 蓋を開けてみれば、結局自分はブービーの十九位だった。

 さすがにショックを隠せなかった。参加証の盾はもらったが、納得がいかない。

 そこで、大会が終わってから、放送部の友達に、

「俺のって、そんなにひどかったのか?」

 と聞いてみた。

 それは、できれば、録画してある内容を見せてもらおうという意味もあったが、その友達は察してくれて、余計なことはいわずに、

「じゃあ、自分の目で確かめてみればいい」

 と言われて、こちらの思惑通り、ビデオを見せてくれた。

 それを見て、正直驚愕してしまった。

「何だこれ、これ、本当に俺なのか?」

 と思わず声に出してしまった。

 友達は黙って冷静に最後まで見せてくれたが。

「もっとよかったと思っているんだろう? 入選してもおかしくないというくらいに感じていると思うよ。だから、俺にビデオを見せるように仕向けたんだよな? 分かっているさ、俺だって似たような思いをしてきているからな」

 と言って、彼が放送部に入部して最初の放送を練習でした時のことを話してくれた。

「俺は連中だったから、まだよかったんだkど、お前は本番だから、相当ショックだと思うよ。まず、たぶん、自分の声がまったく違っていることに驚いたはずだ。かなり籠って聞こえたはずだからな。俺だってそうだったさ。これ誰の声なんだって思わず叫んだくらいだったからな」

 というのだった。

 でも、その思いは俺にも分かる気がする。だって、これは同じ感覚になったことのあるやつじゃないと分からないし、今いくら慰めても同じだということも分かっている。だけどな、お前がどうしてこの弁論大会に出たいと思ったのか、俺には分からないが、少なくとも、これからの人生での分岐点になると思っている。きっと。違った感覚になるんじゃないかなって思うのさ」

 と言われた。

「俺は、自分の嫉妬心を知りたかったんだ」

 というと、

「嫉妬心?」

 と言って、意外そうな顔をした。

 それはそうだろう、嫉妬心からどうして弁論大会への参加に繋がるのか分からないからだ。

「ああ、小学生の頃からのな」

 と言って、小学生時代の話をすると。

「そっか、なるほど分かった気がする。だけど、それは俺は悪いことではないと思うんだ。嫉妬を悪いことのように言うが、嫉妬心があるから、負けたくないという闘争心が生まれるんだよ。行動を起こさなければ、何もしていないのと同じであり、何も考えていないのと同じさ。だから、説得力がないもないのさ。そういう意味で、君は恥と嫉妬を天秤にかけて、プライドを感じたいと思ったわけだ。だけど、今回の順位は君にとっての恥ではないんだ。なんといっても、君は自分から参加したわけだろう? 昔からいうじゃないか。オリンピックは参加することに意義があるってね。でも、それは参加するだけじゃだめなんだ。自分の意志で参加するということが大切なんだ。そのことを君に言いたい。だから、この結果を別に恥だと思うこともないし、人からもし何か言われても、プライドを持てばいいのさ。どうせ何かをいうやつは、参加することからすら逃げたんだからね。そのことは、君が一番分かっていることではないか」

 と言われた。

「そうだよ、その通りだよな」

 と言った。

 確かに見せてもらったビデオはでたらめに近かった。

「穴があったら入りたい」

 という言葉そのものであろう。

 何しろ、声はしっかりと通っておらず、アクセントもでたらめ。どこの訛りか分からないようなアクセントで、あれでは何がいいたいのか分かるはずもない。

「何が悪かったか、分かるかい?」

 と聞かれて、

「訛りがあったことかな?」

 というと、

「いや、違う」

 と言われ、続けて、

「君の悪いところは、声が小さいことだよ。たぶん、自分では一生懸命に声を出しているつもりなんだろうが、実際には声を出しているわけではない。結局、自分の中で、自信がないという思いが、あの場面で出てきたのさ。ひょっとすると、リハーサルではちゃんと大きな声だったのかも知れないが、あの演台の上は特別だからな」

 と言われた。

「そうなんだよ。目の前が真っ暗で、照明が自分の顔に当たって、前が見えない。いつも客席から見ているので、演台の上に立てば、まわりが見渡せるんじゃないかと思っていたので、パニックになったのかも知れない。それが悪かったのかな?」

 というと、

「それもあるかも知れないが、何よりも一番の問題は、自分で自分のことを分かっていなかったということさ。きっと、君は、自分では緊張しなければ、絶対に大丈夫だと思っていたんじゃないか?」

 と聞かれた。

「どうして分かったんだい?」

 と聞くと、

「そりゃあそうさ。僕だって最初の時はそうだったんだから、経験者は語るというやつさ」

 と言われた。

「だけど、貴重な経験をしたのは間違いない。だから、自信とプライドは持っていてもいいが、反省をすることも大切だよ。要するに、後悔はしてはいけないが、反省はするということさ。君の場合は、出場することで後悔はしていないだろう? だから、反省をして次につなげれば、それでいいんだよ」

 と言われた。

「うん、分かった。ありがとう」

 と言った。

 その頃から、それまで嫌で嫌で仕方のなかった国語の授業がそうでもなくなってきた。何が嫌だったのかというと、

「教科書を読まされること」

 だったのだ。

 緊張して何も喋れなくなることもあったり、時には笑い出してしまいそうで、それが自分で怖かった。

 実際に、

「俺ほど、真面目な生徒はいない」

 という自負もあったくらいなので、授業中に教科書を読みながら笑い出すなど、プライドが許さなかったのだ。

 そのために、まわりから嘲笑を受ける。これほどの恥はないと思っていた。

 それから三年生になってもう一度弁論大会に出場したが、その時は七位だった。

 それでも悔しくはなかった。

 ビデオを見せてくれた友達に聞いてみたが、

「二年生の時よりよかったよ。聞いてみるかい?」

 と言われたが、

「いや、今回はいいや。別に反省点は自分でも分かっているつもりだし、今回は自分でも七位くらいがいいところだろうと思っていたので、ショックもないしな。予想通りだったということさ」

 というと、

「そうそう、それでいいんだ。もう君にとっては、さっきのことであっても、過去になっているんだろう?」

 と聞かれて、

「ああ、でも悪い過去ではない。いい思い出さ」

 というと、

「そうか」

 と一言だけ言われた。

 それが、中学時代の中で一番の想い出と、爪痕だったと思っている。

 中学時代が終わって、あの時の嫉妬心が、なくなってきたかと思ったが、実際にはそうではなかった。ただ、

「自分には嫉妬するものがない」

 と思っていただけであり、高校時代までに、その対象があったわけではなかった。

「そもそも、嫉妬心というのは異性との関係において抱くものだ」

 という当たり前のことを忘れていたと言ってもいい。

 それをいまさらのように思い出させてくれたのが、聡子だった。

 ただ、この時に感じた嫉妬は、まず、

「聡子に対しての賛美の声」

 だったのだ。

 自分が誘いかけて入らせた人が、自分よりも上にいるということに、まるで小学生の頃に感じた嫉妬心がムクムクとこみあげてきたのだった。

「もう、中学の弁論大会で、あの感情からは卒業したはずだったのに」

 と思うと、自分がまた子供の頃の感情に戻りつつあるのではないかと思わずにはいられなかったのだ。

「どうしてなんだろう?」

 と考えてみるが、分からない。

「自分に限界を感じたからであろうか?」

 とも思ってしまったのだ。

 だが、嫉妬という言葉の本当の意味を思い出してみた。

「男性が女性に、あるいは女性が男性を好きになった時、その人を自分が独占したいという気持ちがあれば、それが嫉妬というものだ。」

 ということではないだろうか。

「つまりは、嫉妬は独占したいという気持ちの具現化のようなもの」

 という意味であった。

 また、辞書で調べてみると、

「三社関係において、自分自身は愛する人が別の人に心を寄せるのを恐れ、その人をねたみ憎む感情である」

 と書かれていた。

 こちらは、三角関係の縺れというものであり、最初の解釈とは少し違うのだが、結果として、

「独占したいと思うこと」

 という解釈には変わりはないだろう。

 独占という意味を考えれば、それが男女関係である必要はない。独占したいものには、まわりの目の注目であったり、名誉欲などの欲である場合もある。だから、中学時代の川原の感情は、人の注目を独占したいというものなのだが、そこまで考えてみると、もう一つ違った考えが生まれてきた。

 それは、

「自分が注目を集めることで、他の人にヤキモチを妬かせたい」

 という感情である。

 つまりは、自分が人に嫉妬しているのではなく、自分が嫉妬されたいという気持ちとが同居しているということだ。

 これも男女関係にも言えることだった。

 そういえば、僕が思春期になって、異性を感じ始めた理由というのは、

「自分が女の子と一緒にいるところをまわりの人に見せて、羨ましいという気持ちにさせたい」

 ということだった。

 それはきっと、自分の中で、友達が女性と一緒にいるのを見て。

「羨ましい」

 と思ったからであり、これは小学生の時に感じた、症状やトロフィーを貰っている人を見た感覚と同じではないだろうか。だから、

「羨ましいと思うくらいなら、まわりから羨ましいと思われたい」

 という気持ちの表れなのだ。

 この気持ちが前章の最後の方の文章に現れている。


「嫉妬の彷彿」

 というと、どうなのかと思うが、自分の中で、

「何かを彷彿させた結果が嫉妬だった」

 ということだということで、敢えてこの言葉を使いたいと思うのだった。


 という言葉に現れているというころであった。

 では、一体何かを彷彿させる何かというのは何であろうか?

 その時の笠原には分かった気がした。

「その何かというのは、自分自身のことである。つまり、自分自身に嫉妬するという自分を頭の中で描いていた」

 ということだ。

 しょせん、嫉妬というのは妬みであり、自分が嫉妬したくない一心でまわりに嫉妬させようと思うのは、結果として自分が嫉妬しているからだとも言えるだろう。

 そう思うと、

「自分自身を嫉妬させるくらい、自分が一番でいたい」

 という気持ちの裏返しが嫉妬心だとするならば、嫉妬心というのも、一概に悪いものだとはいえないのではないだろうか?

 それを考えると、嫉妬というものが、恥の裏返しだということも、理解できるような気がしてきた。

「恥を描きたくない」

 という思いは、自分を一番に持っていきたい嫉妬心とは反対だからである。

 恥を描くことで、自分自身を最低の底辺に持っていきたくないという思いが、嫉妬心を掻き立てるのであろう。


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