第4話 小説を書く意義

 そんな話をしているうちに、聡子はすっかり小説談義をするのが好きになっていた。笠原と熱弁をふるってから数日後に、約束をしていたわけではないが、笠原の思っていた通り、聡子は、文芸サークルに入部してくれたのだ。

「僕がお誘いしたんですよ」

 と、部長に話すと、

「そうかそうか、うちのサークルは文芸サークルと言いながら、ほとんど文学部の人はいない状態だったので、嬉しいと思うよ」

 と言われたので、

「どうして文学部の人は少ないんですかね?」

 と笠原に言われた。

「それは、趣味と実益を兼ねたというのが嫌だという人が多いじゃないかな? せっかくのサークル活動なんだから、少しでも勉強とは違うことをやりたいと思うのも無理のないことだと思うぞ。笠原君だって、部活で、某学研究会とかに入って、さらに勉強したいとか思うかい?」

 と訊かれて、

「そうですね、法曹界を目指すのであれば、入部することもあるでしょうが、そうでもなければやはり別を考えますね」

 と言った。

「そうだろう? そんなものさ。それにせっかく大学に入ったんだから、勉強も部活も大切だけど、他にいろいろ考えるところがあるんじゃないかな?」

 と言われて、

「例えば?」

 と聞き返すと、

「恋愛だったり、アルバイトしてお金を貯めて、旅行に行くとかいうのも、あるんっじゃないかな?」

 と言われて、

「確かにそうですね。恋愛は考えたりしますよね」

 と笠原が答えると、

「そうだろう? 文芸のような小説や詩歌、俳句などを書く人は、そこか恋愛に遠くないところの妄想を抱いている人が多いと思うんだ。恋愛に関係のない小説であっても、そこかで恋愛を絡めたいと思うんじゃないかな? でも、ジャンルによっては、自分の思っているような恋愛に結び付かないものもある。どうしてだと思う?」

 と訊かれて、

「さあ、どうしてでしょう?」

 と答えると、

「それはね、恋愛というジャンルが広いからだよ。純愛ものもあれば、愛欲ものもある。青春小説に近いものもあれば、ドロドロしたものや、官能小説に近いものもある。要は、どれだけ読者が興奮できるか、そして書いている方がどれだけの妄想を掻き立てることができるかというところに行くんじゃないかな?」

 と、部長は言った。

「そういえば、この間、石松さんと話をしている時もそんな話になった気がします。あの時は、僕が今部長が言ったことと同じことを言ったような気がします」

 と苦笑いをした笠原だった。

「きっと、話している人というよりも、その人の立場で、話の骨格というのはできてきて、それが本筋になってくるんじゃないだろうか? 立場というのか、目線というのか、お互いに同じ話題であれば、ありえることだと思うんだが」

 と、部長が言った。

「そうかも知れません。僕が思うに、それは小説を始めとする文学関係は、その人の妄想によって出来上がってくるものだと言えるからではないかと思うんです。妄想している時は、時間の進みが違うとまで思っているくらいですからね」

 と、笠原がいうと、

「そうかそうか、実は僕もそうなんだ。文章が次から次へと出てくる時は、妄想の塊りになっている気がして、まったく何も浮かばない時は、額から汗が出てきて、妄想しても、書き出そうとする時にはすでに忘れてしまっている。それは健忘というよりも、時間の進みが違っているので、忘れるべくして忘れてしまったかのような感じでしょうかね」

 と部長が答えた。

「はい、そうですね。それがSFの発想をオカルト風に書いた感じの、小説になりそうですね。出来上がった時、SFにするかオカルトにするかが難しい判断なような気がします」

 と、笠原が言った。

「小説をいかに書くかということを、よく皆で話をしているけど、実際には決まりなんかないんだよね。まったく書くことのできない人へのきっかけになったり、今まで書けていたのに急に書けないというスランプに陥った時、その解決法の一つにでもなればという程度の発想が、このサークルの意義だと僕は思っているんだ」

 と部長がいうと、

「ええ、まさしくその通りですね」

 と、笠原が答えた。

「今度入部してくる、石松さんというのは、どんな人なんだい?」

 と訊かれて、

「どちらかというと論理的にものを見るタイプかも知れませんね」

 と笠原がいうと、

「じゃ、妄想とかはあまりしない方なのかな?」

 と訊かれて、

「いえ、そんなことはないと思いますよ。逆に妄想をいっぱいする方です。だから、その妄想を自分の中で、解決させたいという思いがあってか、妄想を理論的に考えて、それを文章にしようとするタイプだと思います」

「珍しい性格と言えるのかな?」

「僕はそうではないと思います。皆妄想した時、大なり小なり、理論的に考えようとするはずなんです。でもそれが適わないから、理論的に考えることを否定しようとするんじゃないかと思うんですよ。彼女はそれを否定しようとせず、自分の中で解釈しよとするんですよね」

 と笠原は言った。

「なるほど、それは面白いですね」

「この間、ホラー、オカルト、ミステリーの違いについて話をしたことがあったんですが、その時の発想が、実に自分に似ていたと思いました。前に僕も部長と同じ話題で話したことがあったでしょう? あの時に僕が話したことを彼女がいうので、僕は放り出されるような感じで、部長の意見を口にしていました。それでもまったく違和感はなく、却って部長の話が新鮮に感じられました。そう思うと、今度は彼女が、あの時の僕の意見を、他の人に話すんだろうなって感じました」

 という笠原に対して。

「これも何かの連鎖だということになるんだろうね?」

 と言われて、

「連鎖というよりも、輪廻に近いような気がしますね。それこそ、オカルト色豊かなので、オカルト用語とでもいえばいいのかな?」

 というと、

「そうだね。ジャンルによって、用語のようなものがあれば、面白いかも知れないですね。僕にとっても、そのあたりを無意識に使っているかも知れないと思うと、文章って、正直決まりがあるじゃないか。だけど妄想には限界がない。その二つの矛盾しているような発想が、らせん状に絡みあって、スパイラルを形成しているのだとすれば、負であっても、正であっても、結果は同じところに戻ってくるんじゃないかな? これこそ、負のスパイラルであり、とんとん拍子に物事がうまくいくという結果であったり、上昇気流に乗るという過程の話であってもいいような気がしますね」

 と部長は言った。

「少し話が曖昧になってきた気がしましたが、でも言いたいことはお互いに伝わっていると思います。もっとも、ここが小説を書くという意味での難しいところはのかも知れないですね。自分が考えていることや妄想していることを、相手にいかに伝えるかということですよね。でもよくよく考えると、必ずしも人に伝える必要なんかないと思うんです。却って伝えてしまう方が、厄介なことになってしまうような気がするからですね」

「というと?」

「よくあるじゃないですか。凶悪犯が実は子供だったりした時、犯行の手口だったり、犯行に及ぶまでのバイブルとして、ホラー小説や、マンガを参考にしたとか言いますよね・でも、だからと言って、その本を発禁になんかできっこないですよね。昔の治安維持法があった頃のように、政府や軍が報道や出版において制限ができるという時代があったじゃないですか」

 と笠原は言った。

「そうだよね。そう考えれば今の時代はいい時代になったというか、これが本当なんだろうなというか、今でよかったと思うよ」

 という部長に、

「果たしてそうでしょうか? 確かに昔は正しいと思ったことを正しいと言えない時代だったのは分かります。だけど、今みたいに何でも言えるようになると、言論の自由という言葉を盾に、いくらでも人の悪口が言える時代になってきた。それに対しての防護策を取ってこなかったことが、これからの時代において、どのような歪を生むかということが問題になってくるような気がするんですけどね」

 と言った。

 ほとんどの部長の意見には反対しなかった笠原は、別にコバンザメではないのだ。

 部長とほとんどのところで意見が一緒なので、別に衝突することがなかったが、意見がすべて一緒だとか。忖度しているというわけではない。反対の時はこの時のように、反対意見をしっかりというのが、笠原であった。

「笠原君と話をしていると、どうも歴史的な背景の話に持っていかれることが多いので、僕もそれなりに勉強してきたよ。歴史、特に明治以降の歴史って勉強すればするほど面白いと思ったよ」

 と部長が言った、

「そうでしょう? 僕は探偵小説全盛期の時代に合わせて見ていたので、結構楽しみ読めました」

 と笠原がいうと、

「僕の場合は逆に歴史の勉強をした後で、探偵小説を読んだんだ。きっと違った視界が見えたことだろうな」

 と部長がいうので、

「それはあると思います。勉強していなければ、妄想する世界は、まったく違うものになる。だけど、その後勉強して、さらにもう一度小説を読み返すと、今度は歴史までは、何か違って見えるような気がしてくるから、不思議ですよね」

 と笠原はいうのだった。

「そんなものかな?」

 と部長が少し訝し気にいうと、

「小説を歴史を知らずに読むと、時代に置いて行かれているような気がして、歴史を勉強する。そうすると、歴史が追いかけてくるような気がして、もう一度本を読むと、歴史が追いついてきて、妄想が勉強に裏付けられたものとなり、小説を読むことが歴史の勉強お大義名分のように思えてくるんです。だから、他の人にも同じような読み方をしてくれるといいかなと考えています」

 と、説明した、

 これを聞くと、何となくイメージが湧いてきたのか、部長も訝しそうな表情にならなくなった。

 部長との話は、いつも長い。

 といっても実際の時間が長いだけで、感覚的にはあっという間である。

 それは小説を書いている時と同じ感覚で、

「二人とも、妄想しながら、話をしているからなんじゃないか?」

 と話したことがあったが、まさにその通りであろう。

「小説を書くことは妄想すること。妄想することは小説を書くということ」

 という話をしたことはあったが、その妄想という曖昧な解釈について、なかなか議論することはない。皆分かっているだろうと思っていて、実際には分かっていないということなのであろう。

「やっぱり笠原君と話をすると疲れるけど、充実はしているね」

 と部長は言ったが、笠原も、充実しているという言葉が一番嬉しいので、部長の意見と

気持は一緒だった。

 お互いに腹いっぱいの話ができたと思った笠原だが、ちょうどその頃には、実際に自分の作品も徐々に書きあげることができるようになってきた。今のところ短編ではあるが、三作品ほど書いてみた。自分ではオカルトのつもりで書いてみたが、人によって、どのように写るであろう。

 原稿用紙で、二十枚ほどなので、短編というにも短いくらいかも知れない。とりあえず、少しずつから始めることが大切だと思った。

「とにかく書き始めたら、作品に不満があろうがどうしようが、最後まで書き切る」

 というのをモットーとしていた、

 その感覚がなければ、今までのように、

「こんな作品だと完成しても、完成したと言えないものになってしまう」

 と思っていたが、そんなことを考えていたら、いつまで経っても書きあげることはできない。

「そもそも、完成したかどうかを下手くそだと思っている自分が勝手に判断してどうするんだ?」

 という思いもあった。

 また、

「下手くそな自分の判断ではなく、他人に判断してもらうとしても、結局は自分の作品なんだから、自分で自信が持てなくて、どうするというのだ。書きあげる自信がないんだったら、最初から書かなければいいんだ」

 という発想もあった。

 最初の頃は前者だった。自分が下手くそだという自虐を持っていたのだが、途中から、誰のために書くんだと考えた時、自虐である必要などないと思ったのだ。

 小説を書くということに対して、よくハウツー本などを見ていると、

「自分で書きたいことがあれば、思ったことを書けばいい」

 であったり、

「小説に書き方の細かい決め事はないので、文章作法などが間違っておらず、放送禁止用語や差別用語のようなものが含まれていないかぎり、書き方は自由である」

 などと書かれているのだが、読み進んでみると、読者に対しての忖度や、読者を見据えての書き方など、最初の説明とは矛盾したハウツーになっているのを感じたりしたので、あまりハウツー本を信用しなくなった。

 そもそもハウツー本と言っても、文章の書き方というだけのものではない、それだけだったら、実際に小説を書こうと思っている人には消化不良に感じられるだろう。

 そういう意味で、小説の書き方というものは、さらにその先を見据えて、

「小説家になるには?」

 であったり、

「小説で、賞を取るには」

 というものが大きなテーマとして隠されている場合が多い。

 だから、そのための参考書として、当時の受験生がよく読んでいた、

「傾向と対策」

 というべきものだったのだ。

 ただ小説を書いて、書けるようになったからといって自己満足に浸っているだけだったら、別に読者を意識する必要もないだろう。しかし、普通の人はそこでは終わらない。一度や二度は誰だって、

「小説家になりたい」

 と考えるのは当たり前のことだ。

 だが、小説家を目指していると、いろいろと矛盾を感じるようになってくる。

 小説家を目指すには、どうすればいいかという本は、大きな本屋に行けば、何冊か置いてあるが、情報はそれくらいしかない。小説家になろうとすると、そういう専門の学校などもほとんどなく、ネットもない時代に、情報などまったくなかった。

 新人賞に応募しても、選考基準基準についてもまったく公開されず。

「選考に関しての問い合わせには、一切お答えできません」

 であったり、

「原稿はお返しいたしません」

 などと、まったくの応募者をないがしろにした扱いで、さらに、落選しても、作品に対しての批評も、自分がどれくらいのレベルなのかも一切分からない。そんなブラックと言えるような闇だらけの選考で、何が分かるというのだろう。

 次第に時代が進んでくると、一次審査というのが、審査というわけではなく、小説家としてデビューできなかった中途半端な連中を安い金で雇って、文章体裁が整っているかどうかというだけの審査で、一次審査の通過が決まる。

 確かに応募した作品の体裁は必要なのだろうが、

「まるで制度のないふるいに掛けられただけのそんなものだから、そりゃあ、非公開にもするよな」

 と思えるだけのものだった。

 そんなのが文学賞なのだから、何ともいえない。

 同じ作品を、他の文学賞に応募すれば、それが新人賞を取ったなどという笑い話がまかり通っていたのかも知れない。

「二重投稿は許されないと言っていても、どうせ、一次審査などは、下読みのプロと呼ばれる小説家になれなかった出版社から安い金で雇われた奴隷のごとき連中しか読んでいないのだから、他の出版社の新人賞に出したって、誰も分かりっこないわけだ」

 と言えるに違いない。

 そんな新人賞の審査方法を知ってしまうと、ある程度興冷めしてしまった。

 もちろん、文学新人賞に限ったことではないだろう。

 芸能界におけるオーディションだって、一次審査は書類審査だけではないか。写真と履歴を見ただけではねられる。

 もっとも、これは就職活動にも言えることだ。出版社を狙い撃ちした笠原だったが、その時に身に染みて感じたことだった。

 その後の審査だって、どこまで見てくれているのか分かったものではない。文学新人賞だって、一次審査から最終審査までの間にどれだけの関門があるのかは、規模によって違うだろうが、少なくとも一つはあるはずだ。

 出版社系の新人賞は月刊小説誌に応募が乗っているが、そこには選考委員が顔入りで載っているのが普通である。

 有名なミステリー作家だったり、女流恋愛作家、あるいはSF作家などの著名な人が審査員として名を連ねているが、何百という応募の中から、選考された五つくらいの作品の中から、新人賞が選ばれる。

 つまり五人になるまでに、誰からどのように審査されたのか、分からないということだ。しかも小説家になったとしても、主導は出版社。自分が書きたいものが書けるかどうか、分からないのだ。

 よく作家がテーマのドラマやマンガがあったりするが、そのほとんどが締め切りに追われ、夜もまともに眠れなかったり、担当に缶詰めにされて、自由などどこにもなかったりするのを見ると、

「小説家って、一体何なんだ?」

 と考えさせられたりもした。

 さらに、小説家になるためのもう一つの方法として、

「出版社に小説を持ち込む」

 というのがあるが、これこそ、絶対にありえない。

 なぜなら、直接渡しても、来訪者が会社を出た瞬間に、作品はごみ箱の中、編集者は、来客があったことすら忘れているだろう。

「こっちは素人の戯言に付き合わされるほど暇じゃないんだ」

 と言わんばかりである。

 そんな小説家を目指そうなどと思わずに、

「気楽に自己満足でいいんだ」

 と思いながら、小説を書いている時は結構楽しかった。

 そして、そのうちに時期が来て、いよいよ機関誌に自分の作品が載る時がやってきた。

 それまでは書き溜めてはいたが、誰にも見せることもせず、暖めてきたのだが、さすがに機関誌に載せるのだから、前もって部長に見せる必要があった。

 機関誌発行の時は部長が編集長も兼ねていて、

「一応、機関誌としての発行ではあるが、一応の体裁は整えておかないとな」

 ということで、見てもらった。

 すると。

「なかなかいい作品じゃないか。やっぱり小説理論をしっかり持っているだけのことはあるよな」

 と言ってくれたのが嬉しくて、機関誌に自分の作品が載ることで、少し有頂天になっていたのだった。

 文芸サークルには十人ほどの部員がいたが、絶えずサークル活動に出てくるのは、半分もいない。ある程度自由なのが売りというところもあって、おのおのの自主性に任せていたが、機関誌の発行の際には、部員が皆エントリーしてくる、中には一度も逢ったことのない人の名前もあるくらいで、

「何か、釈然としないな」

 と思うほどであった。

 一年、二年と、何度か機関誌に小説を書いて自己満足に浸っていたが、そのうちに、あれは二年生の頃であっただろうか、急に聡子の小説が話題になってきた。

「石松さんの小説が、今キャンパス内で話題になっているようだぞ」

 という話を同じサークルの仲間から聞かされた。

「へえ、それはすごいじゃないか」

 とまるで他人事のように言ったが、実際にはかなりのショックだったことは否めない。何と言っても、自分が誘いかけて入ってもらった相手なので、素直に一緒に喜んであげれればいいのだろうが、とてもそんな気にはなれなかった。

「自己満足でいいと思っていたくせに」

 と自分にいい聞かせるが、どうにも納得がいかないようだ。

 なぜなら、小説を書いている時の自分を、笠原はかなり美化しているようだったからだ。これこそが自己満足であり、普通なら自己満足でいいのであれば、他人のことはどうでもいいはずなのに、どうして我慢ができないというのか、それはきっと相手が、聡子だからだということは分かっていた。

 しかし、その理由ということになると、自分でも分かっていなかった。ひょっとすると分かってはいるが、分からないと思い込んでいたのかも知れないが、少なくとも今抱いている感情が、嫉妬であることに変わりはない。

 元々、嫉妬深い方だったのは間違いないことだったはずなのに、どうしてこんな気分になるのか、どうして自分を抑えられないのかが分からなかった。

「嫉妬の彷彿」

 というと、どうなのかと思うが、自分の中で、

「何かを彷彿させた結果が嫉妬だった」

 ということだということで、敢えてこの言葉を使いたいと思うのだった。

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