第36話「子羊の血晶」



 アンジュがその場についてまず思ったのは――


(うわっ、なにこの変な魔法陣!)


 ……という、なんとも魔術師らしいものであった。


(召喚術と使役術と契約術と……あとなにこれ、空間歪曲? でも一部が欠けてて真っ当な効果が出てないし……あ、これ竜脈の抽出のために迂回接続してるのか。なんともまあ歪な……――って、そうじゃないわ)


 魔術師としてフル活動する脳を切り替えて、アンジュは現状把握のために周囲に目を向ける。


 部屋の中央付近で倒れるカレンと、その傍に立つ誘拐犯・パトリック。

 鷲と獅子が混ざった魔獣(たぶんグリフォン)が魔獣使いであるパトリックのやや後ろに侍り、皆から少し離れたところに黒髪パッツンの少女が倒れている。


「っ、ミュリエル……」


 うつ伏せに倒れる黒髪パッツンの少女を目にして、やや遅れて追いついたローラが名を呼んだ。事前に特徴をローラから聞いていたが、なるほど彼女がアンジュの監視をしていたという「影」か。


 ……アンジュの探知の魔術に引っかからない隠密術の使い手、と考えるともの凄く思うところはあるが、まあ一旦置いておく。彼女のおかげでカレンの居場所がわかったのだし。


 と、思考を回していたアンジュに、驚愕からか別の要因によるものか固まっていたパトリックが、なんとか持ち直してこちらに鋭い視線を向けてきた。


「どうしてキミがここに? いや、?」

「ここに来られたのはミュリエル……と、ローラのおかげ。目覚めたのは、そうね、いつもと違う時間に寝たから、深い睡眠にはならなかったんじゃない?」

「そんなことは関係ないッ! キミたちに盛ったのは、上級ダンジョンのボスすら眠らせる超強力な睡眠薬だ!」


 唾を飛ばして叫ぶパトリック。彼はよほど薬を信頼していたようだ――いや、信頼していたのはそれを用意した存在だろうか?

 というかやっぱり盛られたのか……とショックを受けつつ、アンジュは黙ってやつの話を聞いてやる。


「カレンの目覚めが早いのはわかる。なにせ、いずれ勇者となる肉体だ。非常識なレベルで耐性があっても不思議ではないし、……そもそも彼女はアラヤの王族だ。毒には慣らされているだろう。――だが」


 ギッ、とアンジュを睨むパトリック。


「キミはただの人間だ。勇者パーティーに入るほど優秀な使だったとしても、教団の兵器開発部が作った薬に抗えるわけがない」

「……あんたがどれだけその薬を信頼していたかは知らないけど」


 ふんっ、とアンジュは鼻を鳴らして、


「あたしみたいなには意味ないみたいね。ご愁傷様」

「ぐぅ……ッ」


 悔しそうに呻くパトリック。アンジュはふふふっ、と邪悪に笑みを浮かべてみせた。


「いやあなた、眠らされたのだから意味はあったのだし、そもそも魔術師も魔法使いも関係ないでしょう」


 ローラがぼそっとこぼした言葉に、アンジュはピクリと片眉を動かす。


「……うっさいな。いいからあんたは、とっととあんたの『影』を助けに行きなさいよ。あの変態はあたしがどうにかするから」

「ええ、そうさせてもらうわ。――あなたなら大丈夫でしょうけれど、いちおう、気をつけなさいよ。ここは敵の工房なのだから」

「はっ。誰に言ってんのよ」


 鼻で笑ってやれば、ローラは呆れたように溜息を吐いた。失礼なやつである。


「……ふむ。どうして当代最強の魔法使いまでいるのか、困惑するばかりだが」


 低い声で唸ったパトリックは、掌を床に向け、魔法陣に魔力を注ぐ。


「今、止めが入らないのであれば、僕が貰っても問題ない――という解釈で良いのだろう」


 誰に向けての言葉なのか。少なくとも、やつの視線の先、すなわちアンジュ相手ではない。あるいはただ思考を口に出しただけか。


 ともあれ、やつは戦闘態勢に入った。

 工房の主が、あらゆる仕掛けでもって侵入者へ牙を剥く。


「銀の少女よ。キミが真の芸術に相応しい精神こころなのか――見せてもらおう!」


 床に引かれた色とりどりの線のうち、青色が光を放ち意味のある陣を形作る。

 瞬間、青白い雷光が天井を突いた。

 召喚術と契約術の要素を混じらせてごった煮になっている使役術(亜種)によって喚び出された魔獣――天馬ペガサスいななくと、雷鳴と共に青白い閃光が縦横無尽に走る。


「雷鳴と雷光を運ぶ馬」という伝承からそういう機能でも付けてみたのだろうか、などと考察しつつ、アンジュは魔力をおこし、つま先でトントンと床を鳴らす。


「芸術とか精神とか……どぉーでもいいわ、そんなこと」


 面倒くさげに呟いて。

 魔術を起動。アンジュの足下から伸びた影が、鋭い槍となってペガサスに襲いかかる。

 雷を撒き散らす天馬はその力で影の槍を焼き切ろうとしたようだが、威力が足りない。逆に影の槍が稲妻を呑み込んで襲いかかる。


「ぐっ」


 影の穂先がペガサスの体に触れる前に、パトリックは魔力供給を止めた。魔法陣が消え、魔獣は姿を消す。標的を失った影の槍はくうを貫いた。

 攻撃は無駄撃ちになったが、アンジュとしては問題ない。


「〝貫け〟」


 命令対象は、獲物を逃がした影の槍。

 再度命令オーダーを与えられた影の槍は、カクンと折れて軌道を変える。新たな標的・パトリックに向かって一直線に飛び出した。


「ち――」

「〝縛れ〟」


 パトリックの足下で影が蠢き、縄となって足に絡みつく。影縫いの魔術。今まさに回避のために動き出そうとしていたパトリックは、文字通り影に足を取られて行動を止められる。

 そして影の槍が腹を貫き、縄が足を縛りへし折る――。


「……へえ」


 が、風穴の空いた腹から血が吹き出ることはなく。

 さらにはあらぬ方向へねじ曲がった足は、まばたきの間に何事もなかったかのように正常な状態に戻っていた。

 被害の無効化、いや部屋に仕込まれた術式からして移し替えか――と当たりを付ける。


「ふ……工房の主をそう簡単に討ち取れると思ってはいまいな」


 うっすらと額に汗を滲ませながらの言葉だったのは、恐らくアンジュの魔術に籠められた膨大な魔力に一抹の不安を覚えていたからだろうか。理性でわかっていても恐ろしいものはある。

 その恐怖を誤魔化すように、パトリックは叫んだ。


「――トレグリフォン!」


 やつは魔獣使い、武器は己の使役する魔獣。

 鷲獅子は威嚇するように咆哮すると、翼を広げて爆発的な速度で突進してきた。飛行するわけでもないのに翼を広げる理由があるのか――と思ったが、なるほど、翼には触れた空気を操る術が仕込んであるらしい。急加速の仕組みはこれだろう。


 刹那に読み切り、アンジュは人差し指を向ける。

 狙いは右翼。


「〝斬り裂け〟」


 狙い違わず。

 魔術で作り出した真空の刃は、グリフォンの右翼を付け根から切断した。

 グリフォンは「ギュォアッ!?」と奇妙な悲鳴を上げ、バランスを失い転倒する。


「なっ……トレグリフォン!?」

「とっととカレンから離れてくれないかしら。――〝吹き飛べ〟」


 使役する魔獣が片翼になり驚愕するパトリックへ、アンジュは指を向ける。指定した地点に空間亀裂を作り出し、その作用で爆発的な風を吹かせる魔術。パトリックは為す術もなく宙を舞った。


 どちゃっ、と壁に激突するパトリックに、アンジュは追撃の槍を放つ。今度は氷で作った長物は、パトリックの腹を貫くと、背後の壁に半分ほど突き刺さって止まった。


「邪魔だから、しばらく大人しくしてなさい」


 壁に縫い止められたパトリックにそう吐き捨てると、アンジュはグリフォンの横を抜け、カレンの傍に膝を突く。


「カレン! 大丈夫っ?」

「あ……んじゅ……ッ」


 ごめん、なんて続けてくる友人に、アンジュは「ふんっ」と鼻を鳴らして、


「そうじゃないでしょっ」

「……あり、がと……」


 望む言葉を受け取って、アンジュは微笑みを浮かべながら、カレンの体を見る。

 外傷は恐らく問題ではない。顔色が悪い。呪いか、毒か――。


「どく、だよ……ばじ、りすく、の……」

「はあっ? ……またずいぶんと厄介なのを手懐けているわね、あのロリコン」


 性癖はともかく、使役術士テイマーとしては優秀なのかもしれない。

 自身の工房であることが大きいとはいえ、勇者候補カレンを追い詰められたのだから、その実力は本物なのだろう。性癖はともかく。


「……ま、頭のネジ飛んだやつが妙に強いのは魔法使いあるあるよね」


 呟き、手をカレンの胸――心臓の上に当て、解毒魔術を施す。

 正直に白状すると、アンジュは治療系の魔術の腕はそこそこ止まりだ。……いや、大抵の傷は治せるし、何ならちょん切られた腕を生やすくらいならできる。が、毒のような複雑で専門知識の必要なものの対処は苦手なのだ。


 しかもバジリスクの毒と来た。さらにいえばやつの使役する他の魔獣を見るに、どこかしら改造が加えられている変種だろう。

 これはもう専門知識のある医者でも治療は厳しいだろうし、もはや霊薬なんて呼ばれるものの出番だ――通常ならば。


「面倒な解析とか、あたし好みじゃないのよね」


 術式を読み解くのは好きだ。使い時が限定される複雑な術式を構築するのも大好き。

 でも毒素がうんたら、どこどこに作用するからなんたらっていう免疫を強化して……なんて面倒なことはしたくない。

 だからアンジュの解毒は、


「〝癒えろ〟」


 魔術とは、世界法則をねじ曲げて、自身の望む現象を現実世界に齎す技。

 すなわち――もの凄く強引に言えば、「アンジュが〝毒よ消えろ!〟と言えば毒は消えるし、後遺症も残らない」のだ。


 ――今はなんだか調子が良いし、魔力をどんどこ注ぎ込んでやればできる気がする。


 アンジュの保有魔力量は一般的な魔法使いよりも遥かに多い。歴代最強だの持て囃されるローラには一歩劣るが、異常な回復力も相まって、どんな大魔術を使う気だってほどに魔力を消費しても倒れたりはしない。


「……まるで竜脈から直接吸い上げているみたいね」


 と、いつの間にか傍に来ていたローラがぽつりと呟いた。彼女はミュリエルをカレンの隣に寝かせて、


「この子もお願い」

「……まあ良いけど。相応の態度ってものがあるでしょ」

「細かい子ね。――お願い、アンジュ。ミュリエルを、あなたの同僚を治してちょうだい」

「はいはい。あいっかわらず偉そうなやつ」

「事実、私は偉いもの」

「うっざ」


 ミュリエルもカレンと同じ毒を受けているようなので、空いている手をミュリエルの胸に当てて魔術の効果対象を追加し、治療を施す。


「……って、あたしの同僚? どういうこと?」

「ミュリエルは私の『影』、あなたは私の配下。だから同僚」

「ざっけんな。……せめて元・同僚にしなさいよ」

「今もあなたは私の配下よ」


「だから配下じゃないって言ってるでしょ」というアンジュの反論を聞き流して、ローラは火の玉を放つ魔法を発動させた。視線の先にはグリフォン。パトリックの命令を受けたのか突進攻撃を仕掛けてくる片翼の鷲獅子を、ローラは容赦なく魔法で焼く。


「……、魔力抵抗が強いのかしら」


 顔面に三発の巨大火炎球を受けても怯まないグリフォンにそんな感想をこぼしたローラは、すぐさま別の魔法を発動させた。爆発を引き起こす上級の火炎魔法。ちょうど右翼――切断面に爆発をぶち当てると、グリフォンは大きく吹き飛び甲高い悲鳴を上げた。


「……相変わらず腕は良いわね、あんた」

「当然よ。私はメイザースの次期当主だもの」


 ふぁさっ……と金髪を手で払いながら、自信に溢れた顔で言ってのけるローラ。ウザいので半眼を向けてやれば、「なによ」とギロリと睨んで来やがる。

 と、


「……ありがとう、アンジュ」


 カレンがゆっくりと体を起こした。毒が完全に抜けたようで、顔色も戻っている。


「大丈夫なの、カレン?」

「うん、もう大丈夫。――助けてくれてありがとう、アンジュ」

「ん、仲間……友達だもの、助けに行くのは当然だわ」


 どうしてか少しだけ熱い頬を指の先で掻きながらアンジュは答える。カレンはどこか照れくさそうに笑い返してから、ローラに向き直った。


「ローラも、ありがとう。キミがミュリエルを付けてくれたおかげで、私は助かった。……キミは私のことが嫌いだと思っていたんだけどね」


 カレンからの視線を受け、ローラはわずかに視線を泳がせた。


「嫌いというか……、別に、なんとも思っていないわよ」


 それからローラは誤魔化すように咳払いをして、


「貸し一つよ」

「それは……に?」

「決まっているでしょう。勇者候補カレン・メドラウドに、よ」

「……ありがとう」


 ちょっとやりとりの意味がわからず、アンジュは首を傾げた。ちらりとローラが視線をこちらに寄越し、失礼なことに溜息なんぞ吐きやがる。こんにゃろ……と思っていたら、カレンも苦笑いしていた。どうして……?


 やりとりの間にミュリエルの治療も終わり、何事もなかったようにすくっと立ち上がった「影」の少女の「治療ありがとう、同僚」という言葉に、アンジュは呆れ気味に訂正を入れる。ローラに影響されているぞ、この子……!


 ――ともあれ。

 これで救出対象は無事に確保できた。

 あとは変態ロリコン誘拐犯をとっちめて、気分良く帰るだけだ。


 遠くに放られていた聖剣を魔術で引き寄せ、カレンに渡すと、勇者の卵は礼を口にした後、少しだけ考え込むように顎に手を当てた。どうしたんだろう、とアンジュが首を傾げていると、


「……ちなみに、アンジュ。治療の際に胸を触る必要、あった?」


 ぼそりと呟くように小声で訊いてくるカレン。なぜか自分の胸を隠すように腕を回している。細められた目に浮かぶ感情が何か、アンジュにはわからなかったが――とりあえず正直に答えた。


「ないわよ」

「……、は?」

「いや完全にないわけじゃないんだけど……結局意味なかったというか」


 アンジュの回答に、ほんのり頬を赤くして睨んでくるカレン。すると、横からローラが軽く説明してくれる。


「普通の治癒術なら、心臓を起点にするのが効果的なの。心臓は全身に血液を送り出す臓器だから、そこへ力を乗せる形にすると治癒効果が浸透しやすいのよ。……ただまあ、アンジュは馬鹿みたいに魔力を過剰に使ってごり押ししたから、そういう工夫の意味がほぼないってことよ」

「……そのとおりだけど、あんたに言われるとなんかムカつくわね」


 たぶん「馬鹿」と言われるのが癇に障るのだろう。なんとなく呆れた雰囲気を醸しているのもイラッとくる。この幼馴染みは本当に……。


「…………、(まあアンジュは私より立派なものを持ってるし、治療のためなんだから邪な気持ちなんてあるはずないか)」

「? どうしたの、カレン?」

「あはは……なんでもないよ、うん」


 誤魔化すように笑うカレン。


「……ちなみにのおっぱいの感想は?」

「は?」


 いきなりなんだこいつ、という意味合いのアンジュの「は?」に、質問主・ミュリエルはきょとんとした目でこちらを見て、


「え……意味なくても触ってたなら、おっぱい揉みたかったんじゃ……?」

「んなわけないでしょ馬鹿なの? 脳内まっピンクなの?」

「……そもそも揉むほどのものがないでしょう、ミュリエル」


 はっきり言ってしまうローラ。主人からのこうげきにまな板少女ミュリエルは「がーん」などと口に出してショックを示した。


(…………あっ。カレンの様子が変な感じだったのって、そういうこと?)


 遅まきながら気づき、これ謝った方が良いのかな……と真剣に考え始めるアンジュ。


 と――。

 緩んでいた空気を引き裂くように、声があった。


「――まったく。前もそうだったが、やはり上手くいかないものだな」


 溜息交じりの、どこか苛立ちの乗った声。

 それを発したパトリックに視線を向ければ、やつはゆっくりとこちらに歩いてくる。腹の槍は引き抜かれ、傷はない。


「八年前のあの時とは違って、ここは僕の工房アトリエなんだがな……。どうやら僕は、魔術師を名乗る存在と相性が悪いらしい」


 八年前、カレンがパトリックに誘拐された際、アンジュの師匠である旅の魔術師シオンに助けられたとカレンから聞いた。恐らくそのことを言っているのだろう。


 アンジュの隣にカレンが立ち、聖剣の刃をパトリックに向ける。反対側にはローラが並び、魔力を熾して魔法の準備をしていた。ミュリエルはローラの背後に隠れ、気配を段々と薄めている。


 戦闘準備万端の仲間たちにアンジュは口元を緩め、それからパトリックをキッと睨む。


「あんたがカレンを、あたしの友達を誘拐して変なことしようとしていたことは許せないし、今もイライラが収まらないけど……正直言って、人殺しになる気も、友達を殺人犯にする気もないの」


 隣でカレンが肩をわずかに揺らしたのを視界の端に捉えながら、アンジュは続ける。


「それに――……、いちおう確認するけど。あんた、転移術は得意?」

「ふむ……? さて、どうだかな」


 敵対者にわざわざ自分の情報を渡す馬鹿はいない。

 だが、アンジュは工房に仕掛けられた術を見て、すでにパトリックの実力のほどは見切っている。


「じゃ、勝手に評価するわね。――あんたの転移術は実用段階にない」


 断言する。


「……というか、召喚術の要素を用いることで再現しているように見えるだけだから、そもそも転移術を使ってるわけじゃないわね」

「……、ふむ。それで? なにが言いたいのかね」


 困惑と、わずかな苛立ちを乗せたパトリックの声に、アンジュは軽い調子で続ける。


「ただの確認よ。――、っていう、確認」


あかていの檻』での強制転移。カレンは「てん教団の仕業だろう」と推測し、そこからアンジュは「天華教団には自分を上回る魔術師が存在する」と考えたのだが――。

 パトリックは、件の魔術師ではない。

 結論づけ、アンジュは溜息を一つ。


「……もしここにアレをやった魔術師がいれば、魔術戦を動画に撮ろうと思ってたのになぁ」

「アンジュ……」


 カレンが呆れたように名を呼んだ。「わかってるわよ、ちゃんとモザイク入れるの頑張るつもりだったし」とぼやくように言えば、「いやそういう意味じゃないんだけどね……」とカレンは苦笑いを浮かべた。


「ふ。……僕をどう評価しているのかはこの際置いておこう。だが――ここは僕の工房アトリエだ。多少味方が増えたからといって、そう簡単に逃げられると思っているのかね?」

「逃げる? ハッ。軽くぶちのめして優雅に帰ってやるわよ」


 すでに工房に仕掛けられた術は読み切った。アンジュならそれを強引に焼き切ってショートさせてやることも、術式をぐちゃぐちゃに書き換えてところてんを喚び出す謎の術に変えてやることだってできる。


 だからこその自信に――果たしてパトリックはアンジュたちの実力をどこまで理解しているのか、にちゃりと笑った。


「ふむ、そうだな……」


 気色悪い表情を浮かべたまま、やつはトレンチコートのポケットに手を突っ込んだ。


「そちらが四人で、しかも当代最強の魔法使いと勇者パーティーの魔法使い――」

「魔術師よ」

「…………魔術師がいる。僕は魔獣使いゆえに人数不利などいくらでも覆せるのだが――さすがにが悪いことくらいは理解している」


 言葉尻と共に、パトリックはポケットから手を引き抜いた。何かを持っている。


「……、瓶?」

「赤い、錠剤……みたいなのが入ってる……?」


 アンジュが眉をひそめながら呟くと、目をこらして中身を確認したカレンが囁いた。


「これは、教団の同志からの贈りものなのだがね――」


 パトリックは瓶のコルクを外し、一粒しかないそれを口に含む。

 ごくりと嚥下して、彼は語った。


「同志曰く、『子羊のけっしょう』というらしい。最低でも単騎で上級ダンジョンくらいは踏破できるようになる力が手に入ると言っていたかな」

「……あんた昨日、一人で『賢者の逆さ塔』に来られてたんだから、大して強化されないでしょ」

「最低でも、だよ。……なに、効果が薄くとも問題ない。ここは僕の工房アトリエなんだ、下には様々に改良した僕の魔獣がいる。三体のガルダ、七体のハティ……いや昨日一体死んだから六体か。グランガチも、ワイバーンも、クエレブレも、バジリスクもペガサスも数を揃えている。それら全てを解放すれば、キ――キキキッミッッッたぁち、ぃぉをぉ――?」


 言葉が、不自然に歪んだ。

 パトリックはにちゃり顔のまま硬直し――ぐわっ、と充血した目を見開いた。


「ぁ、が――べべべ?」


 意味を成さない声を吐いて、パトリックが顔に手を当てた。それから奇妙な言葉をブツブツ呟き始める。


「……様子がおかしいわね。ミュリエル、退路の確保をなさい」

「ローラ様、ぶっちゃけアレをす必要とかないし、適当に通報して逃げて良いんじゃ……?」

「私のに手を出したアレを一発ぶっ飛ばしたら退散するわよ。良いから早く」

「ん」


 音もなく走り出すミュリエル。まっすぐに出口――アンジュとローラが入ってきた扉に向かう「影」の少女に、しかしパトリックはアクションを起こさなかった。

 妨害する余裕もない――あの様子が演技でないなら、いったい、やつになにが……?

 と、眉をひそめるアンジュの目に、変化が映った。


「ぐ――ぶ、ぇびゃ、びびいびぇびゅ――るぉぁぁぁああああああああ――ッッッ!!!???」


 叫んで。

 パトリックの胸部が、

 泡立つように、煮え立つように。裂けた肌からが溢れ出す。

 ソレは、手のようなシルエットになった。

 体内、心臓から――アンジュにはそう見えた。


「――ッ」


 なにか、不味いことが起こっている――そんなことはわかっている。

 ただの気味の悪い光景、というだけではない。ナニカ、何かがおかしな、この世に存在してはいけないものが今にも産まれようとしているような――。

 予感は、果たしてどこからくるものだったか。


 手のようなぶよぶよは伸び続け、やがて天井を引っ掻くようにして振り下ろされる。すでに腕ができていた。肩があって、首が立って、頭が乗っていた。

 つまりは

 そして、


「アレは――」


 呟くように、カレン。

 金の瞳を揺らす勇者の卵は、聖剣を握る手の力を限界まで強めながら、パトリックだったもの――をこう呼んだ。


「『ルーラー』……」

「? アレを知ってるの、カレン……?」

「四騎士……星外から齎された、異形だよ」

「星外――」

「うん。つまりは、星の敵で……勇者の敵」


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