第5話 西暦2024年11月1日午前7時59分
オレンジ色の合皮でできた物体が飛んでくる。俺はとっさに手を伸ばして、それを受け止めた。俺は立ち尽くしたまま、両手で持つそれを眺める。
「バスケットボール?」
通勤通学の通行人でごった返しているはずの町中で、なぜこんなものが飛んでくる?
「きよぴー! ドリブル!」
女子の罵声が聞こえた。
聞き覚えのある声だ。
俺は視線を上げる。
「は? 何だよ、これ」
信じられなかった。
俺が立っているのは、東京の町ではない。
体育館だった。かまぼこ型の屋根の下、ワックスがかけられた木の床が、水銀灯の明かりを受けて輝いている。周囲には、トレーニングウェアをまとい、バスケットボールを持って駆けまわる男子たち。彼らがドリブルするたびに、床が震えていた。
しかも、ここは見覚えがある。忘れるはずがない。俺がかつて3年も過ごしてきた場所。
藤森高校だ。
なぜここに?
俺は東京にいたはずだ。さっき目の前にいたツインテールの女の子はどこにいる?
それに、俺が着ているもの。
リクルートス―ツではない。黒のトレーニングウェアだった。靴は革靴から体育館シューズに変わっている。
「きよぴー!」
また、女子の罵声。そしてボールが飛んできた。俺はとっさに、抱えているボールを放し、飛んできたボールを取る。
「ぼんやりすな言うとるやろ! ドリブル!」
はっとして、声がしたほうを見る。
ショートヘアの女子。きつめの視線。半袖半ズボンのトレーニングウェアで、肌寒い中でも体を動かせば温まるとばかりに素肌をさらしている。
「おま……なぜ……」
俺の体が震え始める。
ボールが飛んできたほうに立っていたのは、藤森高校を追放された監督の歳が離れた妹で、新人大会の騒動に怒り学校を去っていった、藤森高校男子バスケ部の元マネージャー。
佐藤青海だった。
「もう、しっかりしいや。こっちから
青海が俺に肉薄してくる。俺はとっさに腰を下げた。ドリブルで、伸びてきた青海の手をかわす。
「何だよ、どういうことだよ!」
高校3年に上がったとき、佐藤青海は俺の前から消えた。以来、会ったことも連絡を取り合ったこともないし、どこで何をしているのかも知らない。
なのにどうして目の前にいる? しかも、5年前の高校生だった頃と変わらない見た目で。
「はあ? わけわからんこと言わんといて」
青海はしつこくスティールをかけながら言う。
「きよぴーが朝練付き合え言うたんやろ!」
「朝練? どういうことだ」
「おいきよぴー、こっちだ、パス!」
また別の声が聞こえてきた。
左斜め前方に、腰をかがめて片手を上げている男子がいる。それで俺の動きが止まった。
「く、ろだ……?」
黒田連。ポジションはシューティングガード。
そして新人大会の試合で右膝をやってしまった俺とともに、左足首を負傷し、選手生命を棒に振った男。
手元に強い衝撃が走った。青海にボールを奪われたのだ。
「ちょっときよぴー、何ぼさっとしてるん? 今のは黒田にバウンドパス出すとこやろ」
ボールを持ったまま、青海がため息をついている。
「青海、そんな厳しいこと言うなって、なあ」
別の方向から声が飛んできた。
そしてこちらに駆け寄ってくる男がいる。どすどす走るたびに体育館の床が揺れ、びっくりして俺は動けない。
その男は、俺に飛びついてきた。
「服部!」
「疲れてんだろ、きよぴー、練習試合よう動いていたからな! はは!」
俺にとびついたそいつは、わしゃわしゃ髪を撫でまわしてくる。
服部玄太。ポジションはスモールフォワード。
「よしよし、青海のやつ厳しすぎるからな。ちゃんと休まないとだよな」
――だるがらみかよ。
だが懐かしい。
「服部、甘やかしたらあかん。昨日はオフやったろ。すぐばててたら、きよぴーキャプテンなんてやっていけんよ」
キャプテン……?
「おー、青海こわー。俺の心のドMな部分が刺激されるー」
「な、何言うてんねん! まじめにやり!」
青海が顔を引きつらせる。
「もうちょっと罵ってもいいんだぜ、にひひ」
「うっ……」
この青海と服部のやりとりも懐かしい。3年生が引退し、止める先輩がいなくなったのをいいことに、服部のだるがらみは加速していた時期だった。そして青海は、長い付き合いなのに服部に調子を崩される。
まさに5年前の情景。
「おーい、どうするんだ。朝練続けるのか? 切り上げるのか?」
声が飛んでくる。俺はゴール下にいるそいつに気づいた。
真川七翔。ポジションはパワーフォワード。
「こっちの相棒はまだやる気だけど」
真川は、隣の男子を見やる。身長190センチを超える巨漢だ。
「時間いっぱいまでやると言ってなかったか? きよぴー」
朝倉悠生。ポジションはセンター。口数は少ないが、真川とは相性がよく、ゴール下でダッグを組んでシュートを狙うことが多い。
黒田と服部、真川、朝倉。
5年前の藤森高校男子バスケ部主力メンバーが、この場にそろっていた。
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